山形で中々いい取組みをしてるよ、という声があちこちで聞こえるようになったのは4月の始めだったと思います。
火曜日やっと行くことができました。2時半に幼稚園が終わってお迎えに行き、まっすぐに山形へ向いました。
始めにNAKAOさんに寄っていろいろな陶器を見せたいただき、相変わらずお店の綺麗なことに感心し、勉強させていただきました。たっぷりのアイスコーヒーもおいしく戴きました。
その後十日町の長谷川家「紅の蔵」を見せてもらったのですが、これが見事に上品な京町家の風情です。
山形から最上川河口までは、あくまでも紅花という高級稀少染料の原産地として、いつでも京の都のほうにベクトルが向いていたのではないでしょうか。
米沢は徳川に睨まれて以来、どうしても江戸の顔色を伺う癖が抜けなくなって、こういう粋などという文化とは掛け離れたものをある意味構築していったような気がします。
吉田松陰は来てるけど、芭蕉は来ないもんね。
でも、うちの店に来た県外からのお客様は、一様に「米沢はいいところだ、文化がある。」といってくださることも本当に多く、この独特な田舎侍の町も県都山形と対比させることにより、一層彫りが深くなる感じがして面白いと思いました。
連携などという言葉ではなく。
相棒はこういうところに来ても、つまらないとは言わなくなってきました。
諦めているのかもしれません。
25日は濃い一日でした。
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山形「紅の蔵」に遊ぶ。
2010.05.26:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]
冬枯れの西條天満宮
以前はここに普慈幼稚園(今は花沢の方に移ったと思います。)がありました。この辺には碁会所もあった筈です。
その前は西條駒次郎という米織組合の組合長をした方が、染色業をやっていたらしいのです。
そしてその前は三の丸です。
丁度山形銀行の塀を修理しているので、全容が現れました。
その前は西條駒次郎という米織組合の組合長をした方が、染色業をやっていたらしいのです。
そしてその前は三の丸です。
丁度山形銀行の塀を修理しているので、全容が現れました。
2009.12.19:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]
上杉記念館にて
今宵は服部真弓さんをお招きしてのレセプションというか、滞在型観光を考える集いに参加させていただきました。
で、久しぶりの上杉伯爵邸です。なんか誰だかの法事で利用させてもらって以来なのですが。
ちゃんと整備されていて素晴らしいものです。二階に勝手に上がって月に吠えました。
伊東忠太の影はあんまり見えない造作ですね。どこかに隠れているのでしょうが、伊東流が。
顔見知りの方、そして初めての方にご挨拶させていただきました。
米沢で商売をしていなかったので、知らない方も随分いらっしゃいます。
おいしい料亭の郷土料理をいただきました。
で、久しぶりの上杉伯爵邸です。なんか誰だかの法事で利用させてもらって以来なのですが。
ちゃんと整備されていて素晴らしいものです。二階に勝手に上がって月に吠えました。
伊東忠太の影はあんまり見えない造作ですね。どこかに隠れているのでしょうが、伊東流が。
顔見知りの方、そして初めての方にご挨拶させていただきました。
米沢で商売をしていなかったので、知らない方も随分いらっしゃいます。
おいしい料亭の郷土料理をいただきました。
2009.12.01:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]
天地人の米沢で、
街を俯瞰するシーンがあります。
一ヶ所は多分赤崩山から見た米沢(手前に松川があるので)、
そしていつも出てくる右側に小高い山があり、左手に街が開けているシーンがあります。
その小高い山が分かりません。只今残っているところのイメージからすると、山形銀行裏の西條天満宮のある三の丸跡か、幸町の稲荷神社のある三の丸後なのでしょうか。
米沢は扇状地で、街中に邪魔になるようなものが本当に少ない町です。
しかもお城がかなり低い位置にある感じがします。まいづる幼稚園に子供を自転車で送っていくとき、どこからいってもあまりシャカリキになって漕ぐことがないような気がします。
大正6年の大火の時、上泉写真館が撮ったパノラマ写真はまだ三の丸の土手がかなり残っております。
その後随分削ってしまい、上記二個所以外土手として残っている場所はないようです。ただやっぱりアンタッチャブルな部分なのか、所々荒地として放置されているところもあり興味深いのです。
南部小学校南の専売公社跡地もそんな感じの場所です。
一ヶ所は多分赤崩山から見た米沢(手前に松川があるので)、
そしていつも出てくる右側に小高い山があり、左手に街が開けているシーンがあります。
その小高い山が分かりません。只今残っているところのイメージからすると、山形銀行裏の西條天満宮のある三の丸跡か、幸町の稲荷神社のある三の丸後なのでしょうか。
米沢は扇状地で、街中に邪魔になるようなものが本当に少ない町です。
しかもお城がかなり低い位置にある感じがします。まいづる幼稚園に子供を自転車で送っていくとき、どこからいってもあまりシャカリキになって漕ぐことがないような気がします。
大正6年の大火の時、上泉写真館が撮ったパノラマ写真はまだ三の丸の土手がかなり残っております。
その後随分削ってしまい、上記二個所以外土手として残っている場所はないようです。ただやっぱりアンタッチャブルな部分なのか、所々荒地として放置されているところもあり興味深いのです。
南部小学校南の専売公社跡地もそんな感じの場所です。
2009.11.16:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]
昭和41年10月8日天元台にて。
この間服部真湖さんにお会いした天元台ですが、43年前にも訪れていたことが判明しました。
故種村一郎氏が米沢信用金庫理事長に就任する際の祝賀会が白布の西屋旅館で行われ、うちのおじいちゃんもそれに参加しました。
その流れで祖父を送っていく時になぜか私もお邪魔したようです。
私の後ろでレインコートを着て帽子を被っている人物が祖父です。
祖父は20代から頭が薄く、外ではいつも帽子を被っていました。
私はボンボンつきの帽子を被っているこれです。3歳4ヶ月ということで現在の息子よりも少し若いのです。
そしてその左が前田慶次や兼継などの甲冑を収集した故宮坂善助氏です。宮坂さんはうちから3軒先の方なのですが、じいさんとはこの写真を見ても分かるとおり距離があるようです。
そして宮坂隊長の後ろは現館長です。先日前田慶次の珈琲「大ふへん者」を作るときにお話させていただきました。
その後ろが今は亡き観光ホテルです。
このときのことは何となく憶えているのですが、鉄砲うるさかったなぁーだけですね。
故種村一郎氏が米沢信用金庫理事長に就任する際の祝賀会が白布の西屋旅館で行われ、うちのおじいちゃんもそれに参加しました。
その流れで祖父を送っていく時になぜか私もお邪魔したようです。
私の後ろでレインコートを着て帽子を被っている人物が祖父です。
祖父は20代から頭が薄く、外ではいつも帽子を被っていました。
私はボンボンつきの帽子を被っているこれです。3歳4ヶ月ということで現在の息子よりも少し若いのです。
そしてその左が前田慶次や兼継などの甲冑を収集した故宮坂善助氏です。宮坂さんはうちから3軒先の方なのですが、じいさんとはこの写真を見ても分かるとおり距離があるようです。
そして宮坂隊長の後ろは現館長です。先日前田慶次の珈琲「大ふへん者」を作るときにお話させていただきました。
その後ろが今は亡き観光ホテルです。
このときのことは何となく憶えているのですが、鉄砲うるさかったなぁーだけですね。
2009.10.27:mameichi:コメント(0):[米沢城下に江戸を訪ねる]