どら焼きというのは楽器の銅鑼の形からついたという説が有力らしいです。
見た目その説には説得力があります。
但し江戸期のどら焼きは、皮を一枚だけ用い、端の部分を折りたたんだため四角く、片面の中央はあんこがむき出しであったという。現在のきんつばに良く似たものと考えられる、とのことです。
現在の二枚のカステラ風の生地で挟む方式は大正3年(1914年)創業の上野の和菓子屋「うさぎや」にて考案され、全国に広まったとされる、と書いてあるので、そのことから勘案すればうさぎやが作る前はどら焼きとは言わなかったのではないでしょうか。
江戸期のどら焼きは形からどら焼きとはいい難い感じがします。でも江戸期のどら焼きと断定した言い回しで書いてあるので、確実な文献を虎屋とか文明堂あたりは掴んでいるのでしょうか。多分掴んでるんだろうなぁー。
今後の研究が待たれます。
森永の徳用ホットケーキミックスが安かったので、サンヨー堂の中国産つぶ餡を一緒に購入、子供とどら焼き作りにいそしみました。
ハウスプリンの粉と共にこの粉も魔法の粉ですね。
ホットケーキといえば、神田の万惣が池波正太郎先生の食べ物の本なぞによく出てまいりますが、私は日本橋西川の後ろのたいめい軒の方に向かう道筋の喫茶店を思い出します。
店の名前は憶えていませんが、多分どら焼きを焼く機械のようなガスでやる鉄板で焼いていたのを思い出します。
何となく美味しかったような感じがあります。今もあるのでしょうか。自分のなかでは無くなったイメージがありますが。
どら焼きとは直接関係ありませんが、その喫茶店のことを思い出すと丸の内にあったホットサンドの店とか、ワッフルの店とか何とかファーマシーとか、、、あの頃(昭和終焉期)の東京にはまだGHQにオキュパイトされていたときそのままのお店も何軒かあったことが想いだされます。
でどら焼きのほうですが、作ってみるとだんだん慣れてきてフライパンもだんだん油も浸み込んで、3回目を焼く頃にはもういっぱしのうさぎやの職人になった気分で形を整えたりします。ばかですねぇー。
ミックス粉150gに卵1個牛乳100ccでどら焼き6個ぐらいの勘定です。
すぐ食べるよりもラップでくるんで少し寝かせるとしっとりした頃が食べごろです。
簡単なのでお試しあれ。
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