霊山ジャズフェスティバル
今年は自分がそのステージに立つことになってしまいました。
古い話で恐縮ですが、今回の霊山ジャズフェスの主催者、阿部君とは今から27年前ぐらいにバンドで会った仲、確か2、3回は一緒に練習したかもしれません。
その後、二人とも東京を離れ田舎に帰ったのですが、全く接点がありませんでした。
福島、山形隣りあっていても栗子峠はなかなか越えられず、情報もありませんでした。
間違いなくFacebookの成せる技でしょう。たまたまお付き合いが始まり、阿部さんご夫妻が米沢まで足を運んで下さり、何だか不思議に交際が深まりました。で、コーヒー淹れの依頼を頂いたのです。
また昨年見に行った時に、以前うちのバンドのトラをお願いした仙台のトランペッター田口さんにお会いしました。
なぜかその後、諸所方々でお会いする展開があり、今回田口さんのコンパスオーケストラで歌わせて頂くという意外な展開になったのです。
初めてのバンドで全くリハもせずぶっつけの舞台は、スリリングでもあり、一緒に唄ってくれた貴ちゃんにとってもかけがえのない時間になったに違いありません。
と云うわけで、このような機会がナントナク増えそうな感じがしております^_^;
永井一郎さんを悼む。
いままでいろんな声優の方が亡くなった時の反応の中で、これほど日本人にとって影響力の大きい方は空前絶後ではないだろうか。
もちろん猪熊滋五郎やこなきじじい、多くのナレーションも印象に残るが、波平=永井一郎だったことは本人もそうであろうし、我々もそのように感じていたと思う。
サザエさんが毎度作り上げる、実際には中々ないであろう日本人が考える山の手の勤め人家族の原風景は、松竹映画、小津安二郎の流れだったのではないだろうか。それはあの笠智衆のあの感じなのかもしれない。ただしサザエは原節子じゃありませんね。。。。
息子は実写の人がやれば(片岡鶴太郎)がやれば、もっと面白くなるんじゃないかと言っていた。それもいいかもしれないなぁ。鶴太郎はばかもんのいい方を教えてもらったらしいしなぁ。
ただ波平から感じるそこはかとない教養と説得力は、永井さんの京大卒が関係してるのか、どうなのか?
お疲れ様でした。合掌。
3年前に書いたブログにこんなのがありました。
ヒルトン・ジェファーソンの肖像
これはローハイドの主題歌の歌唱で有名なフランキー・レインのアルバムなんです。相手にカウント・ベイシー楽団出身のトランペット奏者バック・クレイトンが付き合っています。
前にも書いたことですが、このアルバムは私が高校時代に通ったジャズ喫茶『マイルス』にありました。大学入学で東京に出るとき、このアルバムが好きだった私にマスターがカセットテープに録音して持たせてくれました。
聞きどころは、一杯あります。
勿論、フランキーのヴォーカル、クレイトンのラッパ、スキーター、ベストのサクサク聴こえるギター、バッド・ジョンソンとコルトレーンの師匠ビッグ・ニック・ニコラスの豪放磊落なテナーサックス、そして2曲のみにゲストで入るJ.J.ジョンソンとカイ・ウェンディングのトロンボーン、他にもアービー・グリーン、ディッキー・ウェルズ、ローレンス・ブラウンの素敵なトロンボーンソロなどなど、本当に満載なのです。
あともう一つ聞きどころがあります。それはリードアルトの音色です。その人こそヒルトン・ジェファーソンというアルトサックス奏者です。
なんつったらいいんだろう。大きく吹くのに、吹きすぎない。美しいのにワイルドだ。アルトサックスを作った人からすれば、こういう風に吹いて欲しかったんじゃないかなぁ、と思います。
私がアルトサックスを吹くことがあれば、彼をお手本としたいと思います。
そして、なんで複数枚あるかと云えば、本当に手に入らなくて、入らなくて、一回買えたら、また買いたくなってしまう、ただの病気なのです。
スターダスターズ 山形に現る!!
ここ十数年、置賜を離れていなかったスターダスターズ(そういえば一回喜多方に行ったけど。)が、久しぶりに県都山形にお邪魔することになりました。
今回は「YAMAGATAビッグバンドフェスティバル」という催しです。
当バンドのほかに米沢女子短期大学ジャズ研究会(米沢市)、ソルティー・フォーティー・オーケストラ(酒田市)、スノー・モンスター・ジャズ・オーケストラ(山形市)、ビッグ・スイング・フェイス(天童市)そしてスペシャルゲストはトランペットのエリック宮城(みやしろ)さんです。
場所はやまぎんホール(山形県民会館)、日時は2月11日(火)建国記念の日、13:00開場、13:30開演です。料金は前売り1,000円、プレイガイド、豆いちで扱っております。
スターダスターズはコンサートで演奏した井形貴子さんのヴォーカルを中心にしたプログラムでご機嫌を伺います。
久しぶりに色々なバンドの音が聴くことが出来るので、楽しみにしております。ぜひ皆さんもお運びください。
「昔、貧乏だな夫って人がいたんだよ。」
「嘘だい。そんな名前あるわけないやい!」
「じゃあ、これ見てみな。」
見た息子は絶句、「いるんだね、ビンボー・ダナオ、、、」
淡路恵子が亡くなった。私はほとんどテレビを見ないのだが、ほんのちょっと前にかみさんが見ていたさんまの番組だったかに、彼女が出ていたのを思い出した。最後にスタジオを出て行くときに、若いタレントさんに手を引かれて退場をするのを見たとき、ああ、随分歳を取られたんだなと思ったのだが、、、。
基本ドラマや映画を見ないので淡路さんの作品の思い出はないのだが、数年前に伴淳三郎の映画の会にゲストで米沢にいらしたときに遭遇した縁。
淡路恵子はSKD(松竹歌劇団)の出身だから、ちょっと映画女優とは違う感じがしている。映画女優は気取ってナンボの商売だが、踊り子はいつもホンネだ。自分の肉体が資本なのだ。だから晩年でも彼女のトークの場が設定されたのだと思う。
米沢でも田舎者のバンジュンの話ではなく、のり平や森繁の話が中心だったように思う。ただそれがすごく恰好のいい義姉さんだった、という印象。
ビンボー・ダナオとの結婚、そして離婚、中村錦之介との結婚、そして離婚、山のような借金、二人の息子の死、「ドラクエは裏切らない。」と語ったいろんな人に裏切りを受けてきた淡路恵子。
次の人生は淡路恵子は厭だ、毎日みんなのご飯を作る、漁師のおかみさんになるんだと言った彼女。そうそう、淡路の母は網元の娘だったのだ。
「そして風が走り抜けて行った・ジャズピアニスト・守安祥太郎の生涯」という評伝があり、守安は独身だったのだが、淡路恵子に恋をしていたという話を受けて著者の植田紗加栄は淡路にインタビューする。
本人は守安のことを全く記憶しておらず、SKD時代お稽古のピアノの先生がいたぐらいしか憶えていなかった。
その何ともいえずからっとした乾いた空気間のある彼女が、何とも好きだった。
※写真は1956年4月の日本劇場江利チエミショウ「ジャズ娘に栄光あれ」のパンフレットより。