6月4日21時30分 昨夜の県民ショウの京一郎&はるみの録画した部分をチェックしつつ就寝。
6月5日1時丁度 起きてしまいまったりとする。
6月5日3時20分 余り眠くないが、今日のことを考えるとということで二回目の就寝。
6月5日5時ごろ 最初の目覚まし。何となく雨音が聞こえるが、眠たさに負けて目覚ましを掛けなおし再度就寝。
6時 結構な雨音。本日の準備に店に向う。雨は強くなってくる。外仕事なのでこのままでは難しい。
とにかく、店に行き少なめに豆を挽く。
7時30分 雨が小降りになる。家に帰ってパンの朝食。髭をあたってげげげの女房を見る。
8時30分 息子を幼稚園に送り、現場に直行。ほぼ雨は上がっていたが、外では無理ということで縁側のスペースをお借りして店を作る。
10時開店 そこから珈琲を淹れる。余り暑くないためかほとんどがホットで兎に角珈琲を淹れる。れる。れる。
雨は殆んど降らない。
16時閉店 片付けをして16時30分ごろ店にに向う。その途中なぜか雨足がいきなり強くなる。
店に付いた頃にはざんざんぶり。濡れながら店に荷物を入れる。
17時ごろ自宅到着。シャワーを浴びて準備を整える。
17時40分ナウエルニューグランドホクヨウ到着。
18時30分ごろ3階プロバンスの間にて演奏開始。取りあえず無事終了。
その後楽屋でくっちゃべって、三々五々解散。
23時ごろ自宅に再度到着。長い一日もなんとか終焉を迎える。
HOME > そこいら辺を歩く
松川の色は、、、
その昔、石という石が全て黄色かったことを思い出します。
今は天元台と名を変えた場所は、かつて硫黄鉱山がありました。
私が生まれた頃廃鉱になったと聞いています。
思えば、軍事色を強め世界から孤立していく中で、鉱物の輸入が思うようにいかなかったのか、とにかく山の中を随分ほっくり返しています。
山の駅は一つ一つがそのターミナルで、関根駅は西吾妻鉱山(前述の硫黄鉱山)、峠駅は滑川鉱山、板谷駅はジークライト鉱山と、各駅に鉱山から索道が張り巡らされていました。
戦争が終わったからといってそう簡単に産業構造は変わらず、戦後も多くの鉱山が操業を続けていました。
で、松川は子供の頃は魚の住めない川になっていました。
いつの頃からでしょうか、水鳥の姿が見え出したのは。魚がいるのでしょう。
県でも随分浄化に取り組んでいるらしく、黄色かった石はいつの間にかもとの姿に戻っていきました。
今では、鴨、鷺をはじめ水辺の鳥が随分川面に姿を見せるようになりました。
私が子供の頃、そんな川でも泳いだことがあるんです。
大人が昔泳いだというはなしを聞いて、どんなもんかということでジャブンと入ったのではなかったでしょうか。
みんながみんな泳いでいる状況ではなかったと思います。むしろ物好きというか、まあ市営プールに泳ぎに来て、ちょっとあっちに行ってみようかという感じだったと思います。
一中の脇の住ノ江橋のすぐ下に、割りに大きな淵があり、結構深く色は深い緑色で、水も冷たかったように記憶しています。
その場所もいつの間にかなくなっていますが。多分1、2回水に浸かったのでしょうか。中学生だったのでしょうか。
水の味は酸っかかった、とてもとても飲めませんでした。
きれいになったとはいえ今も無理ですね、飲むのは。
今は天元台と名を変えた場所は、かつて硫黄鉱山がありました。
私が生まれた頃廃鉱になったと聞いています。
思えば、軍事色を強め世界から孤立していく中で、鉱物の輸入が思うようにいかなかったのか、とにかく山の中を随分ほっくり返しています。
山の駅は一つ一つがそのターミナルで、関根駅は西吾妻鉱山(前述の硫黄鉱山)、峠駅は滑川鉱山、板谷駅はジークライト鉱山と、各駅に鉱山から索道が張り巡らされていました。
戦争が終わったからといってそう簡単に産業構造は変わらず、戦後も多くの鉱山が操業を続けていました。
で、松川は子供の頃は魚の住めない川になっていました。
いつの頃からでしょうか、水鳥の姿が見え出したのは。魚がいるのでしょう。
県でも随分浄化に取り組んでいるらしく、黄色かった石はいつの間にかもとの姿に戻っていきました。
今では、鴨、鷺をはじめ水辺の鳥が随分川面に姿を見せるようになりました。
私が子供の頃、そんな川でも泳いだことがあるんです。
大人が昔泳いだというはなしを聞いて、どんなもんかということでジャブンと入ったのではなかったでしょうか。
みんながみんな泳いでいる状況ではなかったと思います。むしろ物好きというか、まあ市営プールに泳ぎに来て、ちょっとあっちに行ってみようかという感じだったと思います。
一中の脇の住ノ江橋のすぐ下に、割りに大きな淵があり、結構深く色は深い緑色で、水も冷たかったように記憶しています。
その場所もいつの間にかなくなっていますが。多分1、2回水に浸かったのでしょうか。中学生だったのでしょうか。
水の味は酸っかかった、とてもとても飲めませんでした。
きれいになったとはいえ今も無理ですね、飲むのは。
北部近傍に遊ぶ。
休みなので、朝から子供を幼稚園に送っていき、免許の書き換えに警察署に行き、その後ホームセンターに買い物に行こうとしたのですがまだ9時ちょっと前、店が開いていないため近くの歴史探訪をしました。
まず、徳町の名前の基となった徳正寺跡の長慶寺に行ってみました。
そのそばには疱瘡神社があります。
同心焼の窯場跡を探そうとしたのですが、ちょっと判りませんでした。
次にもう少し塩井寄りになる「美女塚」に詣でました。
小野小町伝説の場所ですが、本人が葬られたという説、切支丹の美女が葬られたという説、直江兼継の遺品が埋葬されたという説などあるそうですが、説明版がほぼ読めないほど劣化しています。また西に「美男塚」というのもあるということで、何か芝居が書けそうです。
それから塩井の薬師堂に行ってみました。
ここには富山の薬売りの人が農法を教えてくれたという酬恩碑が建っています。それは全国でも珍しいものらしく、配置薬の研究書にも載っていました。
その後ろにあった「スイングガールズ」に出てきたパチンコ店は跡形もなくなっていました。
そんなことをしているうちに9:30になったのであのホームセンターに向いました。
この間約30分、結構楽しめます。
写真は最上川沿いの菜の花、ではなく喫茶ヘヴンのところから見た、水田と西山方面です。
まず、徳町の名前の基となった徳正寺跡の長慶寺に行ってみました。
そのそばには疱瘡神社があります。
同心焼の窯場跡を探そうとしたのですが、ちょっと判りませんでした。
次にもう少し塩井寄りになる「美女塚」に詣でました。
小野小町伝説の場所ですが、本人が葬られたという説、切支丹の美女が葬られたという説、直江兼継の遺品が埋葬されたという説などあるそうですが、説明版がほぼ読めないほど劣化しています。また西に「美男塚」というのもあるということで、何か芝居が書けそうです。
それから塩井の薬師堂に行ってみました。
ここには富山の薬売りの人が農法を教えてくれたという酬恩碑が建っています。それは全国でも珍しいものらしく、配置薬の研究書にも載っていました。
その後ろにあった「スイングガールズ」に出てきたパチンコ店は跡形もなくなっていました。
そんなことをしているうちに9:30になったのであのホームセンターに向いました。
この間約30分、結構楽しめます。
写真は最上川沿いの菜の花、ではなく喫茶ヘヴンのところから見た、水田と西山方面です。