小沢昭一が亡くなった。
私がまだサラリーマンで営業をやっていた頃、車で会社に帰る道すがら「小沢昭一の小沢昭一的こころ」に大笑いし、いろいろなことを教えられ、時には涙したものだ。
TOYOTA一社提供から、自動車産業がふらつき出すと各社提供に変更になったころ、放送時間帯もふらつき出した。
ラジオ福島だったか秋田放送では午前中やっていたと記憶する。
この番組はねぇ、そんなにお天道様が高いときに聞くもんじゃあないんだ。
トワイライトがよかったんです。
それほど映画好きではないので、小沢昭一がスクリーンで大活躍していた頃のことはあまり知らないが、インチキ中国人みたいな怪しげな役が多かったと記憶する。
私の最初の小沢昭一は、NHK教育で日曜の10時ごろだったかやっていた「趣味とあなたと」というマニアックな番組だった。
お相手は東経大の大先輩相川浩アナウンサーで、何かにはまってしまった人たち、簡単にいえば今でいう「オタク訪問」であった。
そのときの小沢昭一はあくまでも優しく、その人が大好きなことを聞き出し、そのツボを捉えて、みんなに分かりやすく伝えていた。
はっきり覚えているのは自分の庭にOゲージの線路を幾重にも走らせて、ちっちゃい蒸気機関車を走らせている人で、これはやってみたいと思ったなぁ。
「私は河原乞食考」「日本の放浪芸」という本も面白く、子供の頃に何度も読み返した。
失われていくものへのオマージュと郷愁だけにとどまらず、自分で三河万歳の格好をして角付け(一軒一軒家を周り、芸を見せてお金をもらうこと)をしたりするところも、研究家と演者のキワで、いろいろ考えていたのではなかったか。
経歴に旧制麻布中学を経て、海軍兵学校第78期生として1945年(昭和20年)4月に入校(第703分隊)するが、終戦のために退校。早稲田大学文学部仏文科卒、とある。
小説家で、演芸評論浪花節の台本を書いていた正岡容に私淑し、桂米朝、加藤武、大西信行らともども弟子になり寄席通いが止まず、落語家に憧れるようになる。
なぜ落語家にならなかったのかはわからないが、「もしあの時私が落語家になりおおせば、あの談志が、志ん朝が、円楽が私のことを兄(あに)さんと呼んでいたはずだ。」というフレーズは有名だ。
麻布中学の時はハーモニカ部で、「あなたのメロディー」などでその腕前も披露、懐かしもメロディーをうたったCDもあるはずだ。
横須賀さいかやに催事に行ったとき、小沢昭一の一人芝居「唐来参和」のポスターが貼ってあった。日付を見ると明日、行けないこともなかったのだが、いかなかったところを見るとまた飲んでたんだろうなぁ。
そういえば、横須賀には自動焼き鳥器で焼いている焼き鳥屋があった。
まあ、それはいい。
やるきなさげな宮坂お父さん、大好きでした。小沢さんが80歳過ぎてもやってる意味不明のコギャルも大好きでした。
私と趣味が非常に似ていた小沢昭一大兄に乾杯( ^^)/▽▽\(^^ )
大好きでした。
写真は12月8日のスターダスターズのコンサート、mojoも入ってフィナーレの模様です
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もし金を払って噺家を聞きに行くとしたら、
「志ん朝しかいねぇな。」といったのは立川談志。
立川談志は、二つ目の名前で柳家小ゑんといったころ、朝太といった志ん朝、全生といった先代円楽、この後輩二人に真打になるのを抜かれてしまっている。
その時小ゑんは師匠小さんに「朝太は志ん生の息子、全生の師匠は円生(協会幹部)、師匠(小さん)の力がねえから抜かれたじゃあないか。」と泣きながら訴えたという。
真打問題はこの後もずっと尾を引き、円生師匠が落語協会を出たのも、談志が飛び出したのもこのことに起因する。
誰を師匠に選ぶかで、随分行き先が変わってしまうことがある。
談志は「うちの真打はそんじょそこらの真打と訳が違うんだ。おれが選んだ真打なんだ。」
寄席という修業の場なくして志の輔という落語家をこさえた自信から「もし金を払って~」という言葉、志ん朝へのエールを送ったのではなかったか。
談志が出て行ったあとの落語協会は、立川流を無視することにし、立川流の落語家と一緒の舞台に立つことを許さない一派もいたと聞く。
その後立川流は志の輔をはじめとして、談春、志らくといずれも独演会がsoldoutになるような落語家を育ててしまった。そのあとに続く談笑、笑志、こしら等々。
そして無視していた落語協会の師匠方の悔しさは如何ばかりか。
現在立川流だけで約50人いる。
師匠の小さんが亡くなる前で直弟子が37人という大所帯。
これらを食わせるだけのシステム作りをしていたということだ。
今の落語協会でも会長小三治をはじめとして、先代会長の馬風、入船亭扇橋、さん喬、権太楼、市馬、孫弟子の三三、喬太郎など重要な部分は柳家で占められているといっていい。
量は質を凌駕する、中内さんの売り上げは全てを癒すではないがその辺が自分の課題かなぁ。
談志が言った「もし金を払って聞きに行くとしたら~」には元ネタがあるのご存じだろうか。
よく落語本などにこのエピソードは書かれているが、出典を書いたのは見たことがないのでここに記す。
云ったのはフランク・シナトラ、そしてシナトラが金を払って聞きに行くのはビング・クロスビーでもペリー・コモでもなく「トニー・ベネット」なのだ!
トニー・ベネットとレディ・ガガの競演。中々ですよ!
http://www.youtube.com/watch?v=ITR2io6WZ7E
立川談志は、二つ目の名前で柳家小ゑんといったころ、朝太といった志ん朝、全生といった先代円楽、この後輩二人に真打になるのを抜かれてしまっている。
その時小ゑんは師匠小さんに「朝太は志ん生の息子、全生の師匠は円生(協会幹部)、師匠(小さん)の力がねえから抜かれたじゃあないか。」と泣きながら訴えたという。
真打問題はこの後もずっと尾を引き、円生師匠が落語協会を出たのも、談志が飛び出したのもこのことに起因する。
誰を師匠に選ぶかで、随分行き先が変わってしまうことがある。
談志は「うちの真打はそんじょそこらの真打と訳が違うんだ。おれが選んだ真打なんだ。」
寄席という修業の場なくして志の輔という落語家をこさえた自信から「もし金を払って~」という言葉、志ん朝へのエールを送ったのではなかったか。
談志が出て行ったあとの落語協会は、立川流を無視することにし、立川流の落語家と一緒の舞台に立つことを許さない一派もいたと聞く。
その後立川流は志の輔をはじめとして、談春、志らくといずれも独演会がsoldoutになるような落語家を育ててしまった。そのあとに続く談笑、笑志、こしら等々。
そして無視していた落語協会の師匠方の悔しさは如何ばかりか。
現在立川流だけで約50人いる。
師匠の小さんが亡くなる前で直弟子が37人という大所帯。
これらを食わせるだけのシステム作りをしていたということだ。
今の落語協会でも会長小三治をはじめとして、先代会長の馬風、入船亭扇橋、さん喬、権太楼、市馬、孫弟子の三三、喬太郎など重要な部分は柳家で占められているといっていい。
量は質を凌駕する、中内さんの売り上げは全てを癒すではないがその辺が自分の課題かなぁ。
談志が言った「もし金を払って聞きに行くとしたら~」には元ネタがあるのご存じだろうか。
よく落語本などにこのエピソードは書かれているが、出典を書いたのは見たことがないのでここに記す。
云ったのはフランク・シナトラ、そしてシナトラが金を払って聞きに行くのはビング・クロスビーでもペリー・コモでもなく「トニー・ベネット」なのだ!
トニー・ベネットとレディ・ガガの競演。中々ですよ!
http://www.youtube.com/watch?v=ITR2io6WZ7E
バンド練習と酒飲みの関係
終わったら飲む! この体質は長い間培われたもので、練習自体が20時から始まるので、飲み始めるのが22時ごろから、どうしても帰るのが遅くなる。
次の日?もちろん仕事ですが、何か?
私にとってバンドの練習の歴史は古く、1中のブラバンから始まる。このころは終わってからの飲酒はなかったと思う。
そして高校時代のBBショックの時は、マイルスでトリスなんか飲んだりしたこともあったなぁ。
大学に入り、最初のC&Wのバンドあたりから酒浸りの様相を呈してきたことは間違いない。
終われば飲むというのが当たり前の時代、コールドスエッツの時は昼連(お昼の練習)だったので、それでもギターのよっちゃんのところで缶ビールぐらいごちそうになっていた気もするしなぁ。
その前後のバンド、オールド・ディックス、スィート・ナイツ東京、楽団:魅惑の羽衣のころは練習と飲み会が当然のごとくセットメニューとなっていた。
イメージとしては飲めない人はいなかったと思うし、割り勘なので無理して飲んでたやつもいたのだろうか。
呑んだ飲んだ。
そして現在、以前は毎日のように宴会をしていたのだが、結婚して子供が出来たりするといつまでもそういう訳にはいかない。しかもいつも行っていた店さえも閉店してしまったし。
それで最近は土曜日の練習後のミーティングと称する飲み会で、ヘベレケになるまで飲むこととなった。その日が勝負といってもいいのだ。
それがだ、他の県内のあちこちのバンドに顔を出しているH君に聞くと「いまどきそんなことをやっているのはここだけです。呑むのは大概コンサートの打ち上げぐらいです。」とのことであった。
先日以前奉職していた会社の同僚が言ってたのだが「今飲み会でも飲むのは2~3人ぐらいで、若い衆はみんな飲みません。」だそうだ。
いつの間に、、、、。
飲み会がなければ練習はやれないなぁ。飲み会なくして練習なし。
しかし随分時代遅れになったもんだ。
写真は飲んだ後、次の日片づけた安酒の缶の山です。
次の日?もちろん仕事ですが、何か?
私にとってバンドの練習の歴史は古く、1中のブラバンから始まる。このころは終わってからの飲酒はなかったと思う。
そして高校時代のBBショックの時は、マイルスでトリスなんか飲んだりしたこともあったなぁ。
大学に入り、最初のC&Wのバンドあたりから酒浸りの様相を呈してきたことは間違いない。
終われば飲むというのが当たり前の時代、コールドスエッツの時は昼連(お昼の練習)だったので、それでもギターのよっちゃんのところで缶ビールぐらいごちそうになっていた気もするしなぁ。
その前後のバンド、オールド・ディックス、スィート・ナイツ東京、楽団:魅惑の羽衣のころは練習と飲み会が当然のごとくセットメニューとなっていた。
イメージとしては飲めない人はいなかったと思うし、割り勘なので無理して飲んでたやつもいたのだろうか。
呑んだ飲んだ。
そして現在、以前は毎日のように宴会をしていたのだが、結婚して子供が出来たりするといつまでもそういう訳にはいかない。しかもいつも行っていた店さえも閉店してしまったし。
それで最近は土曜日の練習後のミーティングと称する飲み会で、ヘベレケになるまで飲むこととなった。その日が勝負といってもいいのだ。
それがだ、他の県内のあちこちのバンドに顔を出しているH君に聞くと「いまどきそんなことをやっているのはここだけです。呑むのは大概コンサートの打ち上げぐらいです。」とのことであった。
先日以前奉職していた会社の同僚が言ってたのだが「今飲み会でも飲むのは2~3人ぐらいで、若い衆はみんな飲みません。」だそうだ。
いつの間に、、、、。
飲み会がなければ練習はやれないなぁ。飲み会なくして練習なし。
しかし随分時代遅れになったもんだ。
写真は飲んだ後、次の日片づけた安酒の缶の山です。
お笑いと演歌の関係
宮史郎が亡くなった。
1972年年に「おんなの道」が大ヒット。
歴代のオリコンランキングが下記なので、日本で2番目に売れた曲ということになる。
オリコンシングルランキング歴代TOP3
1位:子門真人「およげ!たいやきくん」(457.7万枚)
2位:宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」(325.6万枚)
3位:サザンオールスターズ「TSUNAMI」(293.6万枚)
こう考えると、サザンすごいな!と思ってしまう。
カラオケなんていうところはもうずいぶん行っていないが、この3曲の中では「TUNAMI」ぐらいしかそういう現場では歌われていないのではないだろうか。
少なくとも「およげ~」は聞いたことがないですねぇー。
今回の震災で罹災した石巻の石の森漫画記念館が昨日リニュアールオープンした。
友人のサックス奏者、福村諭君のバンドがオープニングイベントを務めたのだが、その近くに岡田劇場という古い芝居小屋と言ったほうがいいような映画館があった。
そこは中州で今回の震災で劇場は跡形もなくなり、再建はしない方針と聞く。
その岡田劇場は興行師もやっており、特に演歌の興行に強みを持つ。
そして宮史郎はそこの看板でもあった。
今は平気で「五木ひろし&都はるみジョイントコンサート」などという興行が打たれているが、業界としては掟破りに違いない所業だ。
一枚看板でやったほうがトラブルも少ないし、元々バックが違うのだから問題も発生しやすい。
しかし岡田劇場(現在の社名はオカダプランニングと聞く)は紅白に何回かは出場した中堅どころの歌手を2~4名ブッキングし、一人30~40分ぐらいの持ち時間で、一人ひとり司会をつけたところが凄い。
たとえば音羽たかし、愛うえお、三和完児とか青空たのしとか。綾小路きみまろも元々はこのなかの一人だったのだが。
MCでショウの色は変わるということをよく知っている興行師なのだ。
バンドは「渡辺康雄と東京ニュースカイオーケストラ」「ヒロ松井とスターライトオーケストラ」「エンディー大高とブルーシャムロック」「堀内ヤスタカとバンド名なんだっけなぁー、サザンクロスだっけかなー」などという知ってる人しか知らない楽団を起用するのだ。
堀内さんはいまは「ノーチェ・クバーナ」のリーダーに収まり、多分今もラッパを吹いているらしい。
で、宮史郎だが在籍していた「ぴんからトリオ」は元々大阪の松竹芸能の芸人でコントをやっていたらしい。他にも1973年に300万枚を売った「なみだの操」の殿様キングス、1972年に200万枚を売った「宗右衛門町ブルース」の平和勝次とダークホースなどはすべてコミックバンド、いわゆるボーイズ物からの転身であった。
1972年~73年の2年間でこの3グループで800万枚以上売ってるのだ、歌手でもない人たちが。
で、「お笑いと演歌の関係」という標題になるのだが、コミックバンドというよりはボーイズ、漫才でもベースに浪花節の影響がまだまだ濃かった時代なのだ。
宮史郎、宮路オサム、平和勝次、すべて発声が浪曲に起因する。
完全な浪曲の修業をしたかどうかはわからないが、まだまだ混沌としていた時代なのだろう。正式な修行でなく脇で聞いていて覚えたから世にでる、ということもあるかもしれない。コミックバンドは序列とかがうすそうなので。
漫才師の歌というのが昔からあって、しゃべくり漫才の祖「エンタツ・アチャコ」以前は漫才は鼓と三味線で歌を歌うのが定番であった。
横山やすしは言う。「漫才はウィルキンソンの替え刃と同じやねん。歌をうまく歌っても芸になるしなぁー。下手に歌ってもおもろければ金になんねんなぁー。どっちゃでもええねん。」
その辺のことがよくわかってるのは松本人志で、彼の楽曲「タクシードライバー」
はその伝統を踏襲する歌唱であることは歌を聴けばおわかりだろう。
1972年年に「おんなの道」が大ヒット。
歴代のオリコンランキングが下記なので、日本で2番目に売れた曲ということになる。
オリコンシングルランキング歴代TOP3
1位:子門真人「およげ!たいやきくん」(457.7万枚)
2位:宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」(325.6万枚)
3位:サザンオールスターズ「TSUNAMI」(293.6万枚)
こう考えると、サザンすごいな!と思ってしまう。
カラオケなんていうところはもうずいぶん行っていないが、この3曲の中では「TUNAMI」ぐらいしかそういう現場では歌われていないのではないだろうか。
少なくとも「およげ~」は聞いたことがないですねぇー。
今回の震災で罹災した石巻の石の森漫画記念館が昨日リニュアールオープンした。
友人のサックス奏者、福村諭君のバンドがオープニングイベントを務めたのだが、その近くに岡田劇場という古い芝居小屋と言ったほうがいいような映画館があった。
そこは中州で今回の震災で劇場は跡形もなくなり、再建はしない方針と聞く。
その岡田劇場は興行師もやっており、特に演歌の興行に強みを持つ。
そして宮史郎はそこの看板でもあった。
今は平気で「五木ひろし&都はるみジョイントコンサート」などという興行が打たれているが、業界としては掟破りに違いない所業だ。
一枚看板でやったほうがトラブルも少ないし、元々バックが違うのだから問題も発生しやすい。
しかし岡田劇場(現在の社名はオカダプランニングと聞く)は紅白に何回かは出場した中堅どころの歌手を2~4名ブッキングし、一人30~40分ぐらいの持ち時間で、一人ひとり司会をつけたところが凄い。
たとえば音羽たかし、愛うえお、三和完児とか青空たのしとか。綾小路きみまろも元々はこのなかの一人だったのだが。
MCでショウの色は変わるということをよく知っている興行師なのだ。
バンドは「渡辺康雄と東京ニュースカイオーケストラ」「ヒロ松井とスターライトオーケストラ」「エンディー大高とブルーシャムロック」「堀内ヤスタカとバンド名なんだっけなぁー、サザンクロスだっけかなー」などという知ってる人しか知らない楽団を起用するのだ。
堀内さんはいまは「ノーチェ・クバーナ」のリーダーに収まり、多分今もラッパを吹いているらしい。
で、宮史郎だが在籍していた「ぴんからトリオ」は元々大阪の松竹芸能の芸人でコントをやっていたらしい。他にも1973年に300万枚を売った「なみだの操」の殿様キングス、1972年に200万枚を売った「宗右衛門町ブルース」の平和勝次とダークホースなどはすべてコミックバンド、いわゆるボーイズ物からの転身であった。
1972年~73年の2年間でこの3グループで800万枚以上売ってるのだ、歌手でもない人たちが。
で、「お笑いと演歌の関係」という標題になるのだが、コミックバンドというよりはボーイズ、漫才でもベースに浪花節の影響がまだまだ濃かった時代なのだ。
宮史郎、宮路オサム、平和勝次、すべて発声が浪曲に起因する。
完全な浪曲の修業をしたかどうかはわからないが、まだまだ混沌としていた時代なのだろう。正式な修行でなく脇で聞いていて覚えたから世にでる、ということもあるかもしれない。コミックバンドは序列とかがうすそうなので。
漫才師の歌というのが昔からあって、しゃべくり漫才の祖「エンタツ・アチャコ」以前は漫才は鼓と三味線で歌を歌うのが定番であった。
横山やすしは言う。「漫才はウィルキンソンの替え刃と同じやねん。歌をうまく歌っても芸になるしなぁー。下手に歌ってもおもろければ金になんねんなぁー。どっちゃでもええねん。」
その辺のことがよくわかってるのは松本人志で、彼の楽曲「タクシードライバー」
はその伝統を踏襲する歌唱であることは歌を聴けばおわかりだろう。
クレージーキャッツ再考
桜井センリさんが亡くなった。86歳、大往生と言っていいと思う。
その昔、フランキー堺がスパイク・ジョーンズのコピーバンド、その名も本物と同じシティ・スリッカーズを結成した際、ピアノは桜井センリ、トロンボーンは谷啓、2代目のギターが植木等だった。
植木と谷啓によれば「桜井さんのギャラが0一つ違ってた!」とのこと。
多分、かなり弾ける存在だったんだろうなぁ。
その前には多忠修とゲイスターズにいたのだが、その前のピアノが龝吉敏子(アメリカで活躍)だった。
桜井がピアノのソロを弾くと、みんながずっと、じぃーと見るのだそうだ。
終わってから聞いたら、龝吉さんはガンガン弾くのでよく聞こえるのだが、桜井さんは小さい音で奏でるので弾いてないと思って見てたのだと。
よくクレージーのことを書いた文章に「高い演奏の技術力云々、、、」とあるが、私はいつもそのことが引っかかる。多分コミックバンドとしてはというのが前につくのだろうが、必ずしもそういうふうに書いた文章は少ない。
多分小林信彦あたりの書いたものか、大滝詠一、松任谷由美なんかが言ったに違いないのだが。
終戦後アメリカ軍が進駐するようになり、ジャズバンドの需要が急増、楽器を持っているだけでバンドマンといった時代もあったと聞く。
後年になっても浅草時代のたけしが急にサックスの席に座らせられたり、全く譜面が読めない私が、鴬谷のキャバレーの椅子に座ってしまったのもこの流れだ。
そのことから考えれば、クレージーの面々は上出来のバンドマンだと思うのだが。
クレージーが出来たひとつのきっかけが、モダンジャズの台頭であったことは興味深い。
ハナ肇はナベサダとかのグループと近いところにいて、実際モダンジャズにも足を突っ込んだらしい。元々南里文雄のバンドにいたこともあるので、そこそこの技術はあったと思うのだが、実際彼の性格からすればモダンジャズは随分難しく感じたのではないだろうか。事実そういう風なことを語っている。
そこで、もっとみんなに分かる楽しいバンドをということで、最後のクレージーメン犬塚弘の賛同を得て結成したのがハナ肇とキューバンキャッツ、その後のクレージーキャッツとなる。
植木が言っていた。「このバンド上手くいかないんだったら、またほかのバンドに移りゃあいいや。」と。あくまでも通常のバンドマンのごく普通の思想だ。
でもバンドは売れて、何度かやめようと思った谷啓も結局最後までいたし、全員楽器はほぼ外した活動だが、芸能人として生ききった。
これはひとえにハナ肇のリーダーシップであったと思う。植木は言う。「仕事を取って来たのは全部ハナだった。」と。
ハナ肇は植木等、石橋エータロー、桜井センリ、犬塚弘よりも年少である。フロントで吹く、谷啓と安田伸のみが後輩だ。
多分このリズムセクションに先輩を配したのが成功だったような気がする。ハナからみれば、みんな五月蠅い先輩だったと思うが。
植木等、石橋エータロー、安田伸とも自分のバンドを持っていた時期がある。
でもA級ではなかったと思う。
この中でいいバンドにいたのは、桜井センリのゲイスターズ、谷啓のシャープス&フラッツあたりだ。これは間違いなくA級だ。
ハナがいた浜口庫之助のアフロ・クバーノjr.というのもよくわからない。そのころ松岡直也はハナとはずっと一緒だったと語っている。
ということで、全員が高い演奏技術を持ち合わせていたわけではなく、東京のバンドマンからコメディアンになったにしてはまあまあ楽器が弾けたのだと思う。
それが本人たちにとって邪魔になる技術でもなく、ただ楽器をやらなくても食えるようになったということだろう。
高い演奏技術をもっていたからあのような音楽コントが出来たわけではないのだ。
ハナ肇がしっかりしていて、谷啓が素晴らしいアイディアを出し、青島幸男が素晴らしくくだらない台本や歌詞を書き、萩原哲晶がチンドン屋のようなオーケストレーションを譜面にし、すぎやまこういちがフジテレビのディレクターとして辣腕を奮い、秋元近史がシャボン玉をつくり、そして植木、犬塚、安田、石橋、桜井が演じきったからあのような事態となったのだ。
高い演奏技術ではない。人間が、素晴らしい人間の集団があったからだ。
ドリフの台頭で、ちょっと息切れしていた頃のクレージーが米沢にやって来た。
舞台は現在の米沢市体育館、緞帳が上がる。もちろん全員楽器を持っての登場だ。
テレビで見るよりも、ちょっと大人の粋なステージ、営業のネタとテレビは使い分けていた。私は小学3年か4年、面白かった。
楽器を持って何かやってみたいと思った。
そうか、あの日がその日だったんだ。
その昔、フランキー堺がスパイク・ジョーンズのコピーバンド、その名も本物と同じシティ・スリッカーズを結成した際、ピアノは桜井センリ、トロンボーンは谷啓、2代目のギターが植木等だった。
植木と谷啓によれば「桜井さんのギャラが0一つ違ってた!」とのこと。
多分、かなり弾ける存在だったんだろうなぁ。
その前には多忠修とゲイスターズにいたのだが、その前のピアノが龝吉敏子(アメリカで活躍)だった。
桜井がピアノのソロを弾くと、みんながずっと、じぃーと見るのだそうだ。
終わってから聞いたら、龝吉さんはガンガン弾くのでよく聞こえるのだが、桜井さんは小さい音で奏でるので弾いてないと思って見てたのだと。
よくクレージーのことを書いた文章に「高い演奏の技術力云々、、、」とあるが、私はいつもそのことが引っかかる。多分コミックバンドとしてはというのが前につくのだろうが、必ずしもそういうふうに書いた文章は少ない。
多分小林信彦あたりの書いたものか、大滝詠一、松任谷由美なんかが言ったに違いないのだが。
終戦後アメリカ軍が進駐するようになり、ジャズバンドの需要が急増、楽器を持っているだけでバンドマンといった時代もあったと聞く。
後年になっても浅草時代のたけしが急にサックスの席に座らせられたり、全く譜面が読めない私が、鴬谷のキャバレーの椅子に座ってしまったのもこの流れだ。
そのことから考えれば、クレージーの面々は上出来のバンドマンだと思うのだが。
クレージーが出来たひとつのきっかけが、モダンジャズの台頭であったことは興味深い。
ハナ肇はナベサダとかのグループと近いところにいて、実際モダンジャズにも足を突っ込んだらしい。元々南里文雄のバンドにいたこともあるので、そこそこの技術はあったと思うのだが、実際彼の性格からすればモダンジャズは随分難しく感じたのではないだろうか。事実そういう風なことを語っている。
そこで、もっとみんなに分かる楽しいバンドをということで、最後のクレージーメン犬塚弘の賛同を得て結成したのがハナ肇とキューバンキャッツ、その後のクレージーキャッツとなる。
植木が言っていた。「このバンド上手くいかないんだったら、またほかのバンドに移りゃあいいや。」と。あくまでも通常のバンドマンのごく普通の思想だ。
でもバンドは売れて、何度かやめようと思った谷啓も結局最後までいたし、全員楽器はほぼ外した活動だが、芸能人として生ききった。
これはひとえにハナ肇のリーダーシップであったと思う。植木は言う。「仕事を取って来たのは全部ハナだった。」と。
ハナ肇は植木等、石橋エータロー、桜井センリ、犬塚弘よりも年少である。フロントで吹く、谷啓と安田伸のみが後輩だ。
多分このリズムセクションに先輩を配したのが成功だったような気がする。ハナからみれば、みんな五月蠅い先輩だったと思うが。
植木等、石橋エータロー、安田伸とも自分のバンドを持っていた時期がある。
でもA級ではなかったと思う。
この中でいいバンドにいたのは、桜井センリのゲイスターズ、谷啓のシャープス&フラッツあたりだ。これは間違いなくA級だ。
ハナがいた浜口庫之助のアフロ・クバーノjr.というのもよくわからない。そのころ松岡直也はハナとはずっと一緒だったと語っている。
ということで、全員が高い演奏技術を持ち合わせていたわけではなく、東京のバンドマンからコメディアンになったにしてはまあまあ楽器が弾けたのだと思う。
それが本人たちにとって邪魔になる技術でもなく、ただ楽器をやらなくても食えるようになったということだろう。
高い演奏技術をもっていたからあのような音楽コントが出来たわけではないのだ。
ハナ肇がしっかりしていて、谷啓が素晴らしいアイディアを出し、青島幸男が素晴らしくくだらない台本や歌詞を書き、萩原哲晶がチンドン屋のようなオーケストレーションを譜面にし、すぎやまこういちがフジテレビのディレクターとして辣腕を奮い、秋元近史がシャボン玉をつくり、そして植木、犬塚、安田、石橋、桜井が演じきったからあのような事態となったのだ。
高い演奏技術ではない。人間が、素晴らしい人間の集団があったからだ。
ドリフの台頭で、ちょっと息切れしていた頃のクレージーが米沢にやって来た。
舞台は現在の米沢市体育館、緞帳が上がる。もちろん全員楽器を持っての登場だ。
テレビで見るよりも、ちょっと大人の粋なステージ、営業のネタとテレビは使い分けていた。私は小学3年か4年、面白かった。
楽器を持って何かやってみたいと思った。
そうか、あの日がその日だったんだ。