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明治32年7月26日の

  • 明治32年7月26日の
米澤新聞に「米澤料理店案内」(いろは順)というのが載っています。それによると、
水田蒼茫 涼風颯々 花澤佐氏泉公園 花都
和洋御料理 高等旅館 米澤市あら町 鳳鳴楼
舊北堤上 眺望佳絶 越後番匠町 小川楼
御料理 大勉強 越後番匠町 若村楼
会席料理 大勉強の親玉 立町 よか楼
寒碧楼  今町 南部屋
清泉混々 冷風陳々 花澤佐氏泉公園 松川楼
幽鬱閑雅 雨に晴に四時佳絶 松ヶ岬公園 舞鶴楼
眺望勝絶 松涛琴の如し 立町浦舊東堤上 新鳳鳴楼
一望の青田 東風薫る 門東町 新小川楼
松川名産 鰻大蒲焼 立町神明社内 政養亭
三層楼上 眺望佳絶なり 川井小路 愛鶴亭

都合12軒リストアップされています。現在料理屋として続いているのは政養亭が可奈免として、松川楼が現在の松川弁当店でべこ屋として盛業中です。
眺望云々と言っているのは、三の丸の土手の上に料理屋が多かったことを示しています。まあやっぱり殿様気分を味わえる場所だったのでしょう。

多分この頃には先年まで営業していた東陽館、竹盛軒などもあったと思いますが、このリストには出ていません。名前が違ったりするのでしょうか。
また松岬公園内にはもう一軒招僊閣もあったはずですが、ここも載っていません。

東京庵、東家、秀の家あたりはいつからどういうことになっているのでしょう。
しかし見事になくなってますね、料理屋。
そうすると東家はかなり貴重です。

このほかに福田遊廓(通称新築)というのがあり、まあこっちはあっちのほうですが、、、
揚揮楼、武蔵楼、松鶴楼、梅林楼、竹川楼、有明楼、銀波楼、小金楼、品川楼(明治30年12月現在)となかなか賑やかだったのだと思います。

写真はこのリストには載っていない萬景楼、でも写真も古いので、時期的にはそれほど違わないと思います。
これは場所が今のポポロの北東ということなので、新鳳鳴楼の後なのでしょうか。大正6年の大火で焼失しています。
2010.08.25:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

今期2回目の花火大会。

  • 今期2回目の花火大会。
米沢新聞社主催の東北花火大会を質実剛健な男とすれば、米沢日報社主宰の納涼水上花火大会はおきゃんな娘という感じの花火大会です。

このような小さい町に未だローカル紙が2社あって、新聞を出し花火大会を主催する、しかも双方ともスポンサーからの提供で賄っているのが素晴らしいです。
しかも段々力が拮抗してきているような感じがします。
山形県内の他の花火大会の主催者は、観光協会とか商工観光課、大会実行委員会とか金儲けとは程遠いところがやっていて、その辺も米沢いいぞっ!て感じが勝手にしています。

勿論規模は全然違いますが、お城の周りは河原とは違ってなにげに華やいでおります。
伝国山(と勝手に呼んでおりますが)は去年よりもかなり多くのギャラリーが陣取り、的屋の屋台も心なしか増加傾向にあるようです。

来年は50回大会とのことなので、是非見に行ってはいかがでしょう。
とにかく、一つの町でワンシーズンに2回別の場所で傾向の違う花火が見られるのは、全くもって幸せなことです。

2010.08.06:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

最後の即身仏は、

  • 最後の即身仏は、
3日に家族で海に行ってきました。なるべく近くがいいということで瀬波にしました。
温泉の中心に位置する観光案内所で、海水浴場の情報を得て外に出ると「村上市観光案内地図」という看板を見つけました。

その中に本邦だったか日本最後だったかの即身仏というのが書いてあります。村上駅に近い観音寺に安置されている仏海というお坊さんです。
世はやはり即身仏ブームなのかなどと思いつつ、かみさんに見に行かないかと相談してみたのですが、それはいいだろうということで対面には至りませんでした。

それにしても日本最後というのが気になります。
明治の世になり、墓を掘ってはいけないので実際入滅しても即身仏としてこの世に表れることはない、というような感じだと思いますが。入定自体が自殺ということで、仏海さんは残念ながら入定塚での即身仏化は出来なかったようです。

それでは、どのようにして即身仏になったのか、気になるところです。
今回の足立区の111歳の方の一件ではホットカーペット云々と書いてありましたが、その当時(明治36年)は無かったしなぁ。
兎に角欲得の無い清らかな、子供に人気のある生き仏さんだったとのことです。
2010.08.06:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

あやめ公園に行ってきました。

  • あやめ公園に行ってきました。
昨日は父の日と自分の誕生日が重なり、朝息子から手紙をもらいました。
「いつもあそんでくれてありがとう。おじいちゃんになってもしなないでください。」という衝撃的内容でした。
最近身内に不幸が重なっているので、そういう文面になったのでしょう。

夕方から長井に向かい、あやめ公園で演奏してきました。
あやめ公園が開園100周年の記念イベントに呼んでいただいたのです。
観光協会の方々にお世話になり、無事ライブを終えることができました。
聞きに来てくださった方、本当にありがとうございました。

久しぶりのあやめ公園は、情緒があって素晴らしく、駐車場の野川も京都の鴨川を思わせ、川風に吹かれながら涼を楽しみました。
今年は天候のせいでまだ咲いてない品種もあるので、是非あやめ公園に遊びにいらしてください。
焼そば、油濃くなくて美味しかったです。
2010.06.21:mameichi:コメント(0):[そこいら辺を歩く]

米沢駅の南側に、

  • 米沢駅の南側に、
南側といっても自転車置き場があって、ゆあーずの南側にちょっとした異空間があるのをご存知の方はいらっしゃるのでしょうか。

子供の頃より怪しげな場所として認識はしていましたが、余り近づくこともなく時間が過ぎておりました。
ここには大きく分けて三つのモニュメントがあります。

一つ目は「いぼころり地蔵」という二体の石の地蔵様です。周囲には一杯の小さな石が供えられ、それでいぼをこするといぼがとれるのだそうです。

二つ目は1909年明治42年に福島県赤岩信号場で起こった脱線転覆事故の殉職記念碑です。川の石に刻んだようなシンプルな石碑です。

三つ目は鉄道の犠牲者の忠魂碑で、数年前までぼろぼろだったものが最近修復されたようです。これはコンクリート製の堂々としたもので、そのときの鉄道大臣が揮毫した銅版が埋め込まれています。

手許に資料がないので詳しくは分からないのですが、福島から米沢に奥羽線を通したものの、公共交通機関としては、実際はかなり不完全な方法であったのだと思います。
一回敷いた線路も、数回変更されているし、機関車はこの線のためのいつも特注です。山線と呼ばれ、鉄道マンの間でも難所として知られていた場所。

それにしても赤岩信号場の事故は、米沢機関区の人が乗務員で確か3名が殉職されたときいています。
その日が明日6月12日、またこのときの写真が現在ヤフオクに出展されているというのも、ちょっとした因果を感じます。101年前の出来事です。

写真はいぼころり地蔵の奥が、赤岩殉職記念碑、右側の家の前にあるのが鉄道忠魂碑です。
2010.06.11:mameichi:コメント(2):[そこいら辺を歩く]