宮史郎が亡くなった。
1972年年に「おんなの道」が大ヒット。
歴代のオリコンランキングが下記なので、日本で2番目に売れた曲ということになる。
オリコンシングルランキング歴代TOP3
1位:子門真人「およげ!たいやきくん」(457.7万枚)
2位:宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」(325.6万枚)
3位:サザンオールスターズ「TSUNAMI」(293.6万枚)
こう考えると、サザンすごいな!と思ってしまう。
カラオケなんていうところはもうずいぶん行っていないが、この3曲の中では「TUNAMI」ぐらいしかそういう現場では歌われていないのではないだろうか。
少なくとも「およげ~」は聞いたことがないですねぇー。
今回の震災で罹災した石巻の石の森漫画記念館が昨日リニュアールオープンした。
友人のサックス奏者、福村諭君のバンドがオープニングイベントを務めたのだが、その近くに岡田劇場という古い芝居小屋と言ったほうがいいような映画館があった。
そこは中州で今回の震災で劇場は跡形もなくなり、再建はしない方針と聞く。
その岡田劇場は興行師もやっており、特に演歌の興行に強みを持つ。
そして宮史郎はそこの看板でもあった。
今は平気で「五木ひろし&都はるみジョイントコンサート」などという興行が打たれているが、業界としては掟破りに違いない所業だ。
一枚看板でやったほうがトラブルも少ないし、元々バックが違うのだから問題も発生しやすい。
しかし岡田劇場(現在の社名はオカダプランニングと聞く)は紅白に何回かは出場した中堅どころの歌手を2~4名ブッキングし、一人30~40分ぐらいの持ち時間で、一人ひとり司会をつけたところが凄い。
たとえば音羽たかし、愛うえお、三和完児とか青空たのしとか。綾小路きみまろも元々はこのなかの一人だったのだが。
MCでショウの色は変わるということをよく知っている興行師なのだ。
バンドは「渡辺康雄と東京ニュースカイオーケストラ」「ヒロ松井とスターライトオーケストラ」「エンディー大高とブルーシャムロック」「堀内ヤスタカとバンド名なんだっけなぁー、サザンクロスだっけかなー」などという知ってる人しか知らない楽団を起用するのだ。
堀内さんはいまは「ノーチェ・クバーナ」のリーダーに収まり、多分今もラッパを吹いているらしい。
で、宮史郎だが在籍していた「ぴんからトリオ」は元々大阪の松竹芸能の芸人でコントをやっていたらしい。他にも1973年に300万枚を売った「なみだの操」の殿様キングス、1972年に200万枚を売った「宗右衛門町ブルース」の平和勝次とダークホースなどはすべてコミックバンド、いわゆるボーイズ物からの転身であった。
1972年~73年の2年間でこの3グループで800万枚以上売ってるのだ、歌手でもない人たちが。
で、「お笑いと演歌の関係」という標題になるのだが、コミックバンドというよりはボーイズ、漫才でもベースに浪花節の影響がまだまだ濃かった時代なのだ。
宮史郎、宮路オサム、平和勝次、すべて発声が浪曲に起因する。
完全な浪曲の修業をしたかどうかはわからないが、まだまだ混沌としていた時代なのだろう。正式な修行でなく脇で聞いていて覚えたから世にでる、ということもあるかもしれない。コミックバンドは序列とかがうすそうなので。
漫才師の歌というのが昔からあって、しゃべくり漫才の祖「エンタツ・アチャコ」以前は漫才は鼓と三味線で歌を歌うのが定番であった。
横山やすしは言う。「漫才はウィルキンソンの替え刃と同じやねん。歌をうまく歌っても芸になるしなぁー。下手に歌ってもおもろければ金になんねんなぁー。どっちゃでもええねん。」
その辺のことがよくわかってるのは松本人志で、彼の楽曲「タクシードライバー」
はその伝統を踏襲する歌唱であることは歌を聴けばおわかりだろう。
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「A列車」は泣けてくる。
私はビッグバンドが大好きだ。
子供の頃から歌手の後ろに配置されているバンドの方が気になるような変わった奴だった。
で、いろんな楽団を見に行った。聴きに行くよりも見に行くというのが正しいと思う。
そこにいくと、ほとんどいつもと言っていいぐらい不思議なことが起こる。
地方の会館は大体緞帳があり、テーマ曲が演奏されてすぐに幕が上がることが多い。
東京はほとんどの劇場は幕がないか、最初から上がっている状態でショウが始まる。
暗い舞台に男たちが上手下手からバラバラと出てきて、自分の椅子に座る。
ピンスポットが当てられ、最後にバンマスが出てきて演奏が始まる。
大体はテーマ曲か、調子のいい4ビートの曲が多い。
その演奏が始まり10秒ほどすると、なぜか涙がこみ上げてくるのだ。
感動していることは間違いないと思うが、あれはなんなんだろう。頬をつたうぐらいのときもある。それが「不思議」なのだ。
五反田ユーポートで見た「フランク・ウェス率いるカウント・ベィシーOB楽団」
三軒茶屋人見記念講堂で見た「マーサ・エリントン率いるデューク・エリントン楽団」
読売ホールで見た「ベニー・カーター楽団」
有明エムザで見た「キャブ・キャロウェイ楽団」、「イリノイ・ジャケー楽団」
赤坂見附サントリーホールで見た「ライオネル・ハンプトン楽団」、「ティト・プエンテ楽団」
山形県民会館で見た「エイブ・モスト率いるベニー・グッドマン楽団」「レイ・チャールズ楽団」
喜多方プラザで見た「ケン・ペプロウスキー率いるベニー・グッドマン楽団」
仙台県民会館で見た「グレッグ・フィールド率いるヘンリー・マンシーニ楽団」「クレイトン=ハミルトン・ジャズ楽団」
パルセ飯坂で見た「フランク・キャップ率いるグレート・アメリカン楽団」
横浜みなとみらいホールで見た「アウトーロ・オファリル率いるリンカーン・センターズ・アフロ・ラテン・ジャズ楽団」
ブルーノート東京で見た「ジョン・ファディス率いるディジー・ガレスピー・オールスター楽団」、「スライド・ハンプトン率いるディジー・ガレスピー・オールスター楽団」、「マッコイ・タイナー楽団」、「チャールズ・ミンガス楽団」、「ゴードン・グッドウィン楽団」
米沢市民文化会館で見た「ラリー・オブライエン率いるグレン・ミラー楽団」
日本武道館で見た「ジェームス・ブラウン楽団」
兎に角泣けてくるのだ。
それにしても随分泣いたものだ。
日本の楽団、ヨーロッパの楽団は全然そういうことにはならない。米国の楽団のみなのだ。
そ・れ・が!
この映像を見ると泣けてきてしょうがない。
アメリカの楽団を見に行った時と同じ、心温まる涙なのだ。
ぜひみなさんもこの日本人ドラマーの良心を堪能いただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=yt7VCOVr7A8
子供の頃から歌手の後ろに配置されているバンドの方が気になるような変わった奴だった。
で、いろんな楽団を見に行った。聴きに行くよりも見に行くというのが正しいと思う。
そこにいくと、ほとんどいつもと言っていいぐらい不思議なことが起こる。
地方の会館は大体緞帳があり、テーマ曲が演奏されてすぐに幕が上がることが多い。
東京はほとんどの劇場は幕がないか、最初から上がっている状態でショウが始まる。
暗い舞台に男たちが上手下手からバラバラと出てきて、自分の椅子に座る。
ピンスポットが当てられ、最後にバンマスが出てきて演奏が始まる。
大体はテーマ曲か、調子のいい4ビートの曲が多い。
その演奏が始まり10秒ほどすると、なぜか涙がこみ上げてくるのだ。
感動していることは間違いないと思うが、あれはなんなんだろう。頬をつたうぐらいのときもある。それが「不思議」なのだ。
五反田ユーポートで見た「フランク・ウェス率いるカウント・ベィシーOB楽団」
三軒茶屋人見記念講堂で見た「マーサ・エリントン率いるデューク・エリントン楽団」
読売ホールで見た「ベニー・カーター楽団」
有明エムザで見た「キャブ・キャロウェイ楽団」、「イリノイ・ジャケー楽団」
赤坂見附サントリーホールで見た「ライオネル・ハンプトン楽団」、「ティト・プエンテ楽団」
山形県民会館で見た「エイブ・モスト率いるベニー・グッドマン楽団」「レイ・チャールズ楽団」
喜多方プラザで見た「ケン・ペプロウスキー率いるベニー・グッドマン楽団」
仙台県民会館で見た「グレッグ・フィールド率いるヘンリー・マンシーニ楽団」「クレイトン=ハミルトン・ジャズ楽団」
パルセ飯坂で見た「フランク・キャップ率いるグレート・アメリカン楽団」
横浜みなとみらいホールで見た「アウトーロ・オファリル率いるリンカーン・センターズ・アフロ・ラテン・ジャズ楽団」
ブルーノート東京で見た「ジョン・ファディス率いるディジー・ガレスピー・オールスター楽団」、「スライド・ハンプトン率いるディジー・ガレスピー・オールスター楽団」、「マッコイ・タイナー楽団」、「チャールズ・ミンガス楽団」、「ゴードン・グッドウィン楽団」
米沢市民文化会館で見た「ラリー・オブライエン率いるグレン・ミラー楽団」
日本武道館で見た「ジェームス・ブラウン楽団」
兎に角泣けてくるのだ。
それにしても随分泣いたものだ。
日本の楽団、ヨーロッパの楽団は全然そういうことにはならない。米国の楽団のみなのだ。
そ・れ・が!
この映像を見ると泣けてきてしょうがない。
アメリカの楽団を見に行った時と同じ、心温まる涙なのだ。
ぜひみなさんもこの日本人ドラマーの良心を堪能いただきたい。
http://www.youtube.com/watch?v=yt7VCOVr7A8
クレージーキャッツ再考
桜井センリさんが亡くなった。86歳、大往生と言っていいと思う。
その昔、フランキー堺がスパイク・ジョーンズのコピーバンド、その名も本物と同じシティ・スリッカーズを結成した際、ピアノは桜井センリ、トロンボーンは谷啓、2代目のギターが植木等だった。
植木と谷啓によれば「桜井さんのギャラが0一つ違ってた!」とのこと。
多分、かなり弾ける存在だったんだろうなぁ。
その前には多忠修とゲイスターズにいたのだが、その前のピアノが龝吉敏子(アメリカで活躍)だった。
桜井がピアノのソロを弾くと、みんながずっと、じぃーと見るのだそうだ。
終わってから聞いたら、龝吉さんはガンガン弾くのでよく聞こえるのだが、桜井さんは小さい音で奏でるので弾いてないと思って見てたのだと。
よくクレージーのことを書いた文章に「高い演奏の技術力云々、、、」とあるが、私はいつもそのことが引っかかる。多分コミックバンドとしてはというのが前につくのだろうが、必ずしもそういうふうに書いた文章は少ない。
多分小林信彦あたりの書いたものか、大滝詠一、松任谷由美なんかが言ったに違いないのだが。
終戦後アメリカ軍が進駐するようになり、ジャズバンドの需要が急増、楽器を持っているだけでバンドマンといった時代もあったと聞く。
後年になっても浅草時代のたけしが急にサックスの席に座らせられたり、全く譜面が読めない私が、鴬谷のキャバレーの椅子に座ってしまったのもこの流れだ。
そのことから考えれば、クレージーの面々は上出来のバンドマンだと思うのだが。
クレージーが出来たひとつのきっかけが、モダンジャズの台頭であったことは興味深い。
ハナ肇はナベサダとかのグループと近いところにいて、実際モダンジャズにも足を突っ込んだらしい。元々南里文雄のバンドにいたこともあるので、そこそこの技術はあったと思うのだが、実際彼の性格からすればモダンジャズは随分難しく感じたのではないだろうか。事実そういう風なことを語っている。
そこで、もっとみんなに分かる楽しいバンドをということで、最後のクレージーメン犬塚弘の賛同を得て結成したのがハナ肇とキューバンキャッツ、その後のクレージーキャッツとなる。
植木が言っていた。「このバンド上手くいかないんだったら、またほかのバンドに移りゃあいいや。」と。あくまでも通常のバンドマンのごく普通の思想だ。
でもバンドは売れて、何度かやめようと思った谷啓も結局最後までいたし、全員楽器はほぼ外した活動だが、芸能人として生ききった。
これはひとえにハナ肇のリーダーシップであったと思う。植木は言う。「仕事を取って来たのは全部ハナだった。」と。
ハナ肇は植木等、石橋エータロー、桜井センリ、犬塚弘よりも年少である。フロントで吹く、谷啓と安田伸のみが後輩だ。
多分このリズムセクションに先輩を配したのが成功だったような気がする。ハナからみれば、みんな五月蠅い先輩だったと思うが。
植木等、石橋エータロー、安田伸とも自分のバンドを持っていた時期がある。
でもA級ではなかったと思う。
この中でいいバンドにいたのは、桜井センリのゲイスターズ、谷啓のシャープス&フラッツあたりだ。これは間違いなくA級だ。
ハナがいた浜口庫之助のアフロ・クバーノjr.というのもよくわからない。そのころ松岡直也はハナとはずっと一緒だったと語っている。
ということで、全員が高い演奏技術を持ち合わせていたわけではなく、東京のバンドマンからコメディアンになったにしてはまあまあ楽器が弾けたのだと思う。
それが本人たちにとって邪魔になる技術でもなく、ただ楽器をやらなくても食えるようになったということだろう。
高い演奏技術をもっていたからあのような音楽コントが出来たわけではないのだ。
ハナ肇がしっかりしていて、谷啓が素晴らしいアイディアを出し、青島幸男が素晴らしくくだらない台本や歌詞を書き、萩原哲晶がチンドン屋のようなオーケストレーションを譜面にし、すぎやまこういちがフジテレビのディレクターとして辣腕を奮い、秋元近史がシャボン玉をつくり、そして植木、犬塚、安田、石橋、桜井が演じきったからあのような事態となったのだ。
高い演奏技術ではない。人間が、素晴らしい人間の集団があったからだ。
ドリフの台頭で、ちょっと息切れしていた頃のクレージーが米沢にやって来た。
舞台は現在の米沢市体育館、緞帳が上がる。もちろん全員楽器を持っての登場だ。
テレビで見るよりも、ちょっと大人の粋なステージ、営業のネタとテレビは使い分けていた。私は小学3年か4年、面白かった。
楽器を持って何かやってみたいと思った。
そうか、あの日がその日だったんだ。
その昔、フランキー堺がスパイク・ジョーンズのコピーバンド、その名も本物と同じシティ・スリッカーズを結成した際、ピアノは桜井センリ、トロンボーンは谷啓、2代目のギターが植木等だった。
植木と谷啓によれば「桜井さんのギャラが0一つ違ってた!」とのこと。
多分、かなり弾ける存在だったんだろうなぁ。
その前には多忠修とゲイスターズにいたのだが、その前のピアノが龝吉敏子(アメリカで活躍)だった。
桜井がピアノのソロを弾くと、みんながずっと、じぃーと見るのだそうだ。
終わってから聞いたら、龝吉さんはガンガン弾くのでよく聞こえるのだが、桜井さんは小さい音で奏でるので弾いてないと思って見てたのだと。
よくクレージーのことを書いた文章に「高い演奏の技術力云々、、、」とあるが、私はいつもそのことが引っかかる。多分コミックバンドとしてはというのが前につくのだろうが、必ずしもそういうふうに書いた文章は少ない。
多分小林信彦あたりの書いたものか、大滝詠一、松任谷由美なんかが言ったに違いないのだが。
終戦後アメリカ軍が進駐するようになり、ジャズバンドの需要が急増、楽器を持っているだけでバンドマンといった時代もあったと聞く。
後年になっても浅草時代のたけしが急にサックスの席に座らせられたり、全く譜面が読めない私が、鴬谷のキャバレーの椅子に座ってしまったのもこの流れだ。
そのことから考えれば、クレージーの面々は上出来のバンドマンだと思うのだが。
クレージーが出来たひとつのきっかけが、モダンジャズの台頭であったことは興味深い。
ハナ肇はナベサダとかのグループと近いところにいて、実際モダンジャズにも足を突っ込んだらしい。元々南里文雄のバンドにいたこともあるので、そこそこの技術はあったと思うのだが、実際彼の性格からすればモダンジャズは随分難しく感じたのではないだろうか。事実そういう風なことを語っている。
そこで、もっとみんなに分かる楽しいバンドをということで、最後のクレージーメン犬塚弘の賛同を得て結成したのがハナ肇とキューバンキャッツ、その後のクレージーキャッツとなる。
植木が言っていた。「このバンド上手くいかないんだったら、またほかのバンドに移りゃあいいや。」と。あくまでも通常のバンドマンのごく普通の思想だ。
でもバンドは売れて、何度かやめようと思った谷啓も結局最後までいたし、全員楽器はほぼ外した活動だが、芸能人として生ききった。
これはひとえにハナ肇のリーダーシップであったと思う。植木は言う。「仕事を取って来たのは全部ハナだった。」と。
ハナ肇は植木等、石橋エータロー、桜井センリ、犬塚弘よりも年少である。フロントで吹く、谷啓と安田伸のみが後輩だ。
多分このリズムセクションに先輩を配したのが成功だったような気がする。ハナからみれば、みんな五月蠅い先輩だったと思うが。
植木等、石橋エータロー、安田伸とも自分のバンドを持っていた時期がある。
でもA級ではなかったと思う。
この中でいいバンドにいたのは、桜井センリのゲイスターズ、谷啓のシャープス&フラッツあたりだ。これは間違いなくA級だ。
ハナがいた浜口庫之助のアフロ・クバーノjr.というのもよくわからない。そのころ松岡直也はハナとはずっと一緒だったと語っている。
ということで、全員が高い演奏技術を持ち合わせていたわけではなく、東京のバンドマンからコメディアンになったにしてはまあまあ楽器が弾けたのだと思う。
それが本人たちにとって邪魔になる技術でもなく、ただ楽器をやらなくても食えるようになったということだろう。
高い演奏技術をもっていたからあのような音楽コントが出来たわけではないのだ。
ハナ肇がしっかりしていて、谷啓が素晴らしいアイディアを出し、青島幸男が素晴らしくくだらない台本や歌詞を書き、萩原哲晶がチンドン屋のようなオーケストレーションを譜面にし、すぎやまこういちがフジテレビのディレクターとして辣腕を奮い、秋元近史がシャボン玉をつくり、そして植木、犬塚、安田、石橋、桜井が演じきったからあのような事態となったのだ。
高い演奏技術ではない。人間が、素晴らしい人間の集団があったからだ。
ドリフの台頭で、ちょっと息切れしていた頃のクレージーが米沢にやって来た。
舞台は現在の米沢市体育館、緞帳が上がる。もちろん全員楽器を持っての登場だ。
テレビで見るよりも、ちょっと大人の粋なステージ、営業のネタとテレビは使い分けていた。私は小学3年か4年、面白かった。
楽器を持って何かやってみたいと思った。
そうか、あの日がその日だったんだ。
森光子の魔力
森光子が亡くなった。最後までトップスターであり続け、若干老醜を晒したとはいえ、十分見事な最期であったと思う。
以前戦後の米沢の興行を米沢新聞から抜き出して、ノートに写していたことがあった。
戦後すぐにはフィルムなどがなかったため、映画人などは随分ドサ回りをしたらしい。その中に森光子の名前があった。
ノートは手元にないのだが、多分昭和20~21年ころだろう。
大映スター 歌手 森光子
と書かれていたと思う。
以前戦前のジャズマンが昭和の終わりごろオールドボーイズというバンドを結成、そのときゲストとして出た森はシナトラで有名な「国境の南」を歌っている。
進駐軍を回ってジャズ歌手みたいなこともしていたようだ。
その前はミスワカナの子分であり、初代がヒロポン中毒で急逝後、2代目襲名も噂されたと思う。
生年が大正9年(1920)と一緒のミヤコ蝶々もワカナの子分だったこともあった筈だ。2人の関係などはどのようなものであったのか、興味深いところだ。
大阪に民放が出来て、朝日放送専属でダイラケのびっくり取物帳で、ダイラケと3人漫才をやったりしたあたりから人気が出始める。
この当時藤田まこととの共演も多く、芸人の子であること(森は嵐寛寿郎の姪)、漫才、司会、歌手など役者になるまで幾多の道のりを経てきているなど共通点も多い。
何となく芸風も近いものがあるのではないだろうか。シリアスとコメディの境目がないようなところと、関東弁も関西弁もいけるところが。
そして東京にでて、皆さんご存知の「放浪記」になるわけだが見たことがないので、私からみた代表作は「3時のあなた」と「時間ですよ!」となる。
ドリフとの共演も多く、一時はTVのコメデェンヌは森光子一手販売の時代もあったと思う。
そしてジャニーズとの競演はどのようなことをやっていたのだろう。ジャニーズファンはどう見ていたのだろう。
結構ミステリアスな森光子さんのご冥福をお祈りします。
以前戦後の米沢の興行を米沢新聞から抜き出して、ノートに写していたことがあった。
戦後すぐにはフィルムなどがなかったため、映画人などは随分ドサ回りをしたらしい。その中に森光子の名前があった。
ノートは手元にないのだが、多分昭和20~21年ころだろう。
大映スター 歌手 森光子
と書かれていたと思う。
以前戦前のジャズマンが昭和の終わりごろオールドボーイズというバンドを結成、そのときゲストとして出た森はシナトラで有名な「国境の南」を歌っている。
進駐軍を回ってジャズ歌手みたいなこともしていたようだ。
その前はミスワカナの子分であり、初代がヒロポン中毒で急逝後、2代目襲名も噂されたと思う。
生年が大正9年(1920)と一緒のミヤコ蝶々もワカナの子分だったこともあった筈だ。2人の関係などはどのようなものであったのか、興味深いところだ。
大阪に民放が出来て、朝日放送専属でダイラケのびっくり取物帳で、ダイラケと3人漫才をやったりしたあたりから人気が出始める。
この当時藤田まこととの共演も多く、芸人の子であること(森は嵐寛寿郎の姪)、漫才、司会、歌手など役者になるまで幾多の道のりを経てきているなど共通点も多い。
何となく芸風も近いものがあるのではないだろうか。シリアスとコメディの境目がないようなところと、関東弁も関西弁もいけるところが。
そして東京にでて、皆さんご存知の「放浪記」になるわけだが見たことがないので、私からみた代表作は「3時のあなた」と「時間ですよ!」となる。
ドリフとの共演も多く、一時はTVのコメデェンヌは森光子一手販売の時代もあったと思う。
そしてジャニーズとの競演はどのようなことをやっていたのだろう。ジャニーズファンはどう見ていたのだろう。
結構ミステリアスな森光子さんのご冥福をお祈りします。
あのころのデパート
子供の頃小学校に入る前、米沢には百貨店がなかった。
それに近いもので、糸屋という山森佐太郎さんがやっていたのが衣料店にレストランが併設されていて何となく百貨店の雰囲気があった。
他には十字屋というのが衣料店におもちゃ売り場があったような気がする。
でもそれまでは山形に行って、大沼に行くのがデパートに行くということだった。
その大きな違いは、屋上に遊園地があったことだ。
それは、米沢に進出したときも踏襲されており、山形ほど立派なものではなかったが、楽しい場所であった。
長野まゆみさんは、百貨店出身の作家で、母親も百貨店に勤めていたということで、よくその裏おもてをご存知だ。
私にとっての百貨店は、前職の物産展が全てになった。
在職17年、どのくらいの百貨店に伺っただろう。
北は札幌西武五番館、西は博多大丸、三越、高島屋、伊勢丹、阪急、阪神、京王、東武、東急、さいかや、遠鉄どこまでいったんだろう。
子供の頃あんなに輝いていた百貨店は、バブルの崩壊と共に少しづつ力を失ってきてはいるし、余りにも出入りしすぎて随分面白くない思いなどもさせられたが、日本橋を歩けば、何となくふらふらと誘蛾灯のごとく入ってしまう、日本の商人が作り上げた傑作だと思う。
それに近いもので、糸屋という山森佐太郎さんがやっていたのが衣料店にレストランが併設されていて何となく百貨店の雰囲気があった。
他には十字屋というのが衣料店におもちゃ売り場があったような気がする。
でもそれまでは山形に行って、大沼に行くのがデパートに行くということだった。
その大きな違いは、屋上に遊園地があったことだ。
それは、米沢に進出したときも踏襲されており、山形ほど立派なものではなかったが、楽しい場所であった。
長野まゆみさんは、百貨店出身の作家で、母親も百貨店に勤めていたということで、よくその裏おもてをご存知だ。
私にとっての百貨店は、前職の物産展が全てになった。
在職17年、どのくらいの百貨店に伺っただろう。
北は札幌西武五番館、西は博多大丸、三越、高島屋、伊勢丹、阪急、阪神、京王、東武、東急、さいかや、遠鉄どこまでいったんだろう。
子供の頃あんなに輝いていた百貨店は、バブルの崩壊と共に少しづつ力を失ってきてはいるし、余りにも出入りしすぎて随分面白くない思いなどもさせられたが、日本橋を歩けば、何となくふらふらと誘蛾灯のごとく入ってしまう、日本の商人が作り上げた傑作だと思う。