秋晴れの日、松川(最上川)の上流・直江石堤を訪ねた。会津120万石から米沢30万石にに領地を削られ、上杉氏の本城となった米沢、大勢の家臣団が移り住みました、城下に収容しきれなかった下級武士は郊外の南原・東原に配置し、荒地の開拓・用水・治水、城下の用水となる御入水堰、猿尾堰、帯刀堰など開削・洪水から米沢城下を守るため松川に谷地河原堤防と蛇土手を築いたということです、藩士の奉仕にによる修復、特に、文化9年(1812)の工事は、延べ9,727人の藩士を動員した大工事と記録されてます。昭和61年に市の史跡に指定され、きれいに整備された公園になってます、何か機械で修復なのか工事してました、それにしても昔は機械も無くほとんど人力の大工事にただただ驚きます、それに藩士による奉仕とは、そこそこ不満もあったでしょうにね・・米沢を築いた先人の苦労は並大抵のものではないと痛感、治水の大切さを教えてくれた史跡でもあります・先人の皆様こうして「直江堤公園」として後世に名を残したことは救いでしょうか?。もう少し工事責任者とか下級藩士の奉仕者たちも名も書いてあげればいいとふと思ったじじの感想でした。
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