仕事の記録1978から2001東芝小向時代(川崎)

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東芝日野から東芝小向に移動になったのは1978年10月で当時50名の移動でした、50名のうち独身メンバーが大半だったと思います、東芝日野寮は会社と同じ敷地の中で通勤時間は数分であったのが川崎地区の寮に移動するまで数週間は川崎まで通ったのを覚えています・・中央線豊田駅から八王子経由横浜線でまだ暗いうちから通いました・・川崎のイメージは小学校のころ公害、労働者の街としてしのイメージしかなく嫌な場所に行くことになったなと思いました、当時川崎駅は今のように洗練された駅ではなく西口は東芝堀川町工場があり小さな飲み屋街がある昭和昭和した雰囲気のところ東口は川崎の歓楽街で東口は公園みたいなところがある駅でしたが公園のようなところに終電乗り遅れたのか、浮浪者なのかおっさんがベンチで寝ていたりあまりいい印象ではなかったような・・東口は京浜地区の工場にいくバス停にたくさん人がいました、写真は昭和時代の川崎駅と今の川崎駅です、現在の川崎駅西口は全く面影がなく東芝堀川町工場はなくなり洗練された駅になってます、川崎のイメージが変わったのは地下街アゼリアができてからですね、男女七人夏物語、秋物語とさんまさんとしのぶさんが出ていたドラマは川崎アゼリアを撮影につかって川崎も横浜にならぶきれいな都市にと変わったと感じたものでした、東芝小向は川崎駅から社バスで5分くらいでしたかね航空・宇宙・防衛・放送機に昔はテレビにビデオもあったところです、小向地区は東芝科学館に東芝多摩川工場、東芝総合研究所もある大きなところ、所属した課は航空・宇宙に防衛、放送機、通信機事業部、青梅コンピュータ事業部にも電源を供給する多岐にわたる電源の開発課でした・・最初の仕事は青梅のミニコン電源(Γ電源)というやつで教えてもらった主任さんは後に課長になり初仲人をやってもらった東大出のKさんに抵抗器メーカの北陸電気幹部の息子さんであるNさん後に東芝を退職して北陸電気長野の工場長になっておりました・・次につづく・・

2018.01.16:li-no:[過去の仕事]

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