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睡眠時間はどのくらいか?

朝、息子を送り出してそこから本なぞを読んだりしていると、8時になり『ごちそうさん』と『あさイチ』をかみさんと見ていたりするところが、二人共自由業の気楽さだったりする。
今日のあさイチで、子供の睡眠時間が短かくなっている話をしていた。中学1年で午前1時の就寝とのこと。

貴方はどうだったんだという話、、『3時ごろには寝ていたよ。』

あの頃は深夜放送の時代で、オールナイトニッポンを聴かなければ、日も夜も開けなかったのだ。

で、私の場合は、落語、漫才、浪花節なども聴いていたので、早起き名人会だとか、お早う寄席みたいな番組もあり、5時からいろいろ聴いていたので、いつ寝ていたのか記憶がない。

成績はガンガン下がったが、その時にしか聴けなかった音曲師春風亭枝雀だとか、二代目都都逸坊扇歌になった富士松ぎん蝶なんというのも、リアルで聴いていたし、花菱アチャコも憶えてる。

出張するようになってからは、暁伸ミスハワイ、夢野タンゴ園ひとみ、正司敏江玲児などの大阪漫才、独楽回しのやなぎ女楽、声帯模写の桜井長一郎、珍芸の早野凡平、昭和のいるこいる、モダンカンカン、、、、、

ガキのころに夜更かししたことは、自分にとっては十分価値があったと思っているが、子供には早く寝てほしいなぁ。

あの頃夜ピカリだった分、今は息子より早く寝る毎日なのだ。
2014.02.05:mameichi:コメント(0):[あの頃]

落語を好きになったのは、

小学校は東部小学校、あの頃、まあ今から45年前は一校で1500人は軽くいた。
丁度新校舎になったばかりで、一階の玄関に近いところに割に大きな図書室があった。
ガキの時から本は好きだったので、いろいろな本を読んだ。江戸川乱歩やらなんだろう、推理ものやら、鉄道もすきだっのでそっち関係も。その中に子ども落語全集5巻があった。一冊借りて、これは面白い!となり、すぐ全巻読んでしまった。

その中に『茶の湯』という現実離れした牧歌的な噺があり、その空気感が好きになった。
それから、NHKの寄席中継とかを聴くようになったかどうかは、分からない。

ただ小学校3年か4年に三遊亭円歌師匠の噺を生で聞いたことは、鮮明に覚えている。
米沢は三回目なんです。変わりませんね、駅のアナウンス『よねざわ~、よねざわ~、よねざわ~』って物まねがつかみだった。
そして、爆笑に次ぐ大爆笑。
芸人ってスゲぇ~な!と思った。

笑点も見てはいたが、NHKで演ってたお好み演芸会がかなり渋かった。出る芸人も地味で、なんか安心して見ていられた。

そして、中学に入ると生意気にラジオなんぞを聴くようになり、確かNHK第一で19時25分から20時まで月~金でやってた、演芸広場でかなりいろいろなものを聴かせて貰った。

第一回目は古今亭志ん生、そして初めて『火焔太鼓』を聴いたときの感動は忘れられない。
その番組では落語の他にも、ダイマル・ラケット、蝶々・雄二、いとし・こいしなど大御所の漫才、虎造の浪曲、エノケン、トリローシミキンの歌や芝居。そして柳橋、円生、三木助などの珠玉の落語。本人がなくなった場合はお弟子さんがおもいでを話す。何とも私好みの番組であった。

その後、朝から晩までそれらを聴いていたら、ドンドン学力が低下してしまい、高校に入るのが一年遅れてしまった。

最近、昔のこと書いてるの多いですね、ってある人から云われたんだけど、段々忘れそうなので、じゃんじゃん書く事にしました(・ω・)ノ
2014.01.24:mameichi:コメント(0):[あの頃]

あのころのデパート

  • あのころのデパート
子供の頃小学校に入る前、米沢には百貨店がなかった。
それに近いもので、糸屋という山森佐太郎さんがやっていたのが衣料店にレストランが併設されていて何となく百貨店の雰囲気があった。
他には十字屋というのが衣料店におもちゃ売り場があったような気がする。

でもそれまでは山形に行って、大沼に行くのがデパートに行くということだった。
その大きな違いは、屋上に遊園地があったことだ。
それは、米沢に進出したときも踏襲されており、山形ほど立派なものではなかったが、楽しい場所であった。

長野まゆみさんは、百貨店出身の作家で、母親も百貨店に勤めていたということで、よくその裏おもてをご存知だ。

私にとっての百貨店は、前職の物産展が全てになった。
在職17年、どのくらいの百貨店に伺っただろう。
北は札幌西武五番館、西は博多大丸、三越、高島屋、伊勢丹、阪急、阪神、京王、東武、東急、さいかや、遠鉄どこまでいったんだろう。

子供の頃あんなに輝いていた百貨店は、バブルの崩壊と共に少しづつ力を失ってきてはいるし、余りにも出入りしすぎて随分面白くない思いなどもさせられたが、日本橋を歩けば、何となくふらふらと誘蛾灯のごとく入ってしまう、日本の商人が作り上げた傑作だと思う。
2012.11.14:mameichi:コメント(0):[あの頃]

テイジンと米沢は、、、

  • テイジンと米沢は、、、
現在の3中がその昔テイジンという会社の発祥の地だったというのは、知ってる方なら知ってる話です。
でも現実に帝人のことを現在型で語るのを聞いたのは初めてでした。

工学部で時々コーヒーを買いに来てくれる大学院生が、この夏インターンシップに行くというのです。その企業がテイジンだったわけです。
私は少し驚きました。帝人と言えばあの大屋政子さんでなぜか有名になりました。
テトロン(最近言わないなぁ)はテイジンと東レでテトロンらしいです。
現在の売上高は1兆円を超え、しかも50%はまだ繊維で稼いでる企業らしいのです。

1915年11月 - 秦逸三と久村清太が、山形県米沢市で東工業(株)米沢人造絹糸製造所を設立。

ここからテイジンの歴史は始まっています。諸般の事情により米沢から工場は撤退しましたが、いつも気にかけてはくれているようです。


2012.07.18:mameichi:コメント(0):[あの頃]

その昔、、、

サラリーマンだった頃、或る伝手があって栃木県のある牧場に営業に行きました。
「或る伝手」での訪問のため、わざわざ先方が駅に迎えにきてくれました。
記憶にあるのは牧場(これは全く記憶にない)よりも、その敷地内にある豪華なホテルでした。
そして、こちらが営業に行ったにもかかわらず、逆に先方から投資話を持ちかけてきたのです。

牧場から帰って来てすぐ勃発したBSE問題などで、取り引きは今のところ無理ということでその牧場との関係は立ち消えになりました。
たまたまその流れだったのかもしれませんが、もし取引が始まっていれば面倒なことになっていた可能性があります。
多分投資話に乗っていたかもしれません。乗らざるを得なかったかもしれません。

それとは別に、そのあと或る取引先が倒産しました。10数万円の売掛がありました。
取れませんでした。いわゆる取り込み詐欺です。
横浜の石川町の駅前の会議室であった債権者集会に出向きました。その取引で店を閉めた八百屋の大将が、出てきた経営者に「もう借金が帰ってこねえのは分かってるんだから、10発殴らせろ。」と泣きながら叫びました。
弁護士になだめられて10発殴るところは見れませんでしたが、その八百屋の大将と自分が考えていることのギャップが大きくて驚きました。

自分なりに考えて、これは相手の責任ではなく(もちろん責任はありますが)、間違いなく自分が取引をしてしまった責任のほうが大きいと考えていました。会社には損害を与えてしまいました。
が、八百屋の大将は全部相手が悪いと思ったようです。自分の店が潰れてしまったのだから、そう思っても仕方がないかもしれません。

ちょっとそんなことを思い出す事象がありました。



2011.08.20:mameichi:コメント(0):[あの頃]