青春プレイバック
中川さんは早稲田大学のロッククライミングという音楽サークルの出身である。そのためこの会は先輩である日本のブールス王、吾妻光良師によって仕切られ、本人はギター、唄、ピアノ、司会と八面六臂の活躍だった。
メンバーの中にはブールス界の大御所小出斉や小安田憲司、VOW WOWのヴォーカル人見げんき、達郎のツアーコーラスの国分友里恵など有名無名合わせて総勢40名が入り乱れてのセッションである。
このメンバーを見ても中川さんの人柄が偲ばれるというもので、末席に入らせて頂いている自分が嬉しい気持ちで一杯だった。
私は何かの加減でクレジットされていなかったが、吾妻師のご厚意により、3セットに出していただいた。
久々のセッションは、はっきり云えば、とても楽しいモノだった\(^o^)/
私が東京で作った三つ目のバンド『楽団・魅惑の羽衣』再結成の話もあり、久々に東京に通う日が近いかもしれない。
写真は吾妻師と人見氏のセッション。
米沢ABC音楽祭
7月12日に高校時代からの友人、島貫君が弾き語りの仲間を中心に西條天満公園で歌のイベントを開催しました。
ABCのAはアコースティック、Bはビート、Cはコーラスということでの音楽祭です。
私が協力できたことは二つ、その一は当日はすごく暑い日だったので、アイスコーヒー、ライチとレモンちょっと酢、金麦のセットを差し入れしたこと、その二は彼の名刺を作ったことです。
高校時代の彼はプレーヤーではなくリスナーだったと思います。いつの頃からか唄い出して、いつの頃からか私よりも落語が詳しくなっていました。
大きな思い出は大学一年の時、彼が新聞奨学生で大東文化大学に行っていた頃、急遽召集が掛かりました。私の他には千葉商科大学を辞めて予備校に行ってた小野、そして埼玉大学に行っていた須崎が呼ばれたはずです。高校では皆同じクラスでした。
確か喘息の発作が酷くて、これ以上続けられないので田舎に帰るという話しのようでした。上福岡という東武東上線の駅で帰りに小野君が何故か「小」と書いてある子供の切符を買ってしまったことと、ブラック嶋田(かな?)という手品師の店の看板が印象的でした。
その後米沢に帰り、いろいろ仕事をしていたみたいですが、その後また東京に出てきました。たまに会ったり会わなかったり、偶然町で見かけたりと付かず離れずの関係。
4.5年前偶然町で見かけて声をかけたのがまた友人復活の始まり。その後も会ったり会わなかったりですが、最近は時々店に来てくれて、自分の音楽事情を話してくれます。
彼は人徳があるので、多くの若いプレーヤーが参加して盛り上げてくれました。 あっ仁一だから人徳じゃなくて仁徳かな!?
だったら、亡くなった暁には仁徳天皇みたいなドデカイお堀付きの前方後円墳を造ってやろうと思います。
兎に角、ABC音楽祭、大成功おめでとう!
頑張れ!島貫仁一!!!!
BBOとは?
昨年から置賜で開催されている本のイベントです。チラシを読んで見ると、、、
「本を通して、人、店、まちが様々な角度からつながり素敵な化学反応を起こし、山形県の置賜に新たな文化の風を生み出す」とあります。うーーーむ、こんな壮大な計画だったのか☆彡
で、豆いちも参加させて頂いておりますが、6月13日からというのにもう勝手に始めさせていただいております。タイトルはその名も「昭和のお笑いを求めて・・・」
うーーーん、我ながらかなりいなたい、皆には分からない、分かろうはずもなき昭和のお笑い。
大坂の漫才でいえば、現段階で全盛の吉本興業ではない「松竹芸能」がいいのです。マイナー志向ではなく、当時は松竹の方が力があったのでした。
小学校の頃から集めた本を80冊ほど店に置いてみました。正直気付く方もほとんどおらず、前から店にあったような顔をしてら並んでおります。
貸出しもいたしますので、興味のある方は是非豆いちへ(^^♪
小三治師匠を聴いてきました。
私は所謂談志党なので、実は小三治師はあまり聴いていませんでした。聴きはじめたきっかけは、お店のお客様が自分でTVから録画したのをDVDに焼いて下さったのです。
簡単にハマりました。何故か、と云えば、面白いから、です。
そして、少しおへそがねじれている御仁だな、と、、、
通常は談志のほうが、我儘へそ曲がりで通ってる風があるように思います。が、実際は小三治のほうが、、、だと思うのです。
で、小三治はマクラが有名?なのですが、今日もしっかりたい焼きの噺を30分は振ったかもしれません。そしてたい焼き、ではなく鯛のアラが登場する猫の災難へ。
中入り後2席目は、いきなり『おっ母ぁ、おっ母ぁ!』と始まりました。私と息子は目を合わせて、ニヤリとしたのは云うまでもありません。
ここ3年ほど二人で豆チョコの袋詰めをしながら何度となく聴いて、二人で大笑いした初天神と云う演目だったからです。
それからは、自分が知っている初天神との違いを探す作業になるわけですが、実際ショートヴァージョンではありましたが、随所に新しい仕掛けもあり、小三治師が拵えたフレーズも満載で、大感動の一夜となりました。
まだまだお元気なことが分かったので、近くにいらしたときには、次は是非死神なんかを聴いて見たいと思う一夜でした。
米朝師匠の思い出
ガキの時分、四天王と云われた、松鶴、春団治、小文枝(先代文枝)の中では山形でも割合テレビに出ていたのが、米朝さんだった。
関西テレビで『はい、土曜日です』という朝からやってる、まあ今のミヤネ屋みたいな番組の司会をしていた米朝師匠。
藤本義一さんの奥様統記子さん、薬師寺の高田好胤さんなど、関東では考えられない、しかも米朝師だからこその座組みだったと小学生ながらそんなことを考えて見てました。
と、云うか当時は半ドンだったので長い休みの時に見ていたんでしょうね。
はっきり覚えるフレーズが一つだけあります。
多分NHKのお昼のニュース後の『お昼のプレゼント』というちょっと『いいとも』的な番組で米朝師が『掛け取り』という落語をやってました。
暮れの噺なので冬休みに確か母の実家で見ていたのだと思います。
掛け取りは、暮れの借金取りをその人の趣味に合わせて面白く取り繕って追い返す噺です。
大家さんは狂歌、魚屋は喧嘩、誰々は芝居などと上手く合わせて追い返すのですが、米朝師のには相撲好きというのがあり、会話の中にその当時の力士の四股名を織り込んだ借金の断りをはじめました。
その中に『安達もね(あたしもね)』というのが出て来ました。安達というのは山形市出身の力士で、その後蔵王錦と四股名を変え現在武隈親方として、時津風部屋で後進の指導に当たっています。
多分その当時安達は十両で、しかもそれほどいい地位には居なかったと思います。その話に出て来たであろう、輪島、北の湖、貴ノ花、魁傑などからみれば、かなりマイナーな安達を出して来たところに、彼のセンスを感じたものです。
皆が忘れていた上方落語を再興し、弟子も一杯ありますが枝雀、吉朝が早世、それでも月亭可朝、ざこば、息子の米団治、孫弟子の南光となかなか個性派が揃ってますね、師匠。
ご冥福をお祈りします。合掌