あの日から8年が経った。冷たい雨がそぼ降る中、花巻に避難している被災者や支援者が寺の鐘を打ち鳴らし、犠牲者やいまだに行方のわからない人たちの冥福を祈った。ここ数日間、USBメモリに記録された数千枚の震災写真を見続けた。あのがれきの荒野が長編映画のコマ送りのようにまぶたに映った。容赦なく押し寄せる”記憶の風化”をぴしゃりと拒絶するかのように。この日は私の79歳の誕生日にぶつかっていた。「忘れようとしたって、忘れるわけにはいかない。この因果なめぐり合わせに感謝しなくては…」―。
唐突に宮沢賢治の詩「雨ニモマケズ」の一節が口の端に浮かんだ。「アラユルコトヲ/ジブンヲカンジョウニ入レズニ/ヨクミキキシワカリ/ソシテワスレズ」―。震災3日後に「ぼくらの復興支援―いわてゆいっこ花巻」が産声を上げた。あの時に一気に書き上げた「設立趣意書」を声を上げて読んでみた。昨年夏に旅立った妻の死と「3・11」のそれとが初めて重なり合ったような気がした。正直、「震災死」に身内がいないことにホットしていた気持ちがあったのかもしれない。人の「死」の意味がようやく少し、わかったように思った。この日、生前の妻も参加していた、一年前に活動を停止した「ゆいっこ花巻」の再立ち上げが有志の間で決まった。
平成31年1月31日現在で、花巻に避難している被災者の方は195世帯373人。内訳は―。大槌町(60世帯・126人)/釜石市(51世帯・92人)/山田町(19世帯・35人)/大船渡市(17世帯 28人)/陸前高田市(12世帯・21人)/宮古市(11世帯・21人)/宮城県(20世帯・39人)/福島県(5世帯・11人)。…時をまたぎ「3・12」を迎えた日本列島にはまるで満を持していたかのように、「五輪まであと500日」のファンファーレが響き渡った。「『復興五輪』の上の二文字を削ってほしい。いまだにわが家に戻れない私にとって、何が復興なのか」―。福島からの避難者のうめくような言葉がこびりついて離れない。
【設立趣意書】
肉親の名前を叫びながら、瓦礫(がれき)の山をさ迷う人の群れ。着のみ着のままのその体に無情の雪が降り積もる。未曾有の大地震と大津波に追い打ちをかけるようにして発生した原発事故…。辛うじて一命を取りとめた被災者の身に今度は餓死と凍死の危機が迫りつつあります。もう、一刻の猶予(ゆうよ)も許されません。 「なぜ、いつも東北の地が」―。飢餓地獄の遠い記憶に重なるようにして、阿鼻叫喚(あびきょうかん)の光景が眼前に広がっています。そして、茫然自失からハッとわれに返ったいま、わたしたちは苦難の歴史から学んだ「いのちの尊厳」という言葉を思い出しています。
平泉・中尊寺を建立した藤原清衡は生きとし生けるものすべての極楽往生を願い、岩手・花巻が生んだ宮沢賢治は人間のおごりを戒め、「いのち」のありようを見続けました。昨年発刊百年を迎えた『遠野物語』は人間も動物も植物も…つまり森羅万象(しんらばんしょう)はすべてがつながっていることを教えてくれました。
この「結いの精神」(ゆいっこ)はひと言でいえば「他人の痛み」を自分自身のものとして受け入れるということだと思います。いまこそ、都市と農村、沿岸部と内陸部との関係を結(ゆ)い直し、共に支え合う国づくりに立ち上がらなければなりません。16年前の阪神大震災の際、岩手県東和町(現花巻市)は全国で初めて、被災住民を町ぐるみで受け入れる「友好都市等被災住民緊急受け入れ条例」を制定しました。「海外から受け入れの申し出がきているのに、日本人がそっぽを向いていてよいのか」と当時の町長(故人)は語っています。
温泉に一緒に浸かって背中を流してあげたい。暖かいみそ汁とご飯を口元に運んであげたい。こんな思いを共有する多くの人たちとわたしたちは走り出そうと思います。何をやるべきか、何をやらなければならないか―。走りながら考え、みんなで知恵を出し合おうではありませんか。
試されているのはわたしたち自身の側なのです―
(写真は津波に飲まれた旧大槌町役場。保存の是非をめぐって裁判闘争にまで発展したが、震災8年を前に解体された=2011年春、岩手県大槌町で)
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