珍しく朝早く起きたので、松川橋界隈を散歩してきました。歩いて3分です。
考えてみると2003年のある日、貫地谷しほり嬢はここでラッパを吹いてたんですねぇー。
もう7年になるわけで。もう大女優さんって感じです。
ビッグバンドをやっているものとして、この映画が残したものはかなり大きいものとなりました。
まず、ビッグバンドという形態の演奏を一般の方に認知させたのは、大きかったと思います。
私たちのように、歌番組をゲップが出るほど見せられて、バンドも腐るほどあったときとは違い、あの演奏形態自体が最早珍しくなっていました。
この映画が公開された頃は、スターダスターズも随分演奏の依頼があり、いつも〆にはsing-sing-singを演っていました。
この映画でバンドに入ったのもいて、楽器も随分売れたらしいのです。
それはともかく、6月20日に長井あやめ公園百周年記念事業にスターダスターズを呼んでいただいております。
夜7時からの公園の水上ステージでやる予定です。久々の野外の演奏で楽しみにしております。
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春の陽気に誘われて、、、
今日は朝から自転車での移動となりました。
家から幼稚園に送っていき、その足で実家へ用足しの途中に相生橋から撮った、鯉のぼりと吾妻山です。
この河原の公園になっているところは、子供のころ自動車学校がありました。
そして小学何年生のころでしょうか。
ある冬の日その自動車学校の脇のスペースで除雪車などの展示会が行われました。
当然見学に伺いました。土曜日のような気がします。
どこでどういうふうに情報を手に入れたのでしょうか。
友人を誘い、建設業界の方たちに交じって一台一台説明を聞いていました。
ちょっと車両に乗せてもらったりして、なんと帰りにはお弁当まで頂戴しました。
今後そういう業界に私が入ることがあれば、是非一台はコマツから購入しなければならないなぁ、と思っております。
家から幼稚園に送っていき、その足で実家へ用足しの途中に相生橋から撮った、鯉のぼりと吾妻山です。
この河原の公園になっているところは、子供のころ自動車学校がありました。
そして小学何年生のころでしょうか。
ある冬の日その自動車学校の脇のスペースで除雪車などの展示会が行われました。
当然見学に伺いました。土曜日のような気がします。
どこでどういうふうに情報を手に入れたのでしょうか。
友人を誘い、建設業界の方たちに交じって一台一台説明を聞いていました。
ちょっと車両に乗せてもらったりして、なんと帰りにはお弁当まで頂戴しました。
今後そういう業界に私が入ることがあれば、是非一台はコマツから購入しなければならないなぁ、と思っております。
バス大工という仕事人
この間、米沢新聞社専務、豊川炭鉱馬車鉄道専務を勤められた高野義雄さんの曾孫にあたる高野印刷社長がお見えになりました。
馬車鉄道のことは分かりませんでしたが、祖父がバス会社をしていた時の話を伺いました。
その当時東京からバスを米沢に運ぶ時、まだ栗子トンネルの口径が小さいためバスの車体が通らなかったらしいのです。で、シャーシだけ東京から運んで、車体を米沢で作ったらしいのです。
で、家にその大工さんが出入りをしていたそうです。
どのような車体だったのでしょうか。今度写真を見せてもらおうと思います。
写真は佐氏泉公園の入口にある、花が白っぽい桜の木です。
この木だけ夜もライトアップされています。
馬車鉄道のことは分かりませんでしたが、祖父がバス会社をしていた時の話を伺いました。
その当時東京からバスを米沢に運ぶ時、まだ栗子トンネルの口径が小さいためバスの車体が通らなかったらしいのです。で、シャーシだけ東京から運んで、車体を米沢で作ったらしいのです。
で、家にその大工さんが出入りをしていたそうです。
どのような車体だったのでしょうか。今度写真を見せてもらおうと思います。
写真は佐氏泉公園の入口にある、花が白っぽい桜の木です。
この木だけ夜もライトアップされています。
東京出張という心地よい響き。その5
後楽園に初めて行ったのは中学2年の修学旅行のときだ。
宿泊は大久保の笹川良一の海洋会館、でその時、後楽園には昼夜2回行った。
最初は遊園地で、夜に巨人戦のナイターだったと思う。
まだ日劇も国際劇場も健在だったが、そういうコースは時代遅れだったのでしょうか。
日光にも行ったのかなぁー。横浜は行ったなぁ。
遊覧船で安部君が白い無地の野球帽を海に飛ばした記憶は、なぜか今も鮮やかに記憶している。
で、昼の遊園地の時に球場のそばで人だかりがしていたので、隊列を離れ行ってみると、TBSの渡辺謙太郎アナウンサーだった。
そのころのTBS運動部のアナウンサーは早稲田野球部OBの渡辺、浪花節の廣澤虎造の息子、山田二郎が二枚看板だった。「謙太郎さん」「二郎さん」とおたがい「さん」づけで呼び合うのが、田舎物にとってはなんとなく都会的な感じがした。
それでなぜかサインを頂いたんだ。その時田舎の中学生は鉛筆しかなくて、しかもコクヨのメモ帳に書いてもらった。
「はぁー、鉛筆って書きやすいもんだね。」ちょっとざらっとした、少し高めの、滑舌のいい声で謙太郎氏は言った。
「ぼくらいつもボールペンしか使わないからさ、こりゃいいもんだねぇ。」
都会的で、親切でかっこいい。
ラジオでも人柄の良さは感じていたが、こんな中学生にもフランクに話しかけてくれる。
今、自分はそういう大人になれているのだろうか。
宿泊は大久保の笹川良一の海洋会館、でその時、後楽園には昼夜2回行った。
最初は遊園地で、夜に巨人戦のナイターだったと思う。
まだ日劇も国際劇場も健在だったが、そういうコースは時代遅れだったのでしょうか。
日光にも行ったのかなぁー。横浜は行ったなぁ。
遊覧船で安部君が白い無地の野球帽を海に飛ばした記憶は、なぜか今も鮮やかに記憶している。
で、昼の遊園地の時に球場のそばで人だかりがしていたので、隊列を離れ行ってみると、TBSの渡辺謙太郎アナウンサーだった。
そのころのTBS運動部のアナウンサーは早稲田野球部OBの渡辺、浪花節の廣澤虎造の息子、山田二郎が二枚看板だった。「謙太郎さん」「二郎さん」とおたがい「さん」づけで呼び合うのが、田舎物にとってはなんとなく都会的な感じがした。
それでなぜかサインを頂いたんだ。その時田舎の中学生は鉛筆しかなくて、しかもコクヨのメモ帳に書いてもらった。
「はぁー、鉛筆って書きやすいもんだね。」ちょっとざらっとした、少し高めの、滑舌のいい声で謙太郎氏は言った。
「ぼくらいつもボールペンしか使わないからさ、こりゃいいもんだねぇ。」
都会的で、親切でかっこいい。
ラジオでも人柄の良さは感じていたが、こんな中学生にもフランクに話しかけてくれる。
今、自分はそういう大人になれているのだろうか。