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従三位 上杉曦山公之碑

  • 従三位 上杉曦山公之碑
曦山公とは上杉家十三代斉憲の号、文政3年(1820年)5月15日生、天宝10年4月家督、戊辰戦の責により明治元年12月隠居、明治22年5月20日東京にて逝去享年70歳
その間ペリー来航、尊王攘夷、奥羽越列藩同盟、明治維新、版籍奉還と波乱万丈の時代を逞しく生きられ、明治以降の諸功績により従三位に任ぜられる
明治24年公を慕う旧藩士によりこの碑が建立された

題字は陸軍大将有栖川宮熾仁親王の書
石碑裏の文は伯爵勝安房(海舟)の撰による

と碑のそばの説明文にあります。

火曜日までポポロで書道展が行われ、宮島詠士特別展も併催されていましたが、多分この石碑は詠士の父、宮島誠一郎が深く関わっていることと思います。
幕末の米沢藩ではひとり雲井龍雄に人気が集中しがちですが、勝海舟とのコネから米沢海軍と呼ばれる道筋を作ったこと、興亜会設立により亜細亜思想の根底を創ったことなど、非常に重要な人物です。
従三位を獲得(?)したのも彼の功績と思われます。

なお上杉家は4代藩主上杉綱憲より現在に至るまで、吉良義央の子孫ということになります。

お盆なので、

  • お盆なので、
御先祖のことを。

提灯を出しに行った日、家の菩提寺西蓮寺の先代和尚が亡くなった時の席次一覧の中に、親父が作った石塚家代々名という法号、死亡年月日、氏名をまとめた一枚ものが挟まれていました。
後でコピーしようとまた袋に入れたのですが、今日の朝コピーしてきました。

というのは、昨日米沢市史(昭和19年米沢市登坂又蔵刊)の善光寺如来のところを読んでいたら、
天和2年7月18日、午後八つ時過、御堂茶の間より出火、安養院の小者これを発見して急を告ぐ。このとき本城破損奉行齋藤与惣右衛門、石塚与兵衛、並びに大工四人駆け付け消し止め大事に至らず。
当番の御堂衆延命院、正福院、善正院は支度のため現場に居合わせず、遠在蟄居を命ぜられる。また安養院小者へは恩賞として身代五十匁金二十両、与惣右衛門、与兵衛へは玄米五俵宛、大工三人へは三俵宛を下賜す。
(御堂は謙信公の遺骨を納めた堂で、現在の招魂碑の場所にありました。その後明治になり遺骨は御廟に移されました。)


とあります。そういえば似たような名前が親父の書付にあったのではとくらべてみると、まさに当たりです。
遡れる一番最初に書いてある宗月道怡信士が石塚與兵ヱとなっていて、亡くなったのが元禄元年9月30日となっており、この事件は亡くなる6年前のことです。
忠臣蔵が♪頃は元禄14年ですから、古い話です。
まあ、同じ名前の別人という可能性もありますが、私としては御先祖大活躍と思いたいですね。

今夜はなまらナイト!!

  • 今夜はなまらナイト!!
この間テレビの取材を受けて、自分の喋っているのを聞くと、随分訛っているのが判ります。
自分としては一応標準語っぽいものを話しているつもりなのですが。

高校の頃、南海ホークスを引退して朝日放送の解説をしていた時の皆川睦男氏が講演にいらっしゃいました。
米沢からいきなり大阪に行った時、先輩から「おい皆川、なにか話してみろ。」と言われるのだそうです。もちろん関西弁で。
そしてその言葉をみんなから笑われる、こんなに悔しいことはなく、私は寡黙な人間になってしまったと話していました。

うちのじいさんも半分は東京の生活でしたが、言葉は昔の米沢のお侍さんの言葉でしたね。
よく機屋などに連れて行かれると、幼稚園の頃だったのですが、シーンとして子供が行ってもつまらない家が多く、江戸時代の空気を感じました。

米沢海軍などという言葉があり、幕末に勝海舟とのコネクションを持った旧米沢藩は、優秀な人材を海軍に送り込んでいきます。
但し南雲忠一(中将、戦死後大将)などは訓示などは、何を言っているのかわからなかったそうです。

日銀総裁から大蔵大臣を務めた池田成彬も寡黙で有名でしたが、方言が出ると困ると言う理由だったそうです。
一時全国知事会の8人ぐらいが米沢出身を占めたという時代があったと何かで読んだのですが、ちゃんと意思の疎通が出来る会議になっていたものでしょうか

兼継の墓参りに行く。

  • 兼継の墓参りに行く。
小学生の時郷土研究クラブというコアな部に属していました。
その時来たことがあるので、38年ぐらいぶりです。

直江という名前はその時に聞いたのが初めてだったかもしれません。
さてこのお墓はいつ建立されたのか、ということですが。

元々は現在の徳町にあった徳昌寺に葬られたということなので、そこにあったものなのでしょうか。
ウィキペディアによると東源寺に埋葬されたとも書いてあり、どういうことなのか興味深いところです。

また墓石が他の400年物と比べると少し新しいのではないか、という方もありそう言われてみれば、そう見えないこともないのですが、、、

米沢の町内会は基本的には旧町名で組織されていますが、直江組であった与板町は消滅しています。
昭和23年の資料には14軒が掲載されています。この辺も気になるのですが。

お寺に行く。

  • お寺に行く。
午前中はおばの二七日で、善光寺の和尚様の読経を聞き、午後は所用があり菩提寺の西蓮寺に伺いました。
なんだかそういう日なのです。その後「まいづる」にお迎えに行ったので、大乗寺も入っていますが。

で、西蓮寺の住職に、丸に十五枚笹についてお聞きしました。
相馬衆であるところの、実家と同じ町内の何軒かはやはり同じ家紋だということです。
そして相馬衆の相馬は福島の相馬ではなく、関東の相馬であろうということでした。
で、相馬衆は殿様なしの武士で、関東管領の流れで新潟に行き、米沢に移ったのだろうということなのです。やっぱり新潟から来たらしいのです。

なので、前回の説は間違いということがわかりました。
で、千葉氏の流れの相馬氏の家来だったのかもしれません。ただ殿様なしとされていたのでそのへんのところは今後の研究ということで。