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臨時休業。

  • 臨時休業。
本日19日海の日は妻の祖父の葬儀のため、豆いちはお休みとなります。
何卒宜しくお願い申し上げます。

昨日は、長崎県波佐見町から陶器の問屋さんに来ていただきました。
出張のお知らせが葉書で来て、レンタカーでサンプルを持って、やってこられます。
営業の川口さんは音楽が好きなので、どうしても商売よりもそっちの話になりがちなのです、お互い。
ちょっとかけたフレディ・キングのギターを聴きながら、なぜああいうフレーズになるのだろうという、いきなり深い話に入ってしまいました。

彼は演奏はしないのでリスナーからみた発言なのですが、同じ曲であれば別の人が演奏してもアド・リブとはいってもその音は大枠には入り、似かよっているというわけではないが、大体のところに収まってしまうのはどうしてか、というようなことだったと思います。

これは非常に真理をついた質問ですね。
若干なりとも演奏をやっているものとしては、曲に合わせて演奏するのか、曲を自分の側に引き寄せるのかという葛藤があると思います。

曲に合わせて演奏するというのは、そのオリジナル或いはその曲の名演、若しくは自分の好きなプレーヤーの演奏が頭に入っていて、どうしてもそれを下敷きにして音を作っていくやりかたです。
これは聞いている方も分かりやすく、やっているほうも失敗の少ない方法です。
但しつまらなくなる方向にいってしまうことも、いつもはらんでいる諸刃の剣といったやり方ですね。
難しいコード進行の場合、どうしてもこれに頼りがちです。外すとどこかに行っちゃうので、遠い遠い世界へ。

もう一つの曲を自分の側に引き寄せるという方法は、ある意味魅力的で自分の方法で曲を変えてしまうわけですが、これはこれで余りにも自分のほうへ引き寄せすぎると、何をやっても同じではないか、聞いている方も飽きてしまうのではというところに陥りがちです。
まあ、繰り出すフレーズが好ましいものであり、聞いている皆さんがうっとりしてくれれば若干の問題は解決されることとは思いますが。

大概の方は上記の2つのやり方を調和させて、成り立っているのだと思います。
いや、私は全てオリジナルの曲をやり、フレーズも全部自前ですという方もあろうとは思いますが、実際はそんなことはないやろぅ、何かによりかかりたいものものなのですよ。

あと、サンボーンの演奏とか、アース・ウインド&ファイアーなどの曲を聴くと、どうやって高音を張るかに行く過程が大事だという作りかたもあります。これは決まるとかっこいいわけですが、音が伸びる楽器(或いはヴォーカル)でないとつまらないということがあります。

そんなことを話しているうちに、閉店になってしまい、福島からきた彼は山形のほうへ去っていきました。これから青森まで通津浦々みちのく一人旅だそうです。

2010.07.19:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

先生、お懐かしゅうございます。

  • 先生、お懐かしゅうございます。
朝NCV(地元ケーブルテレビ)のニュースをただなんとなく見ていたら、山川正吾先生が出てらっしゃいました。
そのニュースは南陽市の民話伝承館・夕鶴の里の事業活動を支援している夕鶴の里自主事業実行委員会の委員長として出てたのですが、私が一中のころの音楽の先生です。

私が入部していたブラスバンドの顧問でもあった先生ですが、その頃の一中はブラスの音が大きく、元気のいい演奏で2年連続県大会出場、私が3年の時は地区大会で終わってしまいました。

あまりブラバンが好きでなかった私でしたが、なんとなく先生とはウマが合い、創作の宿題なども市丸&勝太郎が歌うような日本調の曲を添削してもらったり、何といっても圧巻だったのはシューベルトの魔王です。

歌詞は日本語、バイオリンを弾きながら歌いあげる姿、前髪が垂れてくる感じは戦前の桜井潔タンゴ楽団の影響だったのではないでしょうか。
その後高校大学と音楽の授業は選択しなかったので、添田唖蝉坊(演歌師)のような魔王が音楽の授業の一番の印象です。
クレイジーキャッツのつぎに影響を受けた音楽人だと、今更ながら思います。

先生、いつまでもお元気で!魔王はもう一回聴きたいもんですね、どっかでやってくれないかなぁ。
2010.06.12:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

「彼が近藤君です。」

  • 「彼が近藤君です。」
といわれて、私は小柄な少年のようなサックス奏者に挨拶しました。

大久保のダクという管楽器専門店でだったと記憶しています。
丸君というプログレのサックス奏者のバンドを手伝いに行っていたときで、私と同じサシで入っていた東洋大グルービーOBのトロンボーンの庭山さんから「近藤君」を紹介されたんだと思います。

一寸話して、おんなじ大学4年ということ、最早ニューハードで演奏していることを教えてくれました。
本人がバンド名(ニュー・ハード)を分かっていなかったということが面白く、あんまりそういうことには興味ないんだろうなぁと、思わせました。

それからは各所で大活躍、昨日久しぶりに生のプレイに感激しました。
ちゃんと道を究める職人の顔になってました。
あれからもう25年、四半世紀になるのだなぁと、感慨ひとしおでございます。
こっちですか?こっちはまあねぇ、、、

tpは佐久間さんが一番旬な感じで、よく鳴っていました。
2010.06.07:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

写真映りはいいんです。

  • 写真映りはいいんです。
ちょっと風が強い日だったので、お堀にさざなみが立っています。

さざなみといえば児童文学者の巌谷小波(いわやさざなみ)と訳詩家の漣健児(さざなみけんじ)の二人の名前は思い浮かびますが、漣氏も最初の訳詩が「赤鼻のトナカイ」から始まったらしいので、なにか二人の間に関係はあるのでしょうか。

今から二十数年前、漣健児さんにお会いしたことがあります。
下北沢にあったロックンロール・ダイナーでのことです。私が所属していたバンドのメンバーの勤務先のコネで、月一回そこで演奏させてもらっていたのだと記憶しています。

その勤務先の女社長が草野さんという人を連れてきたんだったのではないでしょうか。
名刺交換をさせていただいたのですが、確かミュージック・ライフ編集長と書いてあったかもしれません。どこいったんだろうなあの名刺。
で、その時はうちらの演奏を聴いてくれて、「またこういう音楽を仕掛けていきたい云々」と話されていました。
編集長というよりは仕掛屋さんだったんでしょう。ウエスタン・カーニバルにも深く関わっていたと思います。

この方が漣健児だと知ったのは少し後のことです。

このころお会いした業界の方、例えば漣氏であったり、東京ビートルズのジョージ岡氏であったり(これも名刺もらったんだけどなー、抱きしめたいなどの訳詩はもちろん漣健児)、ザ・キング・トーンズのリードヴォーカル内田正人氏なんかは、どうしても戦後の闇市の匂いのする先生方で、ある意味インチキ臭さがすごい魅力でした。

こっちはペイペイだったので、二言三言お話させていただいたという感じでしたが。
面白かったデス、はい。
2010.05.31:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

《風鈴》 火山といえば

  • 《風鈴》 火山といえば
故三橋美智也の武田節でしょう。
1961年作詞は米山愛紫、作曲は明本京静。
新民謡と書かれてはいますが、ちょっと軍事歌謡的な匂いもいたします。

それに対して「これぞ天下の上杉節」ということになるのでしょうね。
武田節に遅れること十年、1971年だいご昭作詞・佐藤時志作曲 安藤由美子の歌でリリースされました。
発売の時期を考えると、NHK大河ドラマ「天と地と」の終了直後なので、その余勢を借りて出したのではないでしょうか。
番組が終わった次の年は、謙信役の石坂浩二も上杉祭りに参加したように記憶しています。曖昧ですが。

この間のお祭りのパレードを聞くと、何台かの山車で安藤由美子ヴァージョンと門脇陸男のもので踊っているのとありました。
安藤由美子さんというのは、民謡のほうの方でしょうか。うまいです。検索すると花笠音頭、新草津、八木節などを唄っているのが判ります。

気になるのはこの曲の歌いだしで、「♪毘沙門天の~」の最後の伸ばしの部分で2度下がります。歌詩のない部分ではありますが、安藤由美子さんは「♪毘沙門天の~お」と伸ばして最後に母音でしっかり止めていらっしゃいます。
それが子供心に「びしゃもんてんのお」と聞こえ「毘沙門天皇」という新たな人物が現れたりするわけで、随分おっかない天皇もいたのだなぁ、などと考えておりました。
天皇という言葉は、振り仮名は「てんのう」ですが、読みは「てんのお」に近い感じがします。


そういえば、松岬公園の松岬という名前についてですが、松ヶ崎四郎左衛門尉元充という人が在城した時代があると、米沢事跡考に出ているそうです。
中村忠雄氏によれば、長井氏の代官ではないかという説をとられていますが、一代官の名前が千年近く続いているとすれば、中々なものですね。
2010.05.20:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]