◎田沢軽便線の反対運動と挫折
米沢市議会史によれば、
明治30年当時、軌道条例に基づく架設申請を知事に提出し受理されていた。しかし地域住民の意見をふまえ、その可否は同条例上、市会議決が要件となっており、同年12月、菊地九郎県知事からの諮問となった。
同年12月27日の急施市会は、大瀧新十郎議長のもと「田沢軽便線架設」の知事諮問案の上程を決めた。
軽便線計画によると、大樽橋を起点として東進、つまり四の坂、三の坂、二の坂下ー矢来ー舘山口ー御膳部町入口までの路上にレールを架設、トロッコを稼働させて市民への生活燃料の供給を計ろうとするものであった。
この提案説明に続き活発な賛否意見の開陳となったが、議長は慎重な問題とし調査を長清水、深澤忠蔵、針生新太郎、青柳四郎の4名に委託し年明け早々の市会に地域住民の意向を含め報告を要請した。
明治31年1月12日の市会に4名委員からの報告がなされ、次の問題点が述べられた。
- 道路幅員が四間未満と狭少で市民通行上に支障なしとしない。
- 軽便軌道化によって田沢地内の山林労働者が排除される。これは鷹山公の一人でも多くの就労によって家計を支える上での木流し廃止につながるものではないか。
これに対し軌道賛成者、長清水、綱島哲、また反対者、石坂祐吉がそれぞれ同志を代表し論陣を張り、最終的には議長の宣で採決、反対者多数で議了となった。
反対者側の論点に沿道住民の安全通行優先があり、市会は、知事の諮問に対し、否とする答申を決め事実上、幻の軽便線となった。(以上市議会史より)
市議会史には書かれていないが、米沢新聞によれば針生新太郎の反対意見に「豊川なる軌道は公共事業にして市民の利益を謀るものなり。(中略)田沢軽便線ために害をこうむるものは、何と全市の三分の一に該る。(後略)」とある。また反対意見を述べた石坂祐吉は、豊川炭鉱馬車鉄道の発起人に名を連ねており、その後取締役となっている人物である。
このことから一部が先に豊川ありきで動いていたのが、田沢軌道線が割って入ってきたためにそれを排除する動きがあった匂いがする。
賛成者は大瀧新十郎(市長)、池田成章(両羽銀行頭取)、綱島哲(米沢義社取締役)、長清水(市会議員)らだった。
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