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宝物がいっぱい☆彡法音寺の宝物展を拝観

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八海山法音寺は上杉家の菩提寺として御廟の左側に位置する古刹です。数奇な運命から長野にあるはずの善光寺如来をおまつりしてあるお寺というのはあまり知られていないかもしれません。

じゃあ長野の善光寺には如来様はいないのか?という疑問が湧きますが、その答えは「いない。」ということになります。でも通常史実としては下記のように伝えられております。

善光寺の本尊像は、戦国時代武田信玄によって甲斐善光寺に移され、織田信長豊臣秀吉徳川家康と権力者の手に移り何度か移動したが、豊臣秀吉により慶長3年(1598年)に元の信州善光寺に戻されている。

だが説はいろいろあるのですが、実際は上杉謙信の手に渡り、越後、会津、米沢と移ってきたのです。米沢に来てからは城内の御堂(現在の招魂碑のあるところ)に安置されていました。

明治に入ってから御堂が壊され、現在の法音寺に移されたのです。なぜ実際米沢のものが本物であるのかということがわかるのかといえば、何回も長野から返してくれというコールがあったというのが実際のところです。以前読んだ長野善光寺の本に、長野市民は如来様はいないことを知ってると書いてありました。

だから、如来様は米沢にいらっしゃるのだと思います。その間東京に行ったり、盗まれたり波乱万丈の人生ですが。

 

捜査はこの一行から始まった、、、

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ということで、昨日の上杉家伝来絵図の続きなのだが。

うちの親父が平成6年に纏めた「石塚家代々名」という手書きの文書がある。多分寺の過去帳などから書き写したもので、一部間柄なども書いてある。一応元禄元年(1688年)に亡くなった石塚与兵ヱから現代まで25人の法号と没年、そしてその人の名前が書いてある。そして最後に

「文化八年(1811年)の地図で石塚家は現在地」

という一行で閉じられている。私はこの一行を疑いもせず、そういうことなんだと思い込んでいた。そしてその地図を見て吃驚である。今回公益財団法人 上杉文化振興財団が発行した地図には今の石塚家の土地のところには

石坂己子蔵

となっているのだ。丁度紙の折り目のところがその地図の我が家なので、かなり薄くなっている。見ようによっては「石塚」と見えないこともない。但し代々名によればその時代は武七郎が当主であり、己子蔵という名前は石塚家とは関係のない名前のように思える。

そこから35年下って弘化3年の御城下并原々屋敷割帳人命検索には

御扶持方 石塚武七郎 とともに

会所番  石坂そう次 という人が小国町にいる。

また文化8年から42年遡って明和6年の原方屋敷絵図には小国町でも今の場所から随分下の方(松川寄り)に石塚与右ヱ門がいる。代々名によればこの頃は利左ヱ門が当代であり、中々ぴったりとはいかぬ、我が家の歴史である。

「宝の地図」ではなく「宝物の地図」を見てきた

  • 「宝の地図」ではなく「宝物の地図」を見てきた

6月8日(日)まで伝国の杜の米沢市上杉博物館で「上杉家伝来絵図」という特別展が開催されている。メインは何と言っても安土桃山時代に製作された2枚の越後の絵図だ。

一枚は瀬波郡絵図で243×693cm、もう一枚は頸城郡絵図で340×580cmという大きなもので、会場のライトはかなり抑えられ、平壇の多分特注であろうアクリルケースに納められていた。

それらの二つの地図は越後、会津、米沢と移動しその後百年以上忘れ去られてきた。宝永4年(1707年)御小納戸にあった古い箱の中から発見、虫食いがひどく継ぎ目もはがれていたことから、それを見た五代藩主上杉吉憲が修復を命じたため平成の世まで持ちこたえたのだろう。

大きさが圧倒的迫力をもって自分の領地であることを訴えてくるのだが、五代藩主はまた越後に帰ることが出来るなどということを夢見ていたのだろうか。

他に享保10年の米沢城下絵図なども展示されていたが、今回は文化8年(1811年)の城下絵図が復刻発刊されたので、パンフとともに購入した。実は亡くなった父の情報で、この地図には石塚家が現在地にいることが分かるものだと知っていたのだ。早速見てみると、、、、、、この続きはまた明日書きます。

興味のある方は日曜日までなので是非!!

この間行った地蔵院の境内に、

  • この間行った地蔵院の境内に、
屋敷神が集められた場所があります。引っ越してしまったり、その家がなくなったりしたときに納めたものでしょうか。
祠の真ん中の口の部分が結構個性深いわけで、なかにはこのようにハート型♥もありました。

米沢の殖産興業政策。

  • 米沢の殖産興業政策。
商工会議所に行った帰り幸町の五穀稲荷に詣でました。ここは三の丸の土手が残っている数少ない場所ですが、上に登ってみると民家の2階の屋根ぐらいでそれほど高い場所でもありません。
この土手には笹竹よりももう少ししっかりとした小さな藪があります。
この竹で米沢筆というものを作っていたらしいのです。

米作に恵まれた土地に乏しい米沢藩にとって、産業を創造するということでは急務であったにちがいありません。
渡部恵吉先生撰文の立派な碑がたつあら町公園でした。