新潟は幕末には開国五港に選ばれ、港町として大いに栄え、花街としても繁栄した、老舗料亭、ブラタモではタモリさん初のお座敷遊び、貧乏人ではうかつにはいれませんから・・ランチコースも万クラス、弁当ランチなら入れるかな?町は小路がいっぱい家の数が6軒あったことから6軒小路、かって新潟は堀と橋のまちで芸者さんも多く風情のある街並みだったが、堀は車社会となり役目を失い埋め立てられ、その遺構は柳の木だけがのこり、地名に西堀、東堀と名残を見せるのみ、人情横丁にはその説明看板があるが橋の遺構は申し訳なさそうに残っている。ブラタモでも撮影してましたんで行ってみた、昔の写真が街の看板にあったので掲載、うーーん堀に柳の木いい感じでした昭和30年代まではこんな感じでした、高度成長とともに成長したものもあるが、失ったものも大きい・ひとつの通りだけでも残っていればいいのに・・
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新潟市古町(その1)
夏といえば海、置賜には海がなく、小学生の頃、夏の海は憧れだった、まだマイカーの普及が進んでない昭和30年代、愛護会で連れて行ってもらった瀬波、鼠ヶ関、由良海水浴場がなつかしい、しかしなんといっても一番の思い出は、大好きだったおばあちゃんが住んでいた新潟の古町近くの海、小学生の頃は毎年新潟の従妹とばあちゃんとこに遊びに行っていた、その古町、つい最近、ブラタモで放送され、懐かしくなり、ほぼ50年ぶりで思い出の場所を訪ねた、おばあちゃんが住んでいたところは新潟市中央区古町13番町ここらへんは大きな都市開発から取り残されたように昭和っぽい、住んでいた家の前にあった新潟市立湊小学校は残っていたが、統合され廃校になったようだ、この校庭で遊び、商店街や海に行った遠い夏の日を思い出す。
山古志の棚田
棚田と棚池の入り交じった美しい景色のある山古志という地域。山古志の歴史はなんと1200年以上続いていると言われています。中越大震災という災害からの復興を経験し、山古志に住む人たちはく強く成長しながら、山の暮らしを続けています、.新潟に住む従妹と観に行ってきました、地元のお父さんがいて話を伺ったがほんとにすごい、限られた山の斜面を開墾し、水源の確保をおこない、道具や肥料、刈り取った稲なども全て背中にしょって歩いて運搬したんだそうだ、山の頂上は両側崖のようでおちたらヤバイ、集落から田んぼもそこそこ距離があるのに、昔の人はすごかった、ここ山古志は3mは軽く積雪があることろ、いやーその生活観にたまげます。