越後街道は数々の峠が待ち受け、その険しさは「十三峠」と称され最後が、諏訪峠(峠の由来は峠の麓にある『諏訪神社』に由来する。これは、諏訪湖のほとりにある信州一の宮諏訪大社の分社として奉遷されたのがはじまりで、和銅年間(708~715)の創建でこの神社から諏訪峠となった)自分は『眺め峠』がなじんでいる。この峠の上には清水が湧いていて屋号を(峠)とした『峠茶屋』があったそうです。時代の流れとともにお店をやめ峠から麓に降りたとのことです、その家は八島家で現在もあります。昭和42年羽越水害のときまでは他に家がない一軒家ということでした。当時の写真があったら掲載します。現在調査中です。 峠の道は現在の舗装道路より下で現在もある堤の横を通っていたそうです。今は八島家の他に、昭和42年当時、水害で家を失った川下の数軒が集まった家並みになっています。その先には若松観音があり、その分岐左にある細い道、それは諏訪神社の参道に向かう道になり、バードはそこを進みます。 昔若松観音は峠の頂上にありました。それは上杉家が会津から米沢へ減封に伴い佐藤作兵エが飯豊町中村、その後、小松村へと移り、観音さまも「観音山」に遍座された。 しかし、山頂という不便さで現在地へ遍座した。置賜三十三観音の第十二番札所で弘化3年の記録も見られます。2016年2月普通なら数m雪があるのに本年は特別雪が少ない、記念にと2016年2月19日あえて雪の中参道まで歩いてみましたが旧道は除雪してないようです。 写真は観音様前の旧道から諏訪神社の鳥居前までです。
イザベラ・バードの通った道(山形県川西町編)はじめに
明治11年(1878年)イギリスの女性旅行家イザベラ・ルーシー・バード以下『バード』と呼ぶは、始めて日本を旅し、その旅の様子は最愛の妹ヘンリエッタへ手紙として送られ、帰国後に旅行記を出版している。この旅行記に思いをはせ、さまざまな出版物が出されている、私の生まれ故郷川西町上小松は1878年7月に通過し小松に2泊している。 バードが通った道は私が小学校のとき遠足で通った道であり、小学、中学の通学路でもありました。昨年2015年7月第二の人生は故郷置賜で農的生活をすると決め、都会生活40年に分かれを告げてUターンした。
幼い日の思い出とともにバードが通過した道を古い写真とあわせ散歩がてら辿り始めた、実家から峠の頂上に行き、そこからスタートしてバードが小松を通過した樽平酒造さんまでは、のんびり歩いて2時間である。同じ道を自分なりにその風景や思いを記録に残したいと思い、ここに掲載する。
イザベラ・バードの通った道(山形県川西町編)その1(諏訪峠)
越後米沢街道13峠の最後の峠『諏訪峠』この頂上は山形県飯豊町と川西町の境になる、1878年(明治11年)7月ここをバードは通過し、ここでみた米沢盆地を『アジアのアルカディア』と褒め称えている。
丸太写真館さんが寄贈したこの峠の写真は大正末期ころのものと思われる、中間のところと左下辺りに人が写っている。私が小学校の低学年(1964年頃)まではこれと同じ九十九折になった砂利道であった。私らは眺めが良いので『眺峠』と言って遠足、芋煮会などでよく登ったものです。
昨年7月に田舎に戻り、このバードがわが故郷小松町を通った道の古い写真を探しては、同じ場所の写真を撮り始めた中の一枚である。現在は一直線に登り、そして下ることが出来る。効率はいいが風情は失われている。
たぶんここが同じ箇所と思いパチリ、この頂上にはバードの説明看板が立っています。
故郷のこと
生まれ故郷川西町は、山形県の南部、置賜盆地のほぼ真ん中に位置し、上杉の城下町米沢市に隣接している町。
水田が広がる平野部からなだらかな丘陵地帯が連なり、『東に_吾妻、西_飯豊、東はるかの蔵王山♪見渡す峰もおごそかにィー♪・・・・・(小松小学校の校歌)』、と朝日の山々を遠望する恵まれた自然と豊かな緑に囲まれ、明治時代、英国の旅人イザベラ・バードがまさに「アジアのアルカディア」と称賛した美しい町です。
町には650種、約100,000本のダリアが咲き誇る川西ダリヤ園があります。また、本町出身の直木賞作家井上ひさし先生からの蔵書(約20万冊)を核として劇場を併設した川西町フレンドリープラザがあり、町内外から多くの人が集ります。
しかし、日本の工業化、高度成長期から多くの若者は都会へと流れ過疎化が進み、昭和25年の人口3万645人をピークに少子高齢化の進展や世界的な経済不況に見舞われている昨今では人口1万6千まで減少して、町の商店街は衰退し見る影もありません。特に高齢化率は4%代からH26年には31%まであがっています。(川西町HP参照)農業(米)が主だった頃の街は置賜で遊ぶなら小松といわれるほどで造り酒屋も数軒あり、豊かな時代もあったが、嗜好が変わり飽食の時代となり、米あまりとなり米価の下落とともに世帯収入は置賜最下位の取得に落ち込んでいます。
移住の地に決めた飯豊町は、山形県の南西部に位置し、東は米沢市および川西町、西は小国町、南は福島県喜多方市、北は長井市にそれぞれ隣接しています。町の北東部は、白川の水と肥沃な耕地を利用した農業地帯で良質米を生産し、丘陵地は肉牛の産地でもあります。町の南部は飯豊連峰に連なる山岳で覆われています。
JR米坂線と国道113号が東西に走っていて、仙台と新潟を結ぶ内陸横断ルートのほぼ中間地点となっており、交通の要衝となっていて、中津川地区は、自身の実家から豪雪地帯の玉庭からさらに峠を越えたところにあります。
はじめに
初孫の莉乃(2012年生まれ)、名前の由来はハワイ語で(lino)光る、輝くという意味、この他には、編む、織る、結びつくという意味があります。また、(特に曲名や歌詞の中では)奇跡という意味に解釈される場合もあるようです。
都会生活40年、故郷置賜での農的暮らしを夢見て、中津川に移住、工房の名前を考えたとき、懐かしい風景、消えてゆく里の暮らしを紹介して、都市と故郷をつないで、みんなが明るくなれる場所を作りたくこの初孫、莉乃からとりました。ニュアンスとしては「みんなを明るく照らし、故郷と都市をつなぐ」でしょうか。
田植えも、稲刈りも全くやったことのない里山暮らしとは縁がなかったじじですが、半自給を目指して、故郷、置賜の文化、芸能、里の暮らしを観て、自ら体験しながら趣味の絵画、イラスト、模型人形作りをして、山菜や野菜を市などで販売しながらスローライフを楽しみます。素人のじじですが試行錯誤しながらがんばっていきたいと思いますので、どうかよろしくお願い申し上げます。