丁度20年で閉店と言うことで、平成2年に米沢に帰ってきたので知らなかった訳で、一回も行かずじまいでした。
東京にいた7年間の中で、レコード屋だけを振り返ってみると、渋谷と言うのはそれほど印象にありません。
センター街から少し入って左側の路地の地下の所にあった中古レコード屋は、結構いいお値段つけていました。店によってかなり違うんです、中古盤も、外国盤新譜も。
渋谷といえば私の場合は、今はあの場所でなくなったような気がするタワーレコード、あのころはハンズの斜二軒目のビルの2階にあり、ジャズ喫茶スイングも近いのでお世話になりました。
そのスイングのビルにも坂を登ってすぐレコード屋(ここは中古)がありましたが、いつ行っても私の欲しいものは一枚もない店でした。店の名前はみんな忘れました。
そうそう、もう一軒ありました。
渋谷の駅からR246の歩道橋を渡り、リンガーハットの前を通り、石橋エータロー氏がやっていたであろう三漁洞という料理屋の前を通り、山手線に並行して恵比寿方面に歩いていくと、古いビルが何軒か軒を重ねています。
ダンス教室とか、怪しげな事務所、音楽練習スタジオなどに交ざって「芽瑠璃堂」という黒人音楽専門の新譜屋がありました。
3階だったか4階だったか、結構フロアは広く、ブルース、ラテン、R&Bなどずっと見ていくと2時間ぐらいは時間を潰せました。
この芽瑠璃堂、元々は吉祥寺が本店で、本当に鰻の寝床のような小さい店内に私の大好きなものが、一杯置いてありました。
私の仲間からはあまり好かれていなかった店長は、私にはよくしてくれていたので、ついつい長居をしていろんな話をしたものです。レコードは実は2割ほど引いて貰っていました。
テナーサックスはハンク・モブレーとかティナ・ブルックス、アイク・ケベックなどがお好みで、「ラッキー・ルチアーノの本がある筈なんだ。古本屋にいったら探してきてくれ。」などと言われたり。
東京を去って数年、名古屋の出張の帰りに吉祥寺により芽瑠璃堂の前に立ちました。残念ながら店はやっていませんでした。休みだったのか閉店してしまったのかは憶えていませんが、多分閉店になっていたのだと思います。
仕方がないので、斜向いの「ニュー・バーグ」でつなぎたっぷりのハンバーグを食べて、その角の洋服屋で果物柄の生成りのアロハ風のシャツを買って米沢に戻りました。
それから数年後、このシャツを着ていたら「私もそれと同じの持ってるよ。」といいます。
タグは違うけど同じ商品の赤のやつです、Sサイズで。
で、それが今のかみさんです。
しかしみんなもう行かないんですね、CD屋さんに。
私の場合、途中から中古レコードしか買わなくなったんで、現地に行って購入したいです。
また、一回は三漁洞で一杯やりたいなあ、とも思っていたのですが敷居が高かったですね、25、6のあんちゃでは。
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米沢に映画館が一杯あった頃。
今ワーナーマイカル米沢には7スクリーンあるんだとか。
昔の米沢にも最大7館がしのぎを削った時代があったといいます。
戦後急激に景気が回復して、米織も活況を呈し、まだテレビのない時代女工の皆さんも、子供達も、大人たちも映画館に足を運んだのでしょう。
私が子供の頃稼動していたのは次の4館です。
一番最後まであった日活丸の内(グリーンハウスという時代もあったそうです。)、中央映画館(大映系、今はマンションになっている第一ホテルの南側)、米沢劇場(東宝系、現在は今村タクシーと大清の間の駐車場)遊楽館(松竹系、あら町、丸万旅館北、現在も建物の一部はある)
遊楽館には入ったことはなかったんですが、憶えています。あと3館は見に行きました。ジョーズ、ゴジラ、ガメラとかそういうものを。
それ以前にあった劇場は、今の米沢ボーリングのところにあった、その名も国際劇場、立町皇大神社の南側にあった米沢銀映、そして当時の米沢新聞社長の辻武蔵が公会堂を借りてやっていた映画館と7つあったらしいのです。
多分その頃の邦画は、東宝、松竹、東映、日活、大映、新東宝の6社ぐらいと思われるので、洋画館もあったのでしょうか。
残念ながらこの小さい町でこの状況は余り長くは続かず、協定により確か銀映が閉館の憂き目にあったと、読んだことがあります。
二階席の独特な怪しげな感じや、便所の臭さ、退廃的なムードが自分にとっての映画館でした。
それから見るとずいぶんからっとしている今の映画館はどうでしょう。
随分行ってないので、今度息子と行きましょう。
昔の米沢にも最大7館がしのぎを削った時代があったといいます。
戦後急激に景気が回復して、米織も活況を呈し、まだテレビのない時代女工の皆さんも、子供達も、大人たちも映画館に足を運んだのでしょう。
私が子供の頃稼動していたのは次の4館です。
一番最後まであった日活丸の内(グリーンハウスという時代もあったそうです。)、中央映画館(大映系、今はマンションになっている第一ホテルの南側)、米沢劇場(東宝系、現在は今村タクシーと大清の間の駐車場)遊楽館(松竹系、あら町、丸万旅館北、現在も建物の一部はある)
遊楽館には入ったことはなかったんですが、憶えています。あと3館は見に行きました。ジョーズ、ゴジラ、ガメラとかそういうものを。
それ以前にあった劇場は、今の米沢ボーリングのところにあった、その名も国際劇場、立町皇大神社の南側にあった米沢銀映、そして当時の米沢新聞社長の辻武蔵が公会堂を借りてやっていた映画館と7つあったらしいのです。
多分その頃の邦画は、東宝、松竹、東映、日活、大映、新東宝の6社ぐらいと思われるので、洋画館もあったのでしょうか。
残念ながらこの小さい町でこの状況は余り長くは続かず、協定により確か銀映が閉館の憂き目にあったと、読んだことがあります。
二階席の独特な怪しげな感じや、便所の臭さ、退廃的なムードが自分にとっての映画館でした。
それから見るとずいぶんからっとしている今の映画館はどうでしょう。
随分行ってないので、今度息子と行きましょう。
落語絵本。
子供が生まれて少ししてから、東京でバンドをしていた頃のK先輩御夫婦からお祝いをいただきました。
それが落語絵本。随分お蔵入りの期間が長かったのですが、やっとなんとなく意味も分かるようになり最近マイブームらしく、そのシリーズを図書館で借りてきたりしています。
で、幼稚園では学期ごとに席替え、グループ替えをして、その時々にテーマを決めてグループ名を決めているようです。
今までは茄子グループとか、鯉グループとかあったのですが、今回は本のタイトルとのことで、息子のグループは何と「いちがんこく」グループになったそうです。
渋いね!
この落語絵本は、強烈な洒落とか、人が亡くなるさまなどは回避しており、「たがや」に関しては全く別な噺を作り変えていたり、このギャグは志ん朝師匠のだな、なんて分かるところもあり、大人でも面白く読めますよ。
それが落語絵本。随分お蔵入りの期間が長かったのですが、やっとなんとなく意味も分かるようになり最近マイブームらしく、そのシリーズを図書館で借りてきたりしています。
で、幼稚園では学期ごとに席替え、グループ替えをして、その時々にテーマを決めてグループ名を決めているようです。
今までは茄子グループとか、鯉グループとかあったのですが、今回は本のタイトルとのことで、息子のグループは何と「いちがんこく」グループになったそうです。
渋いね!
この落語絵本は、強烈な洒落とか、人が亡くなるさまなどは回避しており、「たがや」に関しては全く別な噺を作り変えていたり、このギャグは志ん朝師匠のだな、なんて分かるところもあり、大人でも面白く読めますよ。
残暑に併せて聴くヴォーカルは、
写真右下は、映画俳優としても大きく名を残すディノことディーン・マーティン。本名ディノ・ポール・クロセッティ。
いつも煙草をふかし酒を飲みながら唄うスタイルは、サミー・ディビス・Jrなどの形態模写でも有名。シナトラ一家(ラット・パック)の番頭として活躍。
歌声は暖かく、そして大きく包み込む様は、揺り篭に抱かれているようないい気持ちになる音楽。1995年没。
写真左下は、ペリー・コモに見出され、甘いマスクと美声を武器に1950年代のスター歌手となるヴィック・ダモーン。本名ヴィト・ロッコ・ファリノーラ。
唄も甘く、ちょっと空気の中を浮遊している感じがする。シナトラをして「業界最高の声帯の持ち主」と言わしめた人物。82歳現役。
写真右上は、歌う床屋さんとして有名になったペリー・コモ。本名ペリーノ・コモ。
床屋の見習いをしている時にコンクールで優勝したため、そういった愛称になったが、その当時バーバーショップ・コーラスという言葉があったぐらい、床屋さんは唄ったらしい。
マフィアとの関係を嫌い、カジノでの出演を拒み続けたとあることでこの人の性格がわかろうというもの。2001年没。
写真左上は、ピアニスト、アレンジャーとしてもその名を残すバディ・グレコ。本名アルマンド・グレコ。
5歳でデビュー、10年間に渡ってラジオ番組を持つ、早熟の天才肌。その後ベニー・グッドマン楽団のピアニスト・アレンジャー・ヴォーカルとなりその後独立。エピックからシナトラのリプリーズに移籍した時、「これで俺も安心して引退できる。」と言ったのは有名な話。歌声は歯切れよくしかもスピード感があり、目が詰まっているといった歌唱である。84歳現役。
良くも悪くもこの辺の男性歌手はシナトラからの影響から逃れられるものではありません。
しかも、みんなイタリアン。明るく陽気な感じは正にイタリア人の美徳ですが、一番売れたフランシス・アルパート・シナトラにのみ寂しさや憂いが色濃くあります。(ただしカフェ・グレコ、或いはグレコローマンスタイルなどで分かる通り、グレコは元々はギリシャ人だったんでしょう。しかも悪い奴という愛称付きの!)
空気がふんわりと感じるので、時々かけています。
いつも煙草をふかし酒を飲みながら唄うスタイルは、サミー・ディビス・Jrなどの形態模写でも有名。シナトラ一家(ラット・パック)の番頭として活躍。
歌声は暖かく、そして大きく包み込む様は、揺り篭に抱かれているようないい気持ちになる音楽。1995年没。
写真左下は、ペリー・コモに見出され、甘いマスクと美声を武器に1950年代のスター歌手となるヴィック・ダモーン。本名ヴィト・ロッコ・ファリノーラ。
唄も甘く、ちょっと空気の中を浮遊している感じがする。シナトラをして「業界最高の声帯の持ち主」と言わしめた人物。82歳現役。
写真右上は、歌う床屋さんとして有名になったペリー・コモ。本名ペリーノ・コモ。
床屋の見習いをしている時にコンクールで優勝したため、そういった愛称になったが、その当時バーバーショップ・コーラスという言葉があったぐらい、床屋さんは唄ったらしい。
マフィアとの関係を嫌い、カジノでの出演を拒み続けたとあることでこの人の性格がわかろうというもの。2001年没。
写真左上は、ピアニスト、アレンジャーとしてもその名を残すバディ・グレコ。本名アルマンド・グレコ。
5歳でデビュー、10年間に渡ってラジオ番組を持つ、早熟の天才肌。その後ベニー・グッドマン楽団のピアニスト・アレンジャー・ヴォーカルとなりその後独立。エピックからシナトラのリプリーズに移籍した時、「これで俺も安心して引退できる。」と言ったのは有名な話。歌声は歯切れよくしかもスピード感があり、目が詰まっているといった歌唱である。84歳現役。
良くも悪くもこの辺の男性歌手はシナトラからの影響から逃れられるものではありません。
しかも、みんなイタリアン。明るく陽気な感じは正にイタリア人の美徳ですが、一番売れたフランシス・アルパート・シナトラにのみ寂しさや憂いが色濃くあります。(ただしカフェ・グレコ、或いはグレコローマンスタイルなどで分かる通り、グレコは元々はギリシャ人だったんでしょう。しかも悪い奴という愛称付きの!)
空気がふんわりと感じるので、時々かけています。