今日から少し昭和11年の大雪の様子を見てみましょう。
米沢大年表によると、
1月6日より降雪、10日まで続き、12日夜復た降雪、猛吹雪、昼夜止む時無く降雪、平地にて7尺余り。16日になり赤岩、板谷の奥羽線雪崩頻発、汽車運行全く不能に陥る。
市中の住屋門、板塀悉く雪に埋まる。22日に至り降雪尚止まず、雪下し人夫払底、日料5割以上値上(1円50銭)夕食付。薪炭、野菜も欠乏、米沢庭坂間開通の見込み立たず。
米沢中学校講堂、塵埃焼却場は雪の為倒壊。立町、粡町の商店街、店頭1丈乃至2丈雪を積重ねあたかも城壁の如き奇観、通行人が各所で送電線で首を引っかける有様、全く記録に絶する大雪であった。
と、あります。この年は新潟、北陸も大雪でこのような絵葉書が数多く発行されました。
粡町通りの大雪
左側の旗に「山本山」とあるので海苔を売っている店でしょうか。
痩せた黒猫、箱橇と道具立ては揃っています。
中央奥のほうの看板は「雪下駄特売」と書いてあります。
多分北から南のほうを望んだ写真だと思います。
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米沢善光寺如来渡御行列(二重橋前にて)
この善光寺如来像は現在安置されている米沢市八海山法音寺のhpによると「川中島合戦の際、謙信公に奉じられた信濃善光寺の御本尊である。仏教伝来と共に我国に伝えられた仏像として大きな魅力が感じられ、ドラマがある。」ということになる。
では現在長野の善光寺にあるのは何?ということになるが、まあいろいろあるのでしょう。
とにかく、謙信公が亡くなってからはその遺骸の右に善光寺如来、左に毘沙門天を守り本尊にして神聖不可侵の神域を形成していたということです。
明治維新以降米沢城より御廟に遺骸が移されると、善光寺如来と毘沙門天は法音寺に移りました。その後明治32年に上杉茂憲が同寺を訪れ、修繕のためと称し如来を東京に移しました。
その間長野善光寺より上杉家に返還請求があったのですが、様々な動きがあり長野に戻ることなく米沢に帰ってきたのが昭和4年のことです。
でも本当は上杉家が長野善光寺に一旦は戻すことを約束したらしいのです。それに米沢市側が猛反発。
そして多分米沢に戻す時の条件として、米沢市側は法音寺附近3万坪の買収(予算50万円)と百万円の予算で大伽藍を建設するということではなかったかと思われます。
かなり途方もない計画です。そのくらいぶち上げなければ長野に帰っていたんでしょうか。長野に帰る縁はなかったようです。
如来は戻したものの計画は遅々として進まない。金が集まらなかったのでしょう。そこで昭和8年、如来を東京に出開帳ということになりました。
これがそのときの写真です。さすが連合通信写真部、よく撮れています。
その時なんとヤクザの抗争に巻き込まれたりした奇想天外な椿事があり、命からがら米沢に戻った顛末は又機会があれば。
現在法音寺にて宝物展が行われていますので、興味のある方は急げ!!
20日まで。
なお善光寺如来尊は秘仏のため上杉家の当主のみが拝観できるとのことです。住職も見たことがないという話です。残念!
では現在長野の善光寺にあるのは何?ということになるが、まあいろいろあるのでしょう。
とにかく、謙信公が亡くなってからはその遺骸の右に善光寺如来、左に毘沙門天を守り本尊にして神聖不可侵の神域を形成していたということです。
明治維新以降米沢城より御廟に遺骸が移されると、善光寺如来と毘沙門天は法音寺に移りました。その後明治32年に上杉茂憲が同寺を訪れ、修繕のためと称し如来を東京に移しました。
その間長野善光寺より上杉家に返還請求があったのですが、様々な動きがあり長野に戻ることなく米沢に帰ってきたのが昭和4年のことです。
でも本当は上杉家が長野善光寺に一旦は戻すことを約束したらしいのです。それに米沢市側が猛反発。
そして多分米沢に戻す時の条件として、米沢市側は法音寺附近3万坪の買収(予算50万円)と百万円の予算で大伽藍を建設するということではなかったかと思われます。
かなり途方もない計画です。そのくらいぶち上げなければ長野に帰っていたんでしょうか。長野に帰る縁はなかったようです。
如来は戻したものの計画は遅々として進まない。金が集まらなかったのでしょう。そこで昭和8年、如来を東京に出開帳ということになりました。
これがそのときの写真です。さすが連合通信写真部、よく撮れています。
その時なんとヤクザの抗争に巻き込まれたりした奇想天外な椿事があり、命からがら米沢に戻った顛末は又機会があれば。
現在法音寺にて宝物展が行われていますので、興味のある方は急げ!!
20日まで。
なお善光寺如来尊は秘仏のため上杉家の当主のみが拝観できるとのことです。住職も見たことがないという話です。残念!
川中島摸擬戦はいつの頃から、、、
やっているのか、というのが時々議題に挙がります。
江戸時代はやっていたのか分かりません。
大体いくさの訓練を幕府が許す雰囲気ではないと思うので、やはり御一新以降ということになるのでしょう。隠れてやっていたというのもあり、と思いますが。
現在手元にある資料(中村忠雄編 再増補訂正米沢大年表、及び市制100周年記念誌 米沢百年)をみると明治38年1月3日旅順陥落の時に今町河原にて摸擬戦を行う(大年表)とあり、その年の4月28日上杉神社祭礼に古代武装行列を催す。松川河畔で川中島の摸擬戦も行う(米沢百年)ということで、このころにはやっていたらしいのです。
1月3日に本当にやったんでしょうか?
豆いちで再発行した花屋版川中島摸擬戦は明治41年ですが、その当時の山形日報の記事では、上杉祭り時には摸擬戦は恒例となっていたようなのです。
写真は日比谷公園で行われた摸擬戦です。連合写真部となっており、現在の共同通信、時事通信の母体です。この写真のあらましは次回!
江戸時代はやっていたのか分かりません。
大体いくさの訓練を幕府が許す雰囲気ではないと思うので、やはり御一新以降ということになるのでしょう。隠れてやっていたというのもあり、と思いますが。
現在手元にある資料(中村忠雄編 再増補訂正米沢大年表、及び市制100周年記念誌 米沢百年)をみると明治38年1月3日旅順陥落の時に今町河原にて摸擬戦を行う(大年表)とあり、その年の4月28日上杉神社祭礼に古代武装行列を催す。松川河畔で川中島の摸擬戦も行う(米沢百年)ということで、このころにはやっていたらしいのです。
1月3日に本当にやったんでしょうか?
豆いちで再発行した花屋版川中島摸擬戦は明治41年ですが、その当時の山形日報の記事では、上杉祭り時には摸擬戦は恒例となっていたようなのです。
写真は日比谷公園で行われた摸擬戦です。連合写真部となっており、現在の共同通信、時事通信の母体です。この写真のあらましは次回!