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スクーターで赤坂見附の坂を飛ばしていた。

  • スクーターで赤坂見附の坂を飛ばしていた。
なんでこんなに乗らなくなってしまったんだろう。なんであのころはみんな乗っていたんだろう、スクーターに。

大学生になって国分寺という武蔵野の面影を残す、東京とはいえ片田舎に越してきたころ、まわりの3人に一人ぐらいはスクーターを持っていた。
私もすぐスズキの蘭という、鳳蘭ではなく伊藤蘭がCMに出ていたのを購入した。

これがなかなかご機嫌で、晴れていればどこへでも行ける。
電車賃がないときは山手線の内側にも突入、青山通りの赤坂御用邸あたりでスピード違反で捕まったりもした。
捕まえなくってもいいじゃん!!という感じだったが。

サラリーマンになってから最初の勤務地が飯能だったため、大活躍したのも蘭だった。
飯能から渋谷のタワーレーコードに買出しに出かけ、運転していたら足元においていたレコードをどこかで落としてしまい、そのまま見つからずじまいだったのは、アレサ・フランクリンのライブ・アット・ザ・フィルモアではなかったろうか。そう、あのキング・カーティスバンド伴奏のやつ!

同じことは2度あるもので、そのときはアーネット・コブ&エディ・ロックジョー・デイビスのプレスティッジ盤だったのだが、このときは随分戻っていって車に踏まれてジャケットがでこぼこになっていたものを回収することが出来た。
レコード盤のほうは特に問題なくトレースできたが、なぜか今手元にはないような気がする。電車の網棚に忘れたのはこれかもしれない。
ブラジルのカルトーラもなくしたし、あれもこれも、、、

その後茅場町本社に行ってかも鶴見の友人のところに行った記憶があるからまだ乗っていたのだろう。その後三鷹に移った頃誰かに売ってしまい、その後周りの人も何となく乗らなくなったような気がする、スクーターに。

なんであんなにみんな乗っていた乗り物が、消えてしまうのだろう。
現在のバイクの生産台数は全盛期の10分の1らしい。


2010.09.29:mameichi:コメント(0):[あの頃]

双葉山70連勝ならず。

  • 双葉山70連勝ならず。
随分昔別府に向う途中の列車から、「双葉山出生の地」と墨痕鮮やかに書かれた看板が目に飛び込んできたことを思い出しました。
その駅は、中津だったか宇佐だったか。

昭和14年1月15日、安芸の海に敗れた双葉山が師安岡正篤に「未だ木鶏たりえず」と打電したことなどは、小学生の頃から何となく何かで読んでいました。
更に双葉山が入幕したのは春秋園事件の影響からで、角界は常に騒動が付きまとうものです。

戦後璽光尊事件で逮捕された双葉山、その双葉山を奪回しようと動いた呉清源、そして細木数子に結婚させられた安岡正篤など昭和の歴史は禍福は糾える縄の如く、複雑怪奇です。

白鵬の毎日の某放送局の騒ぎはあくまでも双葉ありきで、劣勢になったときにこういう風な盛り上げ方は、一時プロレスでもよくあったような気がします。

それはそうとして、呉清源健在なのですね。

2010.09.24:mameichi:コメント(0):[あの頃]

噺家になりたいといったあの日。

  • 噺家になりたいといったあの日。
結局、ならない訳のものでありますが。

中学の3年の頃だったか、ナイターをみていた親父がお前は何になりたいのだと訊いたことから、話は始まります。

小学校のころから図書室に通いつめていた私は、落語の本を好んで読んでいました。
割と人と交わるのが苦手だった、というのもあるのでしょうか。このパーソナルな一人語りという手法がかなり自分にあっているような錯覚を憶えたのでした。
漫才も大好きでしたが、相方が必要ではあーりませんか。
今でもお客様とちょっと長話になると、この方の息ならば出来るのでは、などと考えている自分もいるのです。テンポとか声質とかね。

でまあそれはいいとして、だからといって噺を繰ったりすることもなく、只々テレビやラジオの演芸番組にストンと入っていきました。
小学生高学年からは、テレビでやっているものは殆んど見ていたし、ラジオを買ってもらってからは関東関西、随分いろいろなものを聴いていました。

今もあるのでしょうか、TBSの大澤アナが司会をしていた「爛漫ラジオ寄席」。あと今もあるNHK真打競演。
そのほかTBS川戸貞吉氏の「早起き名人会」、NHKの「演芸広場」(月~金の帯でやっていた番組)、ニッポン放送の朝5時からやっていたやつとか、文化放送もありました、大阪の放送局、朝から浪花節も随分聞きました。
そのころは、兎に角それを中心に生きていて、さんざん聴いていました。

で、何になりたいんだなんて親は聞きますよね。噺家になりたい。烈火のごとく怒りました、二人で。
何でこいつはこういう親不孝の子供になってしまったのだろう、多分軽い気持ちで聞いた親に軽い気持ちで話したのでしょう。
で、この様です。特に落ち込むこともなく、こういう反応というのも折込済でした。

実際本当になりたかったのかは、自分でもちょっとわかりませんが、その時は少なくともそう思った、正直に話した。

なりたいものなんてなかったのだが、言えと言ったから話したまでじゃないか、と前後が全く見えてない自分でしたが、それと同じことが数年後に再発します。

2010.07.27:mameichi:コメント(0):[あの頃]

懐かしい人に逢いました。

  • 懐かしい人に逢いました。
昨日かみさんが偶然NHK教育のグラン・ジュテという番組を見ていて、寝ていたところを起こされました。
上山のタケダワイナリーの様子が映っていました。気にも留めずまた布団に入りましたが、ハードディスクに撮って呉れていたので夜中起きて見てみました。

伸ちゃんが出てきました。99年に亡くなった武田伸一さんです。
私が前にいた三弘製薬の取引先で、東京の老舗果専店の常務と伸一さんがフランス留学時代に出会い、兄弟同様の付き合いをしていた関係で、十果会という果専店の団体で山形にいらしたとき工場を見ていただいたことに彼との関係は始まります。

とにかく、よく飲み、よく食べ、よく喋るが徹底されており、随分楽しい時間をご一緒しました。
新潟のカーヴ・ドッチのゲストハウスでへべれけになり、白い絨毯に赤ワインをグラス一杯こぼしてしまったこと、蔵王坊平のロッヂで「キュベヨシコ」以下タケダワイナリー珠玉の高級ワインを十数本持ってきて、「これで3日は飲めるぞ。」と始まった宴会が弾みすぎて、うまいうまいと一晩で全部空けてしまったこと、もっと味わって飲めといいながら、伸ちゃんが一番飲んでいました。

タケダワイナリーの収穫祭では、おいしい米沢牛のバーベキューとともに、二人でテナーサックスとヴァイオリンの掛け合いで、アドリブの演奏というか、じゃれあいというかそんなこともさせていただきましたね。

彼が亡くなってから、ワイナリーとの縁は薄くなりましたが、武田さんを通して紹介いただいた果物造り名人とは今もお付き合いさせていただいております。

お葬式には田崎真也さんが弔辞を読んでくれて、、、
あれからもう13回忌なのですね。
また飲まないといけないなぁー。
2010.07.13:mameichi:コメント(0):[あの頃]

jazz喫茶育ち

  • jazz喫茶育ち
青蛙房という版元で出した本の中に六代目三遊亭円生の「寄席育ち」というのがありました。
多分図書館にあったのでしょう、買った覚えはないので。
貪るように明治の噺を読みましたっけ。

故あって円生師匠は最後は寄席から離れることになります。本人は本意ではなかったでしょうが、席亭(寄席の経営者)から肘鉄を食らわれます。
私はといえば、題名の通りjazz喫茶で音楽が好きになった人間です。

東京に行く時、今まで世話になったマイルスというジャズ喫茶のマスターから、自分の一番好きになった音源をテープに採ってもらって上京しました。
それから東京のジャズ喫茶をさ迷い歩きましたが、マイルスのような身の置き所を感じる場所はごく僅かでした。

学生が終わって就職すると、ジャズ喫茶は私の睡眠の場所へと変化していきました。
大音量が結構心地よく、よく会社をサボって昼寝に興じました。意外と眠れるのです。
気持ちよく寝かせてくれたのは渋谷と水道橋(後に飯田橋)のどちらもスイングという店でした。
店主はどちらもおじいさんで、声をかけることもなく気持ちよく寝かせていて呉れました。

もうその頃には、いわゆるモダンジャズ(マイルス、コルトレーン他)はきかなくなっていて、レスター・ヤングやベン・ウエブスターなどをリクエストするもんなら、神保町響なんかはずらっと10人以上客が帰りましたから。
ほんとにちゃんとがっかりした顔をしてレジに立つのですよ、これが。

このジャズ喫茶論には睡眠の場所という項がありませんでしたが、随分寝ている人も多くいたと思います、あのころの東京は。
2010.07.06:mameichi:コメント(0):[あの頃]