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22 川西町玉庭 矢の沢の草木塔

  • 22 川西町玉庭 矢の沢の草木塔
玉庭の矢の沢という集落は、昔、米沢市内あるいは田沢から玉庭を経て中津川に通じる道の要所であったと思われる。
現在は、昔の集落は移転してなくなってしまった。
もともとあったと思われる金山神社が近くにある。

田沢にも矢の沢の家と姻戚関係にあるところは少なくない。
既に亡くなった方で、婿に来た人が「矢の沢というところは、その昔は米沢から中津川に入る門番みたいなもんだったんだ。俺が若い頃は、郵便配達人の中継所(休憩所?)にしていたもんだ。」という話をお聞きしたことがあった。
今、林道が切り開かれているものの、その道も冬はなかなか大変そうだ。旧道は、いかに難所であっただろうことをしのばせる。
現在は、昔の集落よりも玉庭よりの小さな峯筋に、新たな住人達の家が点在している。大きな自然を満喫するには素晴らしく良いところであろう。
ただ、やはり冬はそうとうな積雪があるだろうことは想像するに難くない。



さて、草木塔は1m弱の自然石にの中央に、「草木塔」とあり、その両側に弘化二年 三月吉日と明快に刻まれている。
弘化二年(1845年)とは、米沢市の大黒天に建っている石塔と同じ年ということになる。
同じ年なのに、「草木供養塔」と「草木塔」という違いが出ている。
川西町玉庭の草木塔としては5番目。
玉庭の高野沢の草木塔と文字の配りなどはよく似ている。
書体はちょっと違うように見える。

高野沢からは旧街道で行けば道伝いということになるのだろうか。
1829年から26年も経ってから同じ系統の人が建ったと考えるのは無理があるだろうか。

地区の人の話によると、矢の沢にはもう一基あるかもしれない、と言われているそうだ。
それも、もっと古いものかもしれないという。
探しているが、まだ見つかっていない。
はたしてどうでしょう。
2011.07.15:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

21 米沢市小野川町大黒天の草木供養塔

  • 21 米沢市小野川町大黒天の草木供養塔
米沢市の西部にある小野川温泉の温泉街から大樽川の対岸側の高見に、甲子大黒天本山寶珠寺の伽藍が望める。
その裏の山を、大黒天山主(関谷良寛氏)がシャクナゲ園として遊歩道などを整備されている。
その中腹の一角に、この塔が建立されている。

昨秋、おいたま草木塔の会の研修を寶珠寺で実施し、山主さまに案内してしただいた。
画像はその時のもの。
この草木塔について、お話をお聞きした。



『この草木塔は、もともと同じ三沢地区の羽黒堂地域の加藤氏宅にあったが、この集落で最後まで残っていた加藤氏を含む二軒が転出することになったため、協議の上(関谷さんたち)有志によって小町山(寶珠寺の裏山)に運び安置した。
 羽黒堂の加藤氏の自宅敷地内に、石塔が土に直接建っているだけの状態だったことから、個人で建立されたと考えられる。
 小町山に移設してから、許可を得て河川から丸石を拾い集めて、石塔の基部に配置し支えとして、現在の姿になった。』

石碑の碑面には、草木供養塔とあり、「養」の字が上と下の部分が分解されて横並び表記されている(今の状態で画面表記できなくてすみません)。
簗沢地区糸畔と口田沢上屋敷のものと同じであり、この関連はどうなのだろうか。
弘化二年(1845年)とある。

羽黒堂は小野川からもっと赤芝町寄りにあった簗沢地区の集落である。
加藤家はすでに転出されており、いずれ羽黒堂に建っていた頃のお話をお聞きしたいと思っている。

2011.07.09:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

⑳米沢市万世町赤浜の惣木供養塔

  • ⑳米沢市万世町赤浜の惣木供養塔
いきなり飯豊町広河原から米沢市の万世地区に飛ぶ。

赤浜というのは、現在の米沢スキー場入口の国道13号ちょうど向かい側からつながる道を下って行ったところにある集落。
集落の前を通る道は、昔はその先の集落へ繋がる道だったのだろうか?
今は、道が荒れていて、普通の車では行くことができない感じであった。



家屋は3~4軒建っているものの、住んでいる人は何人いるのかわからない。
塔は集落の一番奥に祀られている山の神さまの神社の境内にひっそりと建っている。

この日は、お祭りがおこなわれるのか、境内がきれいに掃き清められており、立派なお堂の扉が開いていて、その中にはお神酒が供えられていた。



多くの石塔が並ぶその中の一つに「山神 惣木供養塔」と中心に刻まれたものがあった。
そして天保十二年(1841年) 九月吉日と刻まれている。

草木ではなく惣木という表現は初めてだし、山神と刻まれているものも、初めてである。

広河原の草木塔から2年後である。
当時はこの場所は山上村であったようなのだが、この草木塔の広がりは、どこから伝わってきたものなのだろう。

草木ではなく、「木」というところに何か理由がありそうである。
2011.07.03:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

⑲飯豊町広河原の草木塔

  • ⑲飯豊町広河原の草木塔
広河原地区には、なぜか心を惹かれていて、学生時代に原付き免許をとると、出かけたて行ったものだった。
そのきっかけは、大荒沢の不動尊の秋のお祭りに、広河原の皆さんが、夜中のご祈祷に昔から参拝されていたからなのだ。
それで、どういうといころからおいでになっているのかと気になって出かけたのだったっけ。

それで、初めて行った時の、印象。
「うっ…、これは…」と言葉が出てこなかったことを思い出す。
広河原川を渡って集落へ向かう道がまだ舗装されていなくて砂利道、向かって右の急峻な岩山が迫っている風景が胸を押しつけるような気分であったことを覚えている。


(画像の車の向きは逆)

さらに集落に入って、その山村の穏やかさにうれしくなり、さらに川沿いに細い崖っぷちに沿った道を進むと、そこに集落があることに驚いたものだ。

さて、草木塔はどこにあるか。
この画像の個所に架っている橋から奥に進み、上流の集落に入る手前で、また広河原側を渡る橋がある。現在の道はそこから真っすぐ行ってゆっくり右にカーブしながら坂を上って集落に入って行く。
草木塔は、橋を渡ると間もなく、右側に旧道らしき道形があり、そのそばにひっそりと建っていた。

6月の、草が伸びて木の葉が茂っている時期には道路からはなかなか見えない。しかし、よく見ると、傾いた石塔の頭が見えている。
ただし、道路端には地権者の所有を示す立札とロープが張ってある。
訪れる際は、周囲を荒らさないように気をつけたいものだ。



石塔は、雪の重みのせいか、下部が地面にめり込み、やや傾いているように見える。
碑面には苔が生え、摩耗していることもあり、「草木 」までしか読み取るのがやっとの状態。
しかし、アップしてみると、非常にしっかりした字体が彫られているようだ。

資料によると、「草木塔」とあり、天保十年四月八日(1839年)と記録されている。隣の沢の小屋集落の草木塔が建立されてから9年後である。
隣と言っても、集落をつなぐ道は杣道のような道でしか繋がっていない、深い沢沿いにある集落である。
このつながりはどうなっているのだろうか、地域間のの交流などを調べると何か出てくるのではないだろうか。
2011.06.27:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

⑱ 川西町玉庭 朴沢の草木供養塔

  • ⑱ 川西町玉庭 朴沢の草木供養塔
さて、また川西町に戻り、玉庭の朴沢。
高国寺さまの境内地になっていると思われる、県道沿い道端の小高い場所に建っている。

坂道を登って奥の方に、立派なお寺の本堂が見える。

川西町では古いほうから4番目に数えられる。
しかし、凝灰岩でできているようで、その碑面の摩耗が激しく、ほとんど判読することができない。
手元にある写真集『草木塔』(山形大学出版会)によると、「草木供養塔」と中心にあり、その他、天保七年(1836年)とあったそうで、その他の月日や建立者は不明とある。

凝灰岩の加工石、所謂このあたりで切石などというのだけれど、川西町大舟 旧新蔵峠入口に建っているものに次いで2例目になる。
大舟は文化3年(1816年)に建立されており、それから20年後に建ったものなのだろうが、保存状態に大きな差が出てしまっている。



カメラをぐっと寄せて撮影してみると、かすかに「草 木 」と読めるような気がする。
この状態もいつまで保てるものやらわからない。
今のうちに、記録しておかなければ、いずれ判らなくなってしまうだろう。



川西町の玉庭の柴引(草木供養塔)、それから大舟(草木供養塔)、そして玉庭の高野沢(草木塔)ときて朴沢(草木供養塔)。
一連の流れと見るのは無理があるのかなぁ。
2011.06.16:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]