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沖縄の「辺野古・普天間」問題で陳情―朝日新聞全国版に紹介

  • 沖縄の「辺野古・普天間」問題で陳情―朝日新聞全国版に紹介

 

 花巻市議会の3月定例会で、私が提出した日米地位協定の抜本的な見直しを求める陳情が賛成多数で採択されたのを受け、今度はその延長線上の「辺野古・普天間」問題に関する陳情書を13日付で同議会に提出した。6月7日に予定されている6月定例会の総務常任委員会の審査に付されたうえで、本会議最終日の13日に賛否がはかられる日程になっている。

 

 この問題については、沖縄県民でつくる「新しい提案・実行委員会」(安里長従代表)が今年3月、「名護市辺野古の新基地建設の阻止に向け、米軍普天間飛行場の代替施設の必要性を含めて、候補地を国民全体で議論し、民主的に決めるよう働きかける」―陳情を当花巻市議会など全国すべての1788地方議会に提出している。しかし、県外や郵送による請願・陳情についてはほとんどの議会で審査対象から除外しているケ-スが多く、当市議会も「取扱要綱」でそう定めている。本土の地方議会では革新系会派が主導する形で、東京都の小金井、小平両市議会が同趣旨の陳情を採択。意見書を内閣総理大臣など関係機関に提出しているが、陳情者はいずれも沖縄出身者。このため、私は「新しい提案」の趣旨に賛同し、本土に在住する個人として陳情することにした。

 

 一方、岩手県議会は3月定例会で全国で初めてとなる「沖縄県民投票の結果を踏まえ、辺野古埋め立て工事を中止し、沖縄県と誠意をもって協議を行うことを求める」―請願を共産党、社民党、改革岩手の各会派所属の議員が紹介議員となって採択している。沖縄県における県知事選や県民投票、衆院補選などで示された米軍基地反対の「民意」に対し、今度は本土側がどう応答するかが問われている。以下に陳情書の全文を掲載する。

 

 

件名

 

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設(新基地建設〉を直ちに中止し、「世界一危険」だと言われる同飛行場(普天間基地)の今後の運用のあり方について、沖縄県を除く県内外への移転が可能かどうか―国民的な議論を盛り上げることにより、民主主義と憲法に基づいて公正に解決することを求める。

 

陳情の趣旨

 

 沖縄県にはわずか0・6%の国土面積に米軍基地の約70%が集中している。この基地偏重の実態は逆にいえば、「国民全体の安全を担保する役割の大半が沖縄に押し付けられている」ということを意味する。各種世論調査では、米軍基地の存在規定である「日米安全保障条約」を支持する国民の割合は8割を超えている。「安全保障」は日本全体の問題であるという自明の立場に立てば、こうした負担の一方的な押しつけは「沖縄差別」の最たるものと言わざるを得ない。そして、この構造的な差別を底支えしているものこそが、本土側の「無知・無関心」である。今回の陳情は「憲法の根本義」―いわば、真の民主主義の実践への試みでもある。

 

陳情の理由並びに内容

 

当花巻市議会は3月定例会で、米国側に治外法権的な「特権」を認める日米地位協定の抜本的な見直しを求める陳情を賛成多数で採択した。一方、辺野古移設に伴う埋め立て工事の賛否を問う県民投票(2019年2月24日)で、反対の意思表示が7割以上に達したにもかかわらず、工事は現在も強行されている。新基地建設はこうした沖縄県民の民意に背を向けるだけではなく、全国市議会議長会や全国知事会の「見直し」要望・提言に見られるように、全国的に高まっている地位協定見直しの機運にも逆行するものである。

 

他方、政府は普天間基地の返還について、「辺野古移設が唯一の解決策」という態度を崩していない。しかし、埋め立て海域の大浦湾では、専門家の間で軟弱地盤や活断層の存在が指摘され、政府は工期や工法、工事費の詳細さえ明らかにしていない。こうしたことから、返還どころか逆に普天間基地の固定化につながるのではないかという懸念さえ出ている。

 

そもそも、普天間基地に駐留する海兵隊は1950年代、「反基地運動」が強い本土から移駐してきた経緯がある。したがって、沖縄駐留を正当化する軍事的・地政学的な理由はきわめて根拠が薄弱で、実は「本土側の理解が得られない」という“政治的理由”による駐留だったことを政府高官も認めている。

 

こうした沖縄の現実を「他人事」としてではなく、本土の側が当事者意識をもって議論し、具体的には以下の3点についての意見書を採択し、地方自治法第99条の規定により、政府並びに関係機関に提出していただきたく、ここに陳情する。

 

1)辺野古新基地建設工事を直ちに中止し、普天間基地を運用停止にすること

 

2)全国民が責任をもって、米軍基地が必要か否か、普天間基地の代替施設が日本国内に必要か否か―当事者意識をもった国民的議論を行うこと

 

3)国民的議論において、普天間基地の代替施設が国内に必要だという結論になるのなら、沖縄の歴史及び米軍基地の偏在にかんがみ、沖縄以外の全国のすべての自治体を等しく候補地とし、民主主義及び憲法の規定に基づき、一地域への一方的な押し付けとならないよう、公正で民主的な手続きにより解決すること

 

 

 最後に「受難者」に寄り添うことの大切を訴えた郷土の詩人、宮沢賢治のメッセ-ジを掲げたい。当市がまちづくりの基本にすえる、この賢治精神はそのまま、沖縄の地に直結していると思うからである。

 

●「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)

●「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ」(詩『雨ニモマケズ』)

 

 

 

(写真は日々、陸地化が進む辺野古新基地の建設現場=インタ-ネット上に公開された写真より。沖縄県名護市辺野古で)

 

 

 

《追記》~沖縄、本土復帰47年

 

 沖縄が米国の統治下から日本に復帰して、5月15日で47年になった。辺野古新基地建設や普天間飛行場の移設問題などで揺れる現状について、同日付の朝日新聞は一面や社会面、社説などで特集記事を掲載した。「沖縄の基地負担/『本土も我が事に』、「辺野古移設の可否/『国民的議論を』」などの見出しで報じた記事の中に、本プログの陳情(同上)も紹介されている。以下にその部分を転載する。

 

 「本土側の動きも出始めている。岩手県花巻市の元市議増子義久さん(79)は安里さんたちの動きに合わせ、13日にほぼ同じ内容の陳情を市議会に提出した。市外在住者からの陳情は議会運営委員会でコピ-を配るだけだからだ。『安全保障はどこの住民にも関係する問題。本土の議会は議論を始め、沖縄に応答すべきじゃないか』(増子氏)。…衆院事務局などによると、2018年4月以降、堺市や岩手県など少なくとも10の地方議会で、辺野古での工事中止や沖縄との対話などを求める意見書が可決された。…新潟大准教授の左近幸村さん(39)は『沖縄の基地問題を考えることは、安全保障や民主主義、地方自治など、自分たちの社会を捉え直すことだと思っています』」(要旨)

 

 

 

 

 

 

 

 

翼賛と内国植民地…そして、”奴隷制”

  • 翼賛と内国植民地…そして、”奴隷制”

 

 「先の大戦の翼賛体制とはかくありき」―。平成から令和への「改元」フィ-バ-を首をすくめながら眺めているうちに、まるでシルエットのように遠い記憶の片々がよみがえってきた。「翼賛」報道一色に染まったこの国の姿に何かよからぬ予感を感じたせいかもしれない。ちなみに「翼賛」(よくさん)を広辞苑で調べてみると、「力をそえて(天子などを)たすけること」とある。「天子」とは即「天皇」のことである。リベラリストとしての現上皇をとやかく言うのではない。逆に「天皇の戦争」と言われたあのアジア・太平洋戦争で軍部と一緒になって、戦意高揚を煽(あお)ったメディアがいままた、二重写しになって目の前に現出したような思いにとらわれたのである。

 

 中国文学者の竹内好(故人)が「一木一草にも天皇制が宿る」と述べ、政治学者の藤田省三(同)がこう書いていることを最近、ものの本で知った。「象徴としての『天皇』は、温情に溢(あふ)れた最大最高の『家父』として人間生活の情緒の世界に内在して、日常的親密をもって君臨する」―。「令和」元年とはまさに、政府とメディアが一体となって演出した新たな「天皇制」の復活劇の一大政治イベントではなかったのか。目を凝らすといびつで歪(ゆが)んだ光景が去来する。

 

 上皇ご夫妻が沖縄への慰霊の旅に11回も足を運んだことをメディアは繰り返し伝えた。しかし、沖縄戦から断絶することがなく続いている「戦争の最前線」―たとえば、辺野古新基地建設の是非などと関連づけた報道は皆無に等しかった。抵抗の現場に身を置く芥川賞作家の目取真俊さん(58)はその怒りを自らのブログにぶつけた。「日米の軍事植民地と化した沖縄の状況、ヤマトゥ(本土)による構造的差別は何も変わらない。どこが新しい時代か」(5月1日付「海鳴りの島から」)。安倍「一強」政治による「天皇」の政治利用は国民の多くの奉祝気分に支えられ、いまや順風満帆の気配である。新元号発表(4月1日)の首相会見にのけぞった。わが宰相はこう言い放ったのだった。

 

 「本日から本格的にスタ-トする働き方改革は、何年もかけてやっと実現するレベルの改革だ。次代を担う若者たちが頑張っていける一億総活躍社会をつくり上げることができれば、日本の未来は明るいと確信している」(4月2日付「朝日新聞」)―。この会見には裏話がある。「首相の元号ではなく、次の時代の元号。政権の政策につなげて『安倍色』を出し過ぎれば、政治的なリスクになりますよ」(4月30日付同紙)。こうした首相官邸幹部の進言に対し、さすがに談話では言及を避けたが、会見の場ではふと口を滑らせてしまったというのが真相なのだろう。これでは政教分離などはどこ吹く風、「元号」つまり「天皇」、さらに言えば「憲法」の私物化という声が挙がっても不思議ではない。その自信のほどが憲法記念日(5月3日)でのビデオメッセ-ジではっきりと示された。

 

 2020年の憲法改正に意欲を示した安倍晋三首相はメッセ-ジの冒頭をこう切り出した。「国民こぞって歴史的な皇位継承を寿(ことほ)ぐ中、令和初の憲法記念日に…」―。何か胸騒ぎを覚えた。そういえば、天皇制を頂点としたヤマト(大和=本土)の中央集権国家は北海道(アイヌモシリ)と沖縄(琉球=ニライカナイ)の内国植民地化によって可能になったことを歴史は教えているのではないか。そのことに不意に思いが至ったのである。独自の文化を育んできた”辺境”を切り捨てる。たとえば、ヤマト言葉(日本語)の強制などの「皇国臣民化」政策が、これである。

 

 

 改元を前にした4月19日、アイヌ民族を法律上初めて「先住民族」として位置づけた「アイヌ民族支援法」が成立した。アイヌ政策推進会議座長の肩書を持つ菅義偉官房長官はこう胸を張った。「アイヌの方々が民族としての名誉と尊厳を保持し、これを次世代に継承していくことは、活力ある共生社会を実現するために重要だ」―。差別の禁止を明記し、アイヌ施策の推進を国と自治体の責務としたが、土地や資源などをめぐる肝心の「先住権」については棚上げにされた。国は「民族共生象徴空間」(国立アイヌ民族博物館)を来年のオリンピック年に合わせ、北海道白老町にオ-プンさせることにしている。

 

アイヌ民族を「先住民族」として認めることをかたくなに拒み続けてきた末の突然の政策転換である。世界の先住民族が参加する「五輪」精神を高揚するための「アイヌ利用」という魂胆(こんたん)が透けて見える。現に新法に反対する団体からは「これまでもそうだったが、アイヌを観光などの売り物にするという逆差別さえもたらしかねない」という声が出ている。「北海道旧土人保護法」(1898=明治32年)→「アイヌ文化振興法」(1997=平成9年)→「アイヌ民族支援法」…こうした流れを見ても、国がアイヌ民族の受難の歴史に謙虚に学んだという形跡はない。遠く「琉球処分」に端を発し、いまなお米軍基地の重圧に苦しむ現在の沖縄の姿がこれに重なる。

 

沖縄基地負担軽減」担当大臣の菅官房長官はいま「令和おじさん」として、人気が急上昇中らしい。アイヌの人々にアメをしゃぶらせ、返す刀で沖縄の人々にムチ、いや刀をふるう―その「特高(警察)」的な手腕がこの人の得意技である。安倍首相が「令和」をもてあそび、次期総裁候補にも取りざたされる菅官房長官の指揮の下、辺野古新基地の建設現場では連日、土砂投入が強行される。この光景はやはり、“悪夢”としか言いようがない。令和の時代はひょっとすると、新たな装いをこらした天皇制と内国植民地の再来を予言しているのかもしれない。そして、それを可能としているのは相も変わらず、北と南の“辺境”に対する本土側の驚くべきほどの「無知・無関心」である。

 

「単一民族神話」という名の“亡霊”が背後に見え隠れする………

 

 

 

(写真は「令和」の新元号を発表する菅官房長官=2019年4月1日、東京・首相官邸で)

 

 

 

《追記》~令和の時代に重い一文

 

 5月8日付「朝日新聞」にミュ-ジシャンの後藤正文さんが以下のような文章を寄せている。「令和」狂騒曲が吹き荒れる中、こうした視点で論じた言説は法哲学者の井上達夫さん以外には見当たらない。井上さんはこう語っている。「私は象徴天皇制を、日本に残った最後の『奴隷制』だと考えます。…天皇・皇族に対する人権侵害は被差別少数者の人権侵害と通底しています」(5月3日付「朝日新聞」)。―こうした冷静な議論がいま、必要なのではないか。

 

 

 平成が終わり、元号が令和に変わった。正月を迎えたように盛り上がる人たちもあったけれど、僕はその波に乗り切れないでいる。様々な差別を撤廃し、誰にでも機会の開かれた公正な社会を目指しながら、人類は歩みを進めていると僕は信じている。

 

 天皇制はそうした考え方と食い違う性質を持っている。生まれながらに特別な役割を持つ人の存在を認めることは、生まれながらに卑しい人の存在を認めることと同じだからだ。天皇制を守りながら、制度がはらむ差別的な性質を乗り越えてゆこうという意思を、多くの国民や社会からは感じない。

 

 例えば、天皇と皇族のプライバシ-は守られず、恋愛や進学などの私事についてまで報道されて、エンタ-テインメントのように消費されている。この国と国民の統合の象徴としての役割を担うだけでなく、基本的人権を制限される立場を生まれながらに引き受ける天皇とその家族の苦労を思うと、言葉を失う。

 

 出自による差別は不当だという認識が、今日の社会に広く行き渡ることを望むが、天皇制の前で僕は沈黙している。天皇の地位は「国民の総意に基く」のだと、憲法に記されている。令和の時代に読み返し、語り合うべき、重い一文だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

男やもめとお助け請負人

  • 男やもめとお助け請負人

 

 「若い力と感激に/燃えよ若人、胸を張れ/歓喜あふれるユニホ-ム/肩にひとひら花が散る…」(佐伯孝夫作詞、高田信一作曲)―。2ケ月に一度、場末のスナックに、決して若いとは言えない男女の「若い力」がサックスの演奏に合わせて響き渡る。「…花も輝け希望に満ちて/競え青春、強きもの」と、私も一緒になって大声を張り上げている。70年以上も前に作られたこの国体歌を口にすると、あら不思議…やもめ暮らしの身も青春に逆戻りしてしまうではないか。歌の力って、すごいなあ。

 

 「よかったら、聴きに来ませんか」―。今年初め、知人の佐藤加津三さん(62)から声がかかった。花巻市役所を定年退職し、いまは任用職員として釜石市役所で働いている。もう十数年来の付き合いである。私は定年後の60歳になって初めて、パソコンと向き合った。その当時、佐藤さんは役所全体のIT機器の保守点検をする仕事をしていた。鉛筆しか握ったことのない私にとって、この新兵器は未知との遭遇だった。故障続きのパソコンに向かって、悪態をつく日々…。そんな時、佐藤さんのことを知り、さっそくSOS。そうすると、あら不思議…どんな不具合も手品みたいに直してしまうのであった。

 

 万事に控えめな人だから、佐藤さんがサックスを吹くことを知ったのは大分、後になってからである。「なに、ほんの趣味なもんで…」といつも謙遜した。定年後の一時期、私は知的障がい者施設の園長をしていた。ある時、世界的なサックス奏者の坂田明さんが当地でのライブに訪れた。そんな機会がめったにない利用者にぜひ、生の演奏を聞かせたかった。長い付き合いのある坂田さんはすぐに「オッケ-」とVサイン。施設内にフリ-ジャズの音響が炸裂した。その時の利用者たちの目の輝き!?クリスマスが近づいていた。利用者たちにあの音色をもう一度…。佐藤さんに「ぜひとも」とお願いした。玄人はだしの、佐藤さんのクリスマスソングがホテルの会場にこだました。忘れえぬ光景である。

 

 「スタ-ダスト」「マンボNO5」「オ-ルウエイズ・ラヴ・ユ-」「宇宙戦艦ヤマト」「2億4千万の瞳」「天城越え」…。今年2回目のライブには老若10人以上が集まった。スタンダ-ドを含めた多様なメドレ-が狭いスナックを突き破るようにはね返った。この手づくりライブはもう20年以上、続いている。「それにしてもフィナ-レがどうして、『若い力』なんですかね」―。佐藤さんとマスタ-が顔を見合わせながら、言った。「それがねぇ、よくわからないだよね。でも、この歌って、元気が出るじゃないですか」。その通りだと思った。男やもめの「ウジ虫」退治には音楽こそが特効薬であることに納得、納得…。

 

 そんなある時、今度は県外の知人から一冊の本が送られてきた。「あなたにピッタリだと思うから」と添え書きされた、そのタイトルはなんと『絶望名言』―。文学紹介者の頭木弘樹さんとNHKアナンサ-の川野一宇さんとの対談をまとめた、NHKの人気番組「ラジオ深夜便」の書籍化である。カフカやドストエフスキ-、ゲ-テ、太宰治、芥川龍之介、シェ-クスピア…名だたる文豪の「絶望」名言がびっしり詰まっていた。「絶望したときには、絶望の言葉のほうが、心に沁(し)みることがある」と頭木さん。たとえば、カフカのこんな言葉―。

 

 「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」(『フェリ-ツェへの手紙』)―。「この言葉を読んだ時、ぼくは病院のベットで倒れたままだったわけです。ですから、すごく響きました。(最後のフレ-ズは)これはもう笑うしかないですね」と闘病生活が長い頭木さんは語っている。私もつられて一緒に笑ってしまった。何かがス~ッと抜けていくような感じがした。ついでに、ともに自死することになる太宰と芥川の絶望名言から―。

 

 「弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我(けが)をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです」(『人間失格』)、「あらゆる神の属性中、最も神のために同情するのは神には自殺の出来ないことである」(『侏儒(しゅじゅ)の言葉』)……これ以上の「絶望」の極はあるまい。凡人にはとても二人の真似などできない。じゃあ、「絶望を転じて、希望となす」―にはどうすればよいか。あれこれ考えているうちにふと、心づいた。

 

 「若い力」(音楽)と「絶望名言」(文学)とを上手に調合すれば、…あら不思議、「希望の妙薬」がひょいっと、現れたりなんかしちゃって。「男やもめに蛆(ウジ)がわく」―。こんな境遇を気遣ってか、友人や知人たちがウジ虫退治にひと役買って出てくれる今日この頃である。ありがたや、ありがたや。ここで、お手を拝借~「よ-お、パパパン、パパパン、パパパンパン」
 

 

(写真は熱演する佐藤さん=3月16日、花巻市内のスナックで)

 

 

《追記》~ブログ休載のお知らせ

 

 大型連休をはさんだしばらくの間、当ブログを休載させていただきます。「改元」フィ-バ-から、しばし逃避します。

 

 

平成最後の満月(ピンクムーン)―まんどろだお月様だ

  • 平成最後の満月(ピンクムーン)―まんどろだお月様だ

 

 ひねくれ者だから、「平成最後の…」と言われるとすぐに背を向けたがる癖(へき)があるが、お月さんとなると話がちがう。ネイティブアメリカンが「ピンクム-ン」と名づけたという平成最後の満月が19日夜から20日の未明にかけた中天にぽっかりと浮かんだ。妻の遺影と位牌を両腕に抱え、私は月明りの野外に佇(たたず)んだ。「花月圓融清大姉」と金箔の文字が浮き出ている。昨年夏に旅立った妻は生前、ニコニコと笑顔を絶やしたことがなかった。だから、みんなから「満月さん」と呼ばれていた。それに大の花好き。「花と月とが圓(まど)かに融(と)け合う。故人にぴったりだと思います」と住職は鼻高々だった。

 

 月は満月ばかりではない。その満ち欠けは時に不吉な予感を呼び起こすこともある。たとえば、元男性職員が19人の利用者を刺殺した「相模原障がい者施設殺傷」事件に題材を得た作家、辺見庸さんの近刊のタイトルはずばり『月』であった(2019年1月25日付当ブログ参照)。そして月といえば、私は真っ先に津軽の方言詩人、高木恭三(故人)の「冬の月」を思い出してしまう。同じ満月に向けるまなざしの落差にハッとさせられる。こんな詩である。


嬶(かが)ごと殴(ぶたら)いで戸外(おもで)サ出はれば
まんどろだお月様だ
吹雪(ふ)いだ後(あど)の吹溜(やぶ)こいで
何処(ど)サ行(え)ぐどもなぐ俺(わ)ぁ出はて来たンだ
 ──どしてあたらネ憎(にぐ)くなるのだベナ
   憎(にぐ)がるのぁ愛(めご)がるより本気ネなるもんだネ
そして今まだ愛(めご)いど思ふのぁ どしたごどだバ
ああ みんな吹雪(ふぎ)と同(おんな)しせぇ 

 

過ぎでしまれば
まんどろだお月様だネ

 

(方言詩集『まるめろ』所収、※まんどろだ=まん丸で明るいという津軽方言)

 

 新元号「令和」の典拠とされる万葉集「梅花の歌」序文はこうなっている。「初春(しょしゅん)の令月(れいげつ)にして、気淑(きよ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前(きょうぜん)の粉を披(ひら)き」(書き下し文)。元号提案者と言われる中西進さんの『万葉集』はこの部分を「時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き」と現代語訳している。このように、新元号の中にも「令月」という表現で月が出てくる。

 

 妻は令和にこそ生を生き延びることはできなかったが、梅や桜の季節に合わせたピンクム-ンを存分に仰ぎ見ることができたと思う。当地・花巻の桜はいまが盛りの春爛漫である。妻の霊は孫たちに見守られ、沖縄・石垣島のサンゴ礁の海に眠っている。その地で娘夫婦が営むカフェの名前も「新月」を意味する「朔(さく)」(物事の始まり)である。まんどろだお月さんに照らし出されながら、いまは亡き妻…花月圓融清大姉よ、永遠(とわ)の満月たれ――

 

 

(写真は漆黒の闇にくっきりと浮かんだ平成最後の満月(ピンクム-ン)=4月19日夜、インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~「お命ちょうだいします」

 

 「夕張炎上」(4月17日付当ブログ参照)について、札幌在住の元同僚から20日夜、以下のメ-ルが送られてきた。北炭新鉱の事故の際、坑内の延焼を防ぐため、夕張川の川水が注がれた。坑内にはまだ生死不明の十数人が残されていた。「お命ちょうだいします」という当時の社長の”宣告"に身が震えたことをまざまざと思い出す。             

 

 ブログ「追記」に触発されたわけでもありませんが、石炭博物館の現場に出かけてきました。午後3時現在、ほぼ鎮火状態とやらで、応援の消防車も撤収にかかっているところ。かすかなにおいが漂う中、ポンプで汲み上げた水が、こんどは逆に土手から浸み出して川へ流れもどっていくのを目にしましたが、ほんとうに再発火することはないのか、疑問が残ります。

 

 わたしのほかには、カメラを手にした記者が数人と、様子を見に来た何組かの夫婦連れ(いずれも地元の人と見受けられた)。話しかけてきた女性(60代か?)は、「南大夕張」や「北炭新鉱」の言葉を口にしつつ、「火災とか注水とか聞くと、とってもいや-な気持ちにさせられる」と、つぶやいていました。折しも夕張は市長・市議選のさなかですが、彼女(↑)によれば、「さすがに―」昨日は全候補が選挙運動を控えたとのことです。

 

 



 

 

 

 


 

 

「改元」恩赦と夕張放火殺人事件…夕張炎上、息を吹き返した大露頭!?

  • 「改元」恩赦と夕張放火殺人事件…夕張炎上、息を吹き返した大露頭!?

 

 「夕張保険金殺人事件を歩く」―。知人に勧められて購入した『花摘む野辺に―夕張追憶』という何とも穏やかなタイトル本の副題に眼がくぎ付けになった。35年前の1984(昭和59)年5月5日の子どもの日、北海道夕張市で炭鉱下請け会社の宿舎が全焼し、子ども2人を含む7人が死亡する大惨事が起きた。首謀者の暴力団組長夫妻が保険金目当ての放火殺人の疑いで逮捕され、13年後に戦後初めてとなる同時死刑に処せられた。本書は犠牲者の中に音信不通だったかつての同級生がいたことを知った札幌市在住の元高校教師、菊池慶一さん(86)がその消息を訪ね歩いたルポルタ-ジュである。表題はその同級生が好きだった流行歌「誰か故郷を想わざる」が出典である。

 

 この事件は私にとっても決して忘れることができない。最初は「美談の主」として、そして最後は「恩赦(おんしゃ)」騒動の当事者として―。3年前の1981(昭和56)年11月、同じ夕張市内にあった北炭夕張新炭鉱でガス突出事故が発生。戦後北海道では最悪となる93人が死亡した。暴力団夫妻が経営する下請け会社の従業員7人もこの時、命を落とした。残された犠牲者の妻が事故直後に出産した。刑務所に服役中だった夫に代わって会社経営に辣腕(らつわん)を振るっていた妻がその名付け親だった。まだ30代半ばの利発そうな女性だった。美談に仕立て上げたのがきっかけで取材に行き来するようになった。ある時、麻雀に誘われた。隠された一面をのぞき見た思いがした。

 

 「あんたは堅気(かたぎ)だから、ヤクザ麻雀はしないから安心して…」と彼女は言った。興に乗ると、舌が滑らかになった。「指を詰める時にはね、迷うことなくスパッと…」―。身振り手振りをされた時にはさすがにザワッとしたことを覚えている。北炭事故の際、従業員にかけられていた多額の死亡保険金が振り込まれた。遺族に支払った分を除いても1億円以上が手元に残った。この時の“うま味”が犯罪の引き金になった。1987(昭和62)年3月、札幌地裁は首謀者の夫と妻に対し、殺人の共謀共同正犯の責任を認定して死刑判決を、放火の実行犯には無期懲役の判決を言い渡した。その後の展開は世間をアッと驚かせた。

 

 翌年10月になって、2人は突然控訴を取り下げ、死刑が確定した。当時、昭和天皇の病状が重篤になり、仮に天皇が崩御(ほうぎょ)すれば恩赦が行われ、死刑の執行を免れると期待したためであった。恩赦の対象となるには刑が確定していなければならない。しかし、「平成」恩赦では懲役や禁固の受刑者、死刑確定者は対象にはならなかった。当てが外れた2人は今度は一転、札幌高裁に控訴審の再開を申請したが認められず、最高裁に提出した特別抗告も1997(平成9)年5月に棄却。同年8月1日に札幌刑務所の断頭台の露と消えた。獄中で小説を書き続けた、連続ピストル射殺事件の死刑囚、永山則夫(当時48歳)にも同じ日、刑が執行されている。

 

 ちなみに、3月15日付当ブログで取り上げた金子文子と朴烈に対しては、1926(昭和2)年3月死刑判決が下されたが、翌4月5日に「天皇の慈悲」という名目で恩赦が出され、ともに無期懲役減刑された。ところが、朴烈は恩赦を拒否すると主張、文子も特赦状を刑務所長の面前で破り捨てたといわれる。文子はその後、獄中で自殺した。さて、「令和」恩赦を当て込む“塀の中”から、今度はどんなドラマが飛び出すことやら…。

 

 「これはまるで亡霊のような本です。わたしは、犠牲者の一人が同級生だったという、わずかの縁(えにし)をたよりに、友への悲しみと、閉山のただ中にあった夕張の姿を書き残したかったのです。炭鉱最盛期の喜び、閉山の悲しみ、悲喜を合わせて記憶していきたい。忘れることの幸せだけでなく、忘れないことの幸せを大切に抱えて…」―。菊池さんはあとがきにこう書いている。

 

 放火殺人事件の翌1985(昭和60)年5月、犠牲者たちが働いていた三菱南大夕張炭鉱で62人が死亡するガス爆発事故が起きた。5年後に閉山に追い込まれ、炭鉱跡地はいま、ダム湖の底に沈んでいる。最盛期、20を数えた「炭都」・夕張からヤマが消えてもう30年になる。さらに、2006(平成18)年には夕張市が財政破綻。2期8年間、そのトップの座にあった鈴木直道さん(38)が今回の統一地方選で北海道知事に当選するなど時代の変化はめまぐるしい。

 

 「夕張食う(苦)ばり、坂ばかり、ドカンとくれば死ぬばかり」―。こんなざれ歌が記憶の底に刻まれている。5月中旬、令和元年の最初の旅先として、私は菊池さんと一緒に夕張再訪の計画を立てている。恩赦騒ぎを引き起こした死刑夫妻のことを含め、日本の繁栄の捨て石にされた“苦海”のたたずまいをもう一度、まぶたによみがえらせたいと思う。記憶の風化に抗(あらが)うためにも…。

 

 

 

(写真は夕張最後のヤマとなった三菱南大夕張炭鉱事故の犠牲者を弔う慰霊碑=夕張市南部青葉町で。インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記》~大露頭(石炭層)に引火か!?

 

 北海道夕張市高松の石炭博物館から、18日午後11時45分ごろ「白煙が見える」と消防に通報があった。市消防本部によると、1階から地下に続く見学施設の「模擬坑道」付近から出火したとみられる。坑道内に煙が充満しており、消火活動が長引く恐れがあるという。同博物館は冬季休館中で、けが人はいなかった。

 

 模擬坑道(約180メ-トル)は、かつて実際に使われていた坑道を改修したもので、石炭採掘に使う巨大な機材などを展示している。消防によると、坑道内の木枠に何らかの原因で着火し、石炭層に燃え移った可能性があるという。27日の今季のオ-プンに向けて、坑道内では18日夕まで溶接作業が行われていた。

 

 石炭博物館は、夕張市が「炭鉱から観光」のスロ-ガンのもと、1980年に開業した。財政破綻(はたん)で多くの施設が閉鎖するなかで、同博物館は石炭産業の歴史を伝える施設として資料価値が高いことから、同市が5億円をかけて大規模改修し、昨春、リニュ-アルオ-プンしていた。昨年度の入場者数は目標の1万4千人の2倍を超える約3万2千人で、破綻から再生に向けて、市ににぎわいを取り戻す施設として期待されていた(4月19日付朝日新聞「電子版」)