繰り返しになりますが、〆鯖を考えた人は本当に素晴らしいと思います。
多分なれ寿司というか、あの近江八幡あたりの鮒寿司の変形でしょうが、鯖が持たない魚であるところから、加工を思いついたに違いありません。
鯖の生腐れというぐらい、生きているときから腐れるという凄い表現が残っているぐらいの魚です。ただ最近の保存技術はすごくて、長崎あたりの五島列島の鯖が数年前は生で近くのスーパーに出ていました。でも実際に食べると〆鯖がいいのです。
最近食べた青魚では、鯵の塩焼きもシンプルながらかなりおいしかったです。
今度の休みは味噌煮でも作ってみようと思っております。本日の鯖は三重県産でした。
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炒飯を作る。
現在息子がインフルエンザB型を患い、幼稚園を休んでいます。一時は40度でご飯も食べられないぞの世界でしたが、やっと熱も収まり炒飯が食べたいと言い出しました。
よっぽど具合も改善されているのでしょう。リクエストにお答えして炒飯を作りました。
炒飯の作り方は様々ありますが、私の場合最初に卵を炒めて一旦鍋からあげて、その外の具材を炒め、ご飯を投入そして再度卵を投入という方法で作っております。
今回はテフロン加工が全くなくなったフライパンで作ったのですが、全くご飯がこびりついてしまいました。あとでかみさんに聞いたら、朝フライパンで野菜を茹でたとのことでかなり水を含んだ状況だったようです。
テフロンのフライパンは大抵剥がれます。全部食べているのでしょうか、テフロンを。テフロンは食べても大丈夫なのでしょうか。
炒飯の隣は細切り野菜の根菜スープで、今から20年近く前、モスバーガーで試験的に販売したののイメージをベースにしています。
本当はにんにくなんかも入れたいのですが、シンプルに塩味のみです。
よっぽど具合も改善されているのでしょう。リクエストにお答えして炒飯を作りました。
炒飯の作り方は様々ありますが、私の場合最初に卵を炒めて一旦鍋からあげて、その外の具材を炒め、ご飯を投入そして再度卵を投入という方法で作っております。
今回はテフロン加工が全くなくなったフライパンで作ったのですが、全くご飯がこびりついてしまいました。あとでかみさんに聞いたら、朝フライパンで野菜を茹でたとのことでかなり水を含んだ状況だったようです。
テフロンのフライパンは大抵剥がれます。全部食べているのでしょうか、テフロンを。テフロンは食べても大丈夫なのでしょうか。
炒飯の隣は細切り野菜の根菜スープで、今から20年近く前、モスバーガーで試験的に販売したののイメージをベースにしています。
本当はにんにくなんかも入れたいのですが、シンプルに塩味のみです。
田口八重子さんとの接点。
などという大げさなものではないのですが、このアルバムには思い出があります。
田口さんが働いていたキャバレーの楽屋で、老アルトサックス奏者にサインをしてもらったからです。
新聞には飲食店従業員という書き方になっていますが、少し前ならキャバレーホステスという報道になっていたと思います。私としてはキャバレーのイメージが悪いためそのようなことになっているのでは、と思ってしまいます。でもキャバレーはみなさんが思うような、ピンクではありませんでした。小粋な大人の社交場なのでした。
今から20年ぐらい前になるでしょうか、バブルも後期の頃で、駅前にあるキャバレーは土地も十分に使っており、地上げの対象となることが多く、日に日になくなっていきました。
名門といわれた銀座クラウン、モンテカルロ 赤坂ニューラテンクオォーター、ミカドなどを筆頭に、新宿ハイツ、ムーランドール、ムーランルージュ、三光町ハイツ、池袋、銀座、北千住、横浜、新小岩などにあった福富太郎のハリウッド、大井町、鶴見、池袋、大宮、千葉などにあった杯一、鴬谷のスター東京、横浜のパリ、大宮のアポロ、蒲田チャイナタウン等など、まさに百花繚乱でした。
私が在籍していた「楽団 魅惑の羽衣」の先輩トランペッターはプロミュージシャンで、演歌バンドに長く在籍していました。そして時々トラと称してエキストラ(臨時)にキャバレーに入ることがあります。で、いつでも吹いているだけではつまらないので、キャバレー遊びをしてみようという計画が持ち上がりました。それで私がお供することになったわけです。
そしてその時選んだのが田口八重子さんが働いていた池袋杯一でした。パイイチと呼んでいましたが、パイチと発音している文章も見受けられます。田口さんはその後池袋ハリウッドに移られたようです。
そして最初で最後のキャバレー探検が始まりました。
確か最初は表口から店内へ、セット2000円とチケット500円のが4枚つづりで2000円だったでしょうか。合計4000円を払って入っていくと、ボックス席に通されました。セットメニューはビールとなんか乾き物のおつまみだったと思います。それからは来るは、来るは、おねえちゃんが!とにかく、とっかえひっかえやってきます。
馴染みになって通ってくれということで、すぐに名刺がいっぱいになりました。その名刺は残念ながら処分してしまいました。先輩はとっているかもしれません。
チケットで水割りとか、少し頼んだらすぐなくなってしまい、延長はできないということでその場を去りました。東大に行っているという振れ込みでやっているお姉さんもおり、とにかく自分の客を確保すべく、一生懸命で圧倒された1時間でした。何を話したのかは覚えていませんでしたが、若い人はいなかったので、面白がっていろんなおねえさんが来てくれたんだと思います。
それから今度は裏口へまわり、バンドの楽屋を訪問しました。バンドは管楽器の入ったバンドと、コーラスバンド(クールファイブみたいな)が30分交替で演奏するようになっており、音楽が途切れることはありません。
「○○ちゃんきてたの?」と海軍軍楽隊の生き残りのバンマスが私の先輩に挨拶してくれました。その時吹いていたアルトサックスが写真のアルバムの鬼敏剛さんで、渡辺貞夫さんの大先輩のその筋では名人と言われた方でした。日本のポール・ディズモンドといった感じでしょうか。
先生のレコードが手に入ったので、ぜひサインをしてほしい旨話して、首尾よくサインをいただきました。そして鬼さんはアルバムの解説を指して「石塚君、ここに書いてあることは全くの出鱈目だ。解説の○浪洋○という人と会ったこともなければ、こんなウソを書かれるいわれもない。だからレコード解説を見てしたり顔で話すやつらはみんなインチキなんだよ。」
それまでレコード解説でいろんな知識を得ていた自分を大きく恥じ、この老名人の言葉を胸に大きく刻んだ一瞬でした。
キャバレーの楽屋の廊下にはコクヨの大判の方眼用紙が3枚も貼られて、下の方にホステスの源氏名がずらりと並び、そのうえに指名の回数が○のシールで貼られていました。いっぱいの方は隣のグラフにはみ出ていますし、何も貼られていない方も結構いらっしゃいました。多分200名ほどはいたでしょうか。なんとも厳しい世界なのです。
その後ここに立った時、その場所は駐車場になって跡形もなくなっていました。私は一瞬でも田口さんと同じ廊下を歩き、その廊下に貼られた、彼女もそれを見て一喜一憂したであろうグラフをみたのです。そのことが忘れられません。
是非、一日も早く日本に帰ってこれることを願わずにおれません。
追伸:レコードデータ タイトル:ミスティー (アルトサックス・ムード)女の夜のシリーズ
アルトサックス:鬼敏剛 編曲:小野崎孝輔 モダンポップスオーケストラ
レコード番号:MR3077 ポリドールレコード 発売元:日本グラモフォン株式会社
見つけたら買いです!!
頑張って、見つけてください!
田口さんが働いていたキャバレーの楽屋で、老アルトサックス奏者にサインをしてもらったからです。
新聞には飲食店従業員という書き方になっていますが、少し前ならキャバレーホステスという報道になっていたと思います。私としてはキャバレーのイメージが悪いためそのようなことになっているのでは、と思ってしまいます。でもキャバレーはみなさんが思うような、ピンクではありませんでした。小粋な大人の社交場なのでした。
今から20年ぐらい前になるでしょうか、バブルも後期の頃で、駅前にあるキャバレーは土地も十分に使っており、地上げの対象となることが多く、日に日になくなっていきました。
名門といわれた銀座クラウン、モンテカルロ 赤坂ニューラテンクオォーター、ミカドなどを筆頭に、新宿ハイツ、ムーランドール、ムーランルージュ、三光町ハイツ、池袋、銀座、北千住、横浜、新小岩などにあった福富太郎のハリウッド、大井町、鶴見、池袋、大宮、千葉などにあった杯一、鴬谷のスター東京、横浜のパリ、大宮のアポロ、蒲田チャイナタウン等など、まさに百花繚乱でした。
私が在籍していた「楽団 魅惑の羽衣」の先輩トランペッターはプロミュージシャンで、演歌バンドに長く在籍していました。そして時々トラと称してエキストラ(臨時)にキャバレーに入ることがあります。で、いつでも吹いているだけではつまらないので、キャバレー遊びをしてみようという計画が持ち上がりました。それで私がお供することになったわけです。
そしてその時選んだのが田口八重子さんが働いていた池袋杯一でした。パイイチと呼んでいましたが、パイチと発音している文章も見受けられます。田口さんはその後池袋ハリウッドに移られたようです。
そして最初で最後のキャバレー探検が始まりました。
確か最初は表口から店内へ、セット2000円とチケット500円のが4枚つづりで2000円だったでしょうか。合計4000円を払って入っていくと、ボックス席に通されました。セットメニューはビールとなんか乾き物のおつまみだったと思います。それからは来るは、来るは、おねえちゃんが!とにかく、とっかえひっかえやってきます。
馴染みになって通ってくれということで、すぐに名刺がいっぱいになりました。その名刺は残念ながら処分してしまいました。先輩はとっているかもしれません。
チケットで水割りとか、少し頼んだらすぐなくなってしまい、延長はできないということでその場を去りました。東大に行っているという振れ込みでやっているお姉さんもおり、とにかく自分の客を確保すべく、一生懸命で圧倒された1時間でした。何を話したのかは覚えていませんでしたが、若い人はいなかったので、面白がっていろんなおねえさんが来てくれたんだと思います。
それから今度は裏口へまわり、バンドの楽屋を訪問しました。バンドは管楽器の入ったバンドと、コーラスバンド(クールファイブみたいな)が30分交替で演奏するようになっており、音楽が途切れることはありません。
「○○ちゃんきてたの?」と海軍軍楽隊の生き残りのバンマスが私の先輩に挨拶してくれました。その時吹いていたアルトサックスが写真のアルバムの鬼敏剛さんで、渡辺貞夫さんの大先輩のその筋では名人と言われた方でした。日本のポール・ディズモンドといった感じでしょうか。
先生のレコードが手に入ったので、ぜひサインをしてほしい旨話して、首尾よくサインをいただきました。そして鬼さんはアルバムの解説を指して「石塚君、ここに書いてあることは全くの出鱈目だ。解説の○浪洋○という人と会ったこともなければ、こんなウソを書かれるいわれもない。だからレコード解説を見てしたり顔で話すやつらはみんなインチキなんだよ。」
それまでレコード解説でいろんな知識を得ていた自分を大きく恥じ、この老名人の言葉を胸に大きく刻んだ一瞬でした。
キャバレーの楽屋の廊下にはコクヨの大判の方眼用紙が3枚も貼られて、下の方にホステスの源氏名がずらりと並び、そのうえに指名の回数が○のシールで貼られていました。いっぱいの方は隣のグラフにはみ出ていますし、何も貼られていない方も結構いらっしゃいました。多分200名ほどはいたでしょうか。なんとも厳しい世界なのです。
その後ここに立った時、その場所は駐車場になって跡形もなくなっていました。私は一瞬でも田口さんと同じ廊下を歩き、その廊下に貼られた、彼女もそれを見て一喜一憂したであろうグラフをみたのです。そのことが忘れられません。
是非、一日も早く日本に帰ってこれることを願わずにおれません。
追伸:レコードデータ タイトル:ミスティー (アルトサックス・ムード)女の夜のシリーズ
アルトサックス:鬼敏剛 編曲:小野崎孝輔 モダンポップスオーケストラ
レコード番号:MR3077 ポリドールレコード 発売元:日本グラモフォン株式会社
見つけたら買いです!!
頑張って、見つけてください!
豊川炭鉱馬車鉄道について。
一昨日の竹田又右衛門さんとの出会いで少し触れたのですが、この鉄道について書いてみたいと思います。
米沢に鉄道(奥羽線=今の山形新幹線のルート)が開通したのが明治32年5月15日、それからほどなくして豊川炭鉱馬車鉄道が7月25日米沢停車場-糠野目間を開業しました。その後9月19日赤湯まで延長しました。馬車鉄道とは、馬が客車や貨車を引っ張る鉄道です。
小学生の頃から、米沢大年表(中村忠雄編)という本で存在は確認していたのですが、なぜか全国の便覧などには全く存在を拒否しているかのような鉄道なのです。鉄道趣味というのは、それはそれは奥の深いもので、歴史、写真、国鉄、私鉄、貨車、乗車、乗車券、模型、等等細分化に細分化を重ね一つの分野に必ず権威がおられます。私鉄の歴史の権威は和久田康雄氏ですが、残念ながらこの鉄道のことはどれにも掲載されていません。いまのところ前述の年表以外に米沢市史、川西町史、粡町史に数ページの記述があるぐらいで、山形県史など県の歴史には一切登場しません。
但し、現在米沢市立図書館に残る米澤新聞にある程度詳しいことが記載されており、役員も米澤新聞の役員とかぶっている方もおりました。米沢駅より赤湯まで走ったことは確認できたのですが、実際冬を迎えて運休して春にはそのまま運転されず、ほんの数ヶ月程度で廃止に至った、ある意味稀有な鉄道ということが分かりました。当然株主からは訴えられる始末となり、大失敗に終わるのです。
資本金5万円は現在の5億ぐらいのイメージでしょうか。その後米沢には私営鉄道熱は全くなく、よほど痛い目にあったのだと思います。置賜では唯一高畠町が高畠鉄道を糠野目-高畠-二井宿間に開業させたぐらいです。
今のところ、新聞記事と法務局の登記簿しか見つけ出せていません。株券、路線図、時刻表、そして開業式の写真なんかがあれば是非見てみたいと思います。心当たりのある方はご一報ください。
ちなみに豊川炭鉱は飯豊町手ノ子にあった亜炭鉱山で、残念ながらそちらには鉄道が通じることはありませんでした、
諸般ストラウスの事情で、、、
米沢に鉄道(奥羽線=今の山形新幹線のルート)が開通したのが明治32年5月15日、それからほどなくして豊川炭鉱馬車鉄道が7月25日米沢停車場-糠野目間を開業しました。その後9月19日赤湯まで延長しました。馬車鉄道とは、馬が客車や貨車を引っ張る鉄道です。
小学生の頃から、米沢大年表(中村忠雄編)という本で存在は確認していたのですが、なぜか全国の便覧などには全く存在を拒否しているかのような鉄道なのです。鉄道趣味というのは、それはそれは奥の深いもので、歴史、写真、国鉄、私鉄、貨車、乗車、乗車券、模型、等等細分化に細分化を重ね一つの分野に必ず権威がおられます。私鉄の歴史の権威は和久田康雄氏ですが、残念ながらこの鉄道のことはどれにも掲載されていません。いまのところ前述の年表以外に米沢市史、川西町史、粡町史に数ページの記述があるぐらいで、山形県史など県の歴史には一切登場しません。
但し、現在米沢市立図書館に残る米澤新聞にある程度詳しいことが記載されており、役員も米澤新聞の役員とかぶっている方もおりました。米沢駅より赤湯まで走ったことは確認できたのですが、実際冬を迎えて運休して春にはそのまま運転されず、ほんの数ヶ月程度で廃止に至った、ある意味稀有な鉄道ということが分かりました。当然株主からは訴えられる始末となり、大失敗に終わるのです。
資本金5万円は現在の5億ぐらいのイメージでしょうか。その後米沢には私営鉄道熱は全くなく、よほど痛い目にあったのだと思います。置賜では唯一高畠町が高畠鉄道を糠野目-高畠-二井宿間に開業させたぐらいです。
今のところ、新聞記事と法務局の登記簿しか見つけ出せていません。株券、路線図、時刻表、そして開業式の写真なんかがあれば是非見てみたいと思います。心当たりのある方はご一報ください。
ちなみに豊川炭鉱は飯豊町手ノ子にあった亜炭鉱山で、残念ながらそちらには鉄道が通じることはありませんでした、
諸般ストラウスの事情で、、、
原信夫と#&♭を想う。
今年の夏でシャープが解散することになりました。日本のフルバンドでも最高峰といってもいいでしょう。長い歴史のあるバンドで、解散コンサートが開かれるのはめったにないことだと思います。
私の持っているレコードで見砂直照と東京キューバン・ボーイズ解散記念コンサートの実況録音があります。場所は新宿厚生年金会館、その中に#&♭がゲストで出ており、リーダーの原さんはこんなことを話していたと思います。
「いやぁ、見砂さん、よかったですねぇー。いや、やめるのがよかったというのではなく、世界でもバンドリーダーの末路というものは大概悲惨なものですよね。でも見砂さんはこうやってファイナルを迎えることができた。これはすばらしいことだと思うのです。ー」
まあ、大体こんなことを話されていたと思います。
このコンサートのときから、多分原さんは今日のことを考えていたのではなかったかと思うのです。ギタリストの息子さんもいらっしゃるので、継続も可能であったと思いますが、やはり美学優先という感じがします。
ノーチェ・クバーナ、ブルー・スカイ、ニュー・ハードなんかは本人がいなくとも継続していますし。
そして、原さんは最後にベストのバンドにするべく、今までやってきた人と往年のメンバーとの交換をしました。この辺が原さんの凄いところで、通常の人は今まで頑張ってきたんだから、なんて甘っちょろいことになるのですが。
原さんが言うように、アメリカの偉大なバンドリーダー、たとえばライオネル・ハンプトン、ウディ・ハーマンなどは80歳を超えてなおバンドを維持し続けていましたが、本人の具合が悪くなったとき、スイング・ジャーナルに金がなくて困っているので寄付金を募っております、などという告知が掲載されるのです。
そういう意味では、原信夫はプロだなぁ、と徹子の部屋のインタビューを見ながら思いました。
写真は店にセットしたレコードの数々です。#&♭はあったかなぁーー?
私の持っているレコードで見砂直照と東京キューバン・ボーイズ解散記念コンサートの実況録音があります。場所は新宿厚生年金会館、その中に#&♭がゲストで出ており、リーダーの原さんはこんなことを話していたと思います。
「いやぁ、見砂さん、よかったですねぇー。いや、やめるのがよかったというのではなく、世界でもバンドリーダーの末路というものは大概悲惨なものですよね。でも見砂さんはこうやってファイナルを迎えることができた。これはすばらしいことだと思うのです。ー」
まあ、大体こんなことを話されていたと思います。
このコンサートのときから、多分原さんは今日のことを考えていたのではなかったかと思うのです。ギタリストの息子さんもいらっしゃるので、継続も可能であったと思いますが、やはり美学優先という感じがします。
ノーチェ・クバーナ、ブルー・スカイ、ニュー・ハードなんかは本人がいなくとも継続していますし。
そして、原さんは最後にベストのバンドにするべく、今までやってきた人と往年のメンバーとの交換をしました。この辺が原さんの凄いところで、通常の人は今まで頑張ってきたんだから、なんて甘っちょろいことになるのですが。
原さんが言うように、アメリカの偉大なバンドリーダー、たとえばライオネル・ハンプトン、ウディ・ハーマンなどは80歳を超えてなおバンドを維持し続けていましたが、本人の具合が悪くなったとき、スイング・ジャーナルに金がなくて困っているので寄付金を募っております、などという告知が掲載されるのです。
そういう意味では、原信夫はプロだなぁ、と徹子の部屋のインタビューを見ながら思いました。
写真は店にセットしたレコードの数々です。#&♭はあったかなぁーー?