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森光子の魔力

  • 森光子の魔力
森光子が亡くなった。最後までトップスターであり続け、若干老醜を晒したとはいえ、十分見事な最期であったと思う。

以前戦後の米沢の興行を米沢新聞から抜き出して、ノートに写していたことがあった。
戦後すぐにはフィルムなどがなかったため、映画人などは随分ドサ回りをしたらしい。その中に森光子の名前があった。

ノートは手元にないのだが、多分昭和20~21年ころだろう。
大映スター 歌手  森光子
と書かれていたと思う。

以前戦前のジャズマンが昭和の終わりごろオールドボーイズというバンドを結成、そのときゲストとして出た森はシナトラで有名な「国境の南」を歌っている。
進駐軍を回ってジャズ歌手みたいなこともしていたようだ。

その前はミスワカナの子分であり、初代がヒロポン中毒で急逝後、2代目襲名も噂されたと思う。
生年が大正9年(1920)と一緒のミヤコ蝶々もワカナの子分だったこともあった筈だ。2人の関係などはどのようなものであったのか、興味深いところだ。

大阪に民放が出来て、朝日放送専属でダイラケのびっくり取物帳で、ダイラケと3人漫才をやったりしたあたりから人気が出始める。
この当時藤田まこととの共演も多く、芸人の子であること(森は嵐寛寿郎の姪)、漫才、司会、歌手など役者になるまで幾多の道のりを経てきているなど共通点も多い。
何となく芸風も近いものがあるのではないだろうか。シリアスとコメディの境目がないようなところと、関東弁も関西弁もいけるところが。

そして東京にでて、皆さんご存知の「放浪記」になるわけだが見たことがないので、私からみた代表作は「3時のあなた」と「時間ですよ!」となる。
ドリフとの共演も多く、一時はTVのコメデェンヌは森光子一手販売の時代もあったと思う。

そしてジャニーズとの競演はどのようなことをやっていたのだろう。ジャニーズファンはどう見ていたのだろう。

結構ミステリアスな森光子さんのご冥福をお祈りします。

 


2012.11.15:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

こんなものがでてきました。

  • こんなものがでてきました。
2009年と書いてありますから、今から3年前です。
場所は山形のビッグウイングの駐車場でした。

かみさんが行けないので、かみさんのお父さんと、息子、私の3人で行ってきたことを思い出します。
テントの中は薄暗くその感じが息子はダメなようで、かき氷を食べている間はよかったのですが、食べ終わると「パパオシッコ」と何度もテントを出はいりしました。
もう行きたくないとトイレの前で涙目になっていた時、一人のクラウンが現れて一緒に遊ぼうとしてくれました。多分英語なので息子は何を言ってるか分からず、勿論私も分からず、息子はびっくりしてキョトンとしていました。

その後ショウが終わって、息子はほっとして外に出ました。
ちょっとまだ早かったのかもしれません。年中さんの夏の日の出来事でした。


その後随分経ってから、E‐テレを息子とみていたらピタゴラスイッチという番組になりました。
その中でアルゴリズム体操というのが始まった時、あのサーカスのピエロさんがいたのです。木下サーカスの皆さんとやる体操ということでした。

その昔私が子供のころは数年に一回は米沢にもサーカス団がやってきました。
木下大サーカスは勿論、シバタサーカス、カキヌマサーカス、キグレ大サーカスなど何回か見に行きました。
またやってきたら、もう一回息子を連れて行ってみたいです。

2012.10.31:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

10吋盤のレコード

  • 10吋盤のレコード
10インチは通常の12インチよりも二回りぐらい小さいレコードです。
かみさんが私の実家に行ったとき見つけてきてくれました。

ここに写っているのは全て日本のバンドですが、ブルーノートやほかのジャズレーベルも一時10インチ盤をリリースしていました。
片面5曲というのが多く、ただあまり長い曲は収録されていないようです。

写真は上段から左は有馬徹とノーチェ・クバーナ、中は小俣尚也指揮 東芝オールスターズ 右は白磯タケルと楽団ゲイ・スターズ

下段は左から松宮庄一郎とシックス・ジョーズ 中は渡辺弘とスターダスターズ、右は丸山秀人とニュースワン・オーケストラ

こうやって並べてみると、ノーチェとゲイスターズが今でも何らかの形で活動しているのがある意味凄いと思います。 

  
2012.10.16:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

牧野はマキノ?

  • 牧野はマキノ?
百貨店高島屋が京都に店を起こしたのが天保2年、養父の故郷が近江国高島郡だったために高島屋という屋号となったと書いてあります。
現在は高島市となりましたが、その中にマキノ町というところがあります。
マキノは見てのとおり片仮名です。
その由来は昭和4年に開業したマキノスキー場が有名だったため、昭和30年近隣4ヶ村が合併するときその名を取ったとしてあります。漢字の牧野だと一集落の意味しかないためだそうです。
また京阪電鉄沿線に牧野があるので、片仮名でマキノとなった、住民投票で決まったらしいなどと書いてあります。

安室奈美恵やSPEEDらを育てたのは沖縄アクターズスクールのマキノ正幸というひとです。この方は東映の監督マキノ雅弘の息子さんで、長門裕之・津川雅彦兄弟とは従兄弟にあたります。津川雅彦が映画を撮る場合はマキノ雅彦を名乗るのです。
長門・津川兄弟の母マキノ智子とマキノ雅弘は姉弟で、父は日本映画の父と呼ばれた牧野省三でした。大正12年に起こした会社がマキノ映画製作所、子供にも分かるようにということで、牧野がマキノに変わったのです。

昭和初期マキノ映画は阪東妻三郎などを擁し、子供にもメジャーな映画会社でした。だから昭和4年にオープンしたマキノスキー場は紛れも無くマキノ映画のマキノを戴いた名前だと思います。

東京の漫才でマキノ洋一・初枝のことは前に書きましたが、これは本名が牧野だとご遺族から教えていただきました。でもカタカナにしたのは多分、いやおそらくマキノ映画からではないでしょうか。

これと似たような話で、あちらこちらに国際何とかという遊戯施設があります。
たとえば国際スキー場、国際マス釣り場、国際劇場、国際プロレス、、、、
何となく全部小佐野賢治のものではないかと思っていたことがあります。
スキー場とマス釣り場は一部持っていたのかもしれませんが、劇場とプロレスは別物です。
この話はスキー場がキーワードですかね。

日本で最初の片仮名の町名マキノ町は、間違いなくマキノ映画が発端となってこの町名になったのだと私は思いますが、誰一人としてそういうふうなことを書いてる文献は今のところネットでは発見できません。

写真はベルギーのコーヒーに合うチョコとして作られたカフェタッセ。



2012.10.03:mameichi:コメント(0):[芸能音楽の50]

一周忌のセッション大会。

  • 一周忌のセッション大会。
私が東京にいた頃、うーん今から23年前か。随分経ったな。
楽団:魅惑の羽衣というジャンプブルースバンドがあり、そこのベースに早稲田ブルース研究会OBの中川さんに入ってもらった。
自分らよりもちょっと兄貴分ではあるが、渾名が「野獣」という勇ましいものからしても分かる通り、かなりいい加減な御仁であった。

病を得て昨年亡くなられた時は、私もよほど余裕がなかったのだろう。随分詳細なるメールを頂戴したが、葬儀に行くことが出来なかった。
手紙を添えて香典を送ることしかできなかった。
本人の棺桶の前で、セッション大会という破格、かつゴージャスな会だったということを後で聞いた。

そして、昨日1周忌の「野獣友の会2012」が荻窪のライブハウス・ルースターで開催された。
豆の市に重なってしまったため、最初は行くのを断念したのだが妻の勧めもあり、お客様には迷惑をかけるが参加することになった。
15時から16時40分ごろいらしたお客様、申し訳ありませんでした。

15時43分の新幹線で荻窪に着いたのが18時30分、店を出たのが21時30分と3時間余りの滞在ではあったが、非常に感慨深い会となった。
中川さんの奥様にも初めてお会いして、お話させていただいた。初めてお会いしたのに話に花が咲いた。

そしてセッションは日本ブルース界の大御所、吾妻光良氏(中川さんの後輩)の仕切りで、私は羽衣&ヒップシェーカーズのセットに入れてもらった。
羽衣からは福村(ts)森永(tb)小野(kazoo&per)鈴木(g)寺戸(ds)三木(p&vo)の各氏。後はヒップシェーカーズリーダーで中川さんの高校からの同級生、宮堂さん(g&vo)だ。
演奏はつつがなく?終わり、次のセットの演奏の途中会場を後にした。

その後VOWWOWの人見元基氏と吾妻さんのツェッペリンの「ロックンロール」という出し物もあったらしいが、残念ながら現場に立ち会えなかった。facebookに写真をsureしてるので、様子はそちらで。

「野獣友の会」は2012となっているので、2013があれば是非参加したい。但し「豆の市」とバッティングしなければいいなぁ、などと今から考えてしまう店主だった。
中川さん、いろいろありがとう。

写真は日本のブルースギターを代表する3人。左から小出斉、吾妻光良、小安田憲司。

2012.09.02:mameichi:コメント(2):[芸能音楽の50]