最近のyou-tubeに随分談志師匠の高座が増えてきていたときから嫌な予感はしていたのですが。
談志師匠がお亡くなりになりました。
私が談志師匠の高座を聴きに行ったのは計4回。
芸術座でやっていた東宝名人会が2回、紀伊国屋の談志ひとり会が1回、わざわざ米沢に来ていただいた独演会で計4回。
私の落語体験では圧倒的でした。
そりゃ観てませんよ、志ん朝、円楽、柳朝、小三治、その前の円生、助六、柳橋とか西のほうの米朝、松鶴師匠なんかも。
でも、談志師匠を聴けただけでありがたいと思います。
謹んでご冥福をお祈りします。
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1973年の水戸黄門
息子はガールフレンドのところに遊びに行ったので、ゆっくり東野英治郎の水戸黄門を見ることができました。ちょうど米沢篇ということなので。
第4部、8話、1973年3月12日放映のものです。
このころはチャンバラのシーンのロケもあったのはすごいものです。
配役も安部徹、牧冬吉、宇都宮雅代、伊吹吾郎などなかなかなのです。
エンディングでちょっとフィルムがよれて、芥川隆行のナレーションがなかったのが残念でしたが。
米沢市協力とあったのですが、多分笹野一刀彫が一杯出てきたのでそれを提供したのでしょう。
それにしても今から38年前、チャンバラの後の罪状を光圀本人がかなりの長台詞を言っているのがびっくりです。
しかも、静まれ水戸のご老公と言っていたのがなんと弥七でした。まだそれほどカタチにこだわっていなかったことがわかります。
あとチャンバラのときに出てくるクラリネットの曲は、後年よりも随分テンポが遅く、全体的に殺陣もゆっくりのような気がします。
それはそれで独特の味を感じます。
地名としては小野川と御成山が出てきました。御成山は元々化物沢、あるいは鷹打羽呼ばれていましたが、昭和11年1月18、19の両日に開催された全日本学生連盟スキー大会に秩父宮殿下(昭和天皇の弟)が来臨(らいりん=お成り)され、これを記念して御成山スキー場と改名されたものだということです。だから水戸黄門の当時は御成山とは言いません。
まあまあいろいろありますが、こうやってフィルムで作られた映像は、しっかり残っているのでありがたいですね。
第4部、8話、1973年3月12日放映のものです。
このころはチャンバラのシーンのロケもあったのはすごいものです。
配役も安部徹、牧冬吉、宇都宮雅代、伊吹吾郎などなかなかなのです。
エンディングでちょっとフィルムがよれて、芥川隆行のナレーションがなかったのが残念でしたが。
米沢市協力とあったのですが、多分笹野一刀彫が一杯出てきたのでそれを提供したのでしょう。
それにしても今から38年前、チャンバラの後の罪状を光圀本人がかなりの長台詞を言っているのがびっくりです。
しかも、静まれ水戸のご老公と言っていたのがなんと弥七でした。まだそれほどカタチにこだわっていなかったことがわかります。
あとチャンバラのときに出てくるクラリネットの曲は、後年よりも随分テンポが遅く、全体的に殺陣もゆっくりのような気がします。
それはそれで独特の味を感じます。
地名としては小野川と御成山が出てきました。御成山は元々化物沢、あるいは鷹打羽呼ばれていましたが、昭和11年1月18、19の両日に開催された全日本学生連盟スキー大会に秩父宮殿下(昭和天皇の弟)が来臨(らいりん=お成り)され、これを記念して御成山スキー場と改名されたものだということです。だから水戸黄門の当時は御成山とは言いません。
まあまあいろいろありますが、こうやってフィルムで作られた映像は、しっかり残っているのでありがたいですね。
ほぼテレビを見ないので、、、
地デジになるのでうちはもう見れなくなるんだよと言ってましたが、NCVさんのアナログ変換によりもう少しテレビを見せてもらえることになりました。
確か変換するチューナーも友人から貰ったんですが、どこにいったんだか、、、
息子は朝起きるとすぐテレビに向かいます。
帰ってくるとすぐにテレビを付けます。
晩ご飯が終わると自然にテレビににじり寄ります。
だからといって番組は何でもいいというわけでもなく、面白くなければお気に入りの録画物を見ています。
この機械、子供の頃は結構好きだったのですが、現在ではちょっと離れてしまいました。
ラジオは付けてますよ。朝飯と晩餐の時は。
だから、面白い番組に偶然遭遇するといったことは皆無です。
こういう人が増えてるような気がするとすれば、視聴率を稼ぐのは前世紀よりも大変なことになっていると思われます。
この間徳光さんが走っているということで、終盤にかみさんがテレビを付けました。
その時、ひとり浮かない顔をしていた人がいたのが気がかりでしたが。
うちの親父の晩年は、よく「何でも鑑定団」を見ていたような気がします。
視聴者参加番組がほとんど姿を消しているのに、ここには見事に昔のようにスタジオ客入れをやり、出張鑑定では劇場での録画となっています。
後任の司会が同じ事務所からなのか、それとも独自のものを立てるのか注視したいところです、といっても随分見てませんよ、この番組も。
テレビで最後に楽しみに見ていたのが日曜の夜にやっていた頃の世界遺産です。あれは海外に行きたくなるほどのインパクトがありました。
兼高かおる時代は、そう思うのがまだ無理だったでしょうが。
確か変換するチューナーも友人から貰ったんですが、どこにいったんだか、、、
息子は朝起きるとすぐテレビに向かいます。
帰ってくるとすぐにテレビを付けます。
晩ご飯が終わると自然にテレビににじり寄ります。
だからといって番組は何でもいいというわけでもなく、面白くなければお気に入りの録画物を見ています。
この機械、子供の頃は結構好きだったのですが、現在ではちょっと離れてしまいました。
ラジオは付けてますよ。朝飯と晩餐の時は。
だから、面白い番組に偶然遭遇するといったことは皆無です。
こういう人が増えてるような気がするとすれば、視聴率を稼ぐのは前世紀よりも大変なことになっていると思われます。
この間徳光さんが走っているということで、終盤にかみさんがテレビを付けました。
その時、ひとり浮かない顔をしていた人がいたのが気がかりでしたが。
うちの親父の晩年は、よく「何でも鑑定団」を見ていたような気がします。
視聴者参加番組がほとんど姿を消しているのに、ここには見事に昔のようにスタジオ客入れをやり、出張鑑定では劇場での録画となっています。
後任の司会が同じ事務所からなのか、それとも独自のものを立てるのか注視したいところです、といっても随分見てませんよ、この番組も。
テレビで最後に楽しみに見ていたのが日曜の夜にやっていた頃の世界遺産です。あれは海外に行きたくなるほどのインパクトがありました。
兼高かおる時代は、そう思うのがまだ無理だったでしょうが。
マエタケさんとダンイケさん
先日亡くなった前田武彦こと「マエタケ」さんは名司会者として鳴らし、その司会の後ろでバンドの指揮をしていたのがダン池田こと「ダンイケ」さんだ。
バンドや芸能の世界では名前を縮めて読むことがあり、小野満=オノマン、渡辺貞夫=ナベサダ、伴淳三郎=バンジュン、ダン池田=ダンイケとなる。
鶴田浩二=ツルコウというのは笑福亭鶴光師匠のネタだ。
さて、この二人が盛り上げた番組が今話題!!のCXの「夜のヒットスタジオ」だ。
幼稚園のころだが、多分毎週見ていたような気がする。コンピューター占いというのが面白かったのだ。
只、いま資料をひもといてみると、午後10時から10時54分の放送となっており幼稚園児がそこまで起きていたのかは全く怪しげな記憶でしかない。
それはそれとして、人気絶頂のころ「マエタケさん」は突然この番組に出なくなってしまい、司会者も変わってしまった。
母にマエタケは何ででなくなったんだ?と聞いたら、
「テレビでは言ってはいけないことを言ったんだ。」
何て言ったのかと聞いたら、
「共産党バンザイ!!といったからだ。」
ということらしかった。
そう言われてみると、「何かバンザイ」と言ったような記憶もあった。
それはしっかりとしたバンザイではなく、何かおざなりな付け足しのような感じだったような気がする。
ただそのことは辞めるちょっと前のことで、なんで今やめたのだろうと思った。少し時期がずれていたのだ。
そのときの映像は何となく心の中に残っている。もしかしたら事件になってから再放送されたものを記憶しているのだろうかとも思うが、そんな映像をもう一回流すほどテレビもバカじゃないと思うので、自分の記憶なのだろう。芳村真理が「またぁ~。」と濁すように受けたのではなかったか。
そして、マエタケさんは見事にテレビには姿を現さなくなった。
大学に入るため上京した時、部屋にテレビはなかった。ラジカセを持って行ったので関東ローカル各局のラジオ番組を聞くと、青島幸男、永六輔、前田武彦などのテレビ1期生の先生方がずらずら出ているではないか。
テレビがいつのまにか子供のオモチャになってしまった時、機を見るに敏な彼らはラジオというメディア、それも全国ネットではない場所で脈々と面白い話を続けていたのだ。
そして半年して質屋で安く手に入れたテレビを付けると、頭を五分刈りにした「マエタケ」さんが天気予報をやっていた。
彼が書いた「マエタケのテレビ半世紀」にヒットスタジオを辞める時の送別会の模様がこう書かれている。
突然、バンドリーダーのダン池田が立ち上がってしゃべりはじめた。
「ぼくは残念です。前田さん、大好きでした。いい演奏が出来たのも、前田さんのおかげです。正直でいつも本当のことをいう前田さん、別れるのが・・・・・悔しい!」
私は祝儀袋をテーブルに置いたまま、ダン池田に近寄って無言で握手した。握手では気持ちを表現しきれずに抱き合った。お互いに力いっぱい抱き合った。
その後マエタケさんが干された後、ダンイケさんも芸能界を干されてしまった。
原因は本人にもあるのだと思うが、芸能界というのは多大な功績があってもなくても、こういうことになっちゃう世界なのだなと、山本某や篤姫の旦那さんを見ていても思う今日この頃なのだ。
干されている間もマエタケさんの幕内での人気は確かなもので、立川談志、小林信彦、渥美清などの本当の笑いの識者の著作、発言に度々登場していた。
そのころ私は本当の彼の実力が分からなかった。
今はyoutubeという便利なものがあり、永六輔さんのラジオにでた「マエタケ」さんの亡くなる2週間ほど前の放送がとてもいいです。
ゲストのフォーク・クルセダーズの北山修との話も面白いので興味のある方は是非。実力の程がわかりました。
http://www.youtube.com/watch?v=vj5-ayNUIv8
バンドや芸能の世界では名前を縮めて読むことがあり、小野満=オノマン、渡辺貞夫=ナベサダ、伴淳三郎=バンジュン、ダン池田=ダンイケとなる。
鶴田浩二=ツルコウというのは笑福亭鶴光師匠のネタだ。
さて、この二人が盛り上げた番組が今話題!!のCXの「夜のヒットスタジオ」だ。
幼稚園のころだが、多分毎週見ていたような気がする。コンピューター占いというのが面白かったのだ。
只、いま資料をひもといてみると、午後10時から10時54分の放送となっており幼稚園児がそこまで起きていたのかは全く怪しげな記憶でしかない。
それはそれとして、人気絶頂のころ「マエタケさん」は突然この番組に出なくなってしまい、司会者も変わってしまった。
母にマエタケは何ででなくなったんだ?と聞いたら、
「テレビでは言ってはいけないことを言ったんだ。」
何て言ったのかと聞いたら、
「共産党バンザイ!!といったからだ。」
ということらしかった。
そう言われてみると、「何かバンザイ」と言ったような記憶もあった。
それはしっかりとしたバンザイではなく、何かおざなりな付け足しのような感じだったような気がする。
ただそのことは辞めるちょっと前のことで、なんで今やめたのだろうと思った。少し時期がずれていたのだ。
そのときの映像は何となく心の中に残っている。もしかしたら事件になってから再放送されたものを記憶しているのだろうかとも思うが、そんな映像をもう一回流すほどテレビもバカじゃないと思うので、自分の記憶なのだろう。芳村真理が「またぁ~。」と濁すように受けたのではなかったか。
そして、マエタケさんは見事にテレビには姿を現さなくなった。
大学に入るため上京した時、部屋にテレビはなかった。ラジカセを持って行ったので関東ローカル各局のラジオ番組を聞くと、青島幸男、永六輔、前田武彦などのテレビ1期生の先生方がずらずら出ているではないか。
テレビがいつのまにか子供のオモチャになってしまった時、機を見るに敏な彼らはラジオというメディア、それも全国ネットではない場所で脈々と面白い話を続けていたのだ。
そして半年して質屋で安く手に入れたテレビを付けると、頭を五分刈りにした「マエタケ」さんが天気予報をやっていた。
彼が書いた「マエタケのテレビ半世紀」にヒットスタジオを辞める時の送別会の模様がこう書かれている。
突然、バンドリーダーのダン池田が立ち上がってしゃべりはじめた。
「ぼくは残念です。前田さん、大好きでした。いい演奏が出来たのも、前田さんのおかげです。正直でいつも本当のことをいう前田さん、別れるのが・・・・・悔しい!」
私は祝儀袋をテーブルに置いたまま、ダン池田に近寄って無言で握手した。握手では気持ちを表現しきれずに抱き合った。お互いに力いっぱい抱き合った。
その後マエタケさんが干された後、ダンイケさんも芸能界を干されてしまった。
原因は本人にもあるのだと思うが、芸能界というのは多大な功績があってもなくても、こういうことになっちゃう世界なのだなと、山本某や篤姫の旦那さんを見ていても思う今日この頃なのだ。
干されている間もマエタケさんの幕内での人気は確かなもので、立川談志、小林信彦、渥美清などの本当の笑いの識者の著作、発言に度々登場していた。
そのころ私は本当の彼の実力が分からなかった。
今はyoutubeという便利なものがあり、永六輔さんのラジオにでた「マエタケ」さんの亡くなる2週間ほど前の放送がとてもいいです。
ゲストのフォーク・クルセダーズの北山修との話も面白いので興味のある方は是非。実力の程がわかりました。
http://www.youtube.com/watch?v=vj5-ayNUIv8
フランク氏の死を悼む。
カウント・ベイシー楽団には二人のフランクというテナーサックス奏者が同時に在籍していました。
ひとりはフランク・ウェス、リードアルトもフルートもプロ中のプロで、秋吉バンドではリードアルトをやってました。
そしてもう一人はフランク・フォスター、テナーの他にソプラノとアレンジもやり、シナトラのマック・ザ・ナイフはこの人の編曲、そのフォスターのほうが亡くなりました。
ウェスの方が6歳年上でしたが、気があったのでしょうか。一緒にレコーディングしたり、バンドをやっていたこともあります。
多分、ウェスもがっかりしていることでしょう。
フランク・ウェスが1922年生まれ
デクスター・ゴードンが1923年
サム・リヴァースも1923年
ジェイムズ・ムーディーが1925年
コルトレーンが1926年
ジミー・ヒースも1926年
フランク・フォスターが1928年
トレーン以外はまあまあ長生きしてますね。
まさに百花繚乱の時代ですね。
ご冥福をお祈りします。
ひとりはフランク・ウェス、リードアルトもフルートもプロ中のプロで、秋吉バンドではリードアルトをやってました。
そしてもう一人はフランク・フォスター、テナーの他にソプラノとアレンジもやり、シナトラのマック・ザ・ナイフはこの人の編曲、そのフォスターのほうが亡くなりました。
ウェスの方が6歳年上でしたが、気があったのでしょうか。一緒にレコーディングしたり、バンドをやっていたこともあります。
多分、ウェスもがっかりしていることでしょう。
フランク・ウェスが1922年生まれ
デクスター・ゴードンが1923年
サム・リヴァースも1923年
ジェイムズ・ムーディーが1925年
コルトレーンが1926年
ジミー・ヒースも1926年
フランク・フォスターが1928年
トレーン以外はまあまあ長生きしてますね。
まさに百花繚乱の時代ですね。
ご冥福をお祈りします。