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30 岩手県 沢内の「草木供養経」塔

  • 30 岩手県 沢内の「草木供養経」塔
30番目は、江戸時代に建立され確認されている2基の草木塔のうちの一つ。
ちなみに、もう一基は先に訪ねた、福島県の熱塩(現 喜多方市)にある。

秋田県の横手から国道107号線、或いは秋田自動車道で峠を越え岩手県側に入ると、もう和賀郡西和賀町である。
沢内村は平成の合併で西和賀町沢内となっっている。

この度は、急がずゆっくり国道を走って行ったため、約5時間かかってしまった。
山形から秋田経由で秋田自動車道、或いは福島飯坂ICから東北自動車道~秋田道でかなり時間短縮できるでしょう。

湯田から沢内に向かい、旧沢内村役場(沢内支所)へ行き、建立地を尋ねたら、たいへん親切に対応いただき教えてもらった。



和賀川の大きな橋を渡り、田んぼの向こう側にこんもりとした森の中に大山衹神社があり、その境内地に石塔が建っていた。
それにしても、なんて美しい里なのだろうか。
天気が良いというだけではない。
すっきりした風景で、じつに心地が良い場所。
あぁここは、何かが違う…。


神社に参り、さてその塔である。

1863年(文久3年) 8月11日 建立となっている。
この写真の画像では、よく碑面がよく判らないが、実際には肉眼でかなり読みとることができる。

碑面の真ん中に「草木供養経」とあり、その上に梵字が刻まれているが、判読できないので、後に確認する。

その他には、建立年月日が両側にあり、その下部に建立者名と思われる「七内 願主長作」「信心施無欲者」とある。
到着した時間帯の関係で、完全に逆光になってしまった。



さて、この沢内村は、失礼ながら、かつては日本のチベット…と呼ばれるような山間の僻地であった。
冬の間は豪雪と寒冷地で峠道も閉ざされ、雪の中でひたすら春を待つよりないような村であったそうだ。
昭和三十年代初めまで、とりわけ冬季間の医療機関に受診が困難で、乳幼児死亡率が日本で最も高いぐらい厳しい環境であったようだ。
それを克服しようと、当時の深沢村長が奔走し、医療費無料化と乳幼児死亡ゼロに取り組み実現させたというような歴史があった。
その村長さんの記念館があり、現在も行政に関わる団体等の視察が多いと聞く。

そういう地域であった。
それゆえ、南部藩とは異なる文化が育まれ残ったのではなかろうか。

沢内の七内という地域に建つ草木供養経 塔。

なぜこの沢内に、建てられたのか。
置賜との関わりがあるのか?

残念ながら、今のところ明確にすることはできない。
ただし、沢内は人の交流と物流は、盛岡などよりもむしろ秋田の横手側に向いており、その先の庄内へとつながっていた(いる)という。

したがって、出羽三山参りも盛んに行われており、湯殿山塔も数多く建っているとのこと(未確認)。

置賜の草木塔と出羽三山との関係も未だはっきりしていないのでなんとも言えないのだが、一つの繋がりの可能性はあったわけだ。


☆(上記は、2012年6月に沢内を訪問した時の思いと記録)

 沢内には銀河ビールの工場もあった。
 もちろん購入してきたことは言うまでもない(^^;


2013.05.26:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

(番外)「草木塔巡遊 ~米沢南部編~」

  • (番外)「草木塔巡遊 ~米沢南部編~」
おいたま草木塔の会が主催する草木塔巡り、今年度は~米沢南部編~ということで、米沢市の簗沢と綱木を巡ってきました。

11月5日(土)、三沢コミュニティセンターに集合した26人の参加者の皆さん、天気も恵まれ元気に出発。

案内役の講師を予定していた、梅津幸保氏が都合が付かなくなったため、急きょ、私がご案内することになってしまいました。
参加者の皆様に謝りつつ、参加者の皆さんにご理解とご協力を戴いて、無事に回ることができました

最初は三沢東部小学校グランド脇にある、大台原の草木供養塔。
この塔は、江戸期に建立された塔としては、唯一、碑面に建立の趣旨が刻んである、たいへん重要なものです。
そして、今回の参加者の方から、昔は別なところに建っていて移動したものだということを教えていただき、ありがたいことでした。




次は綱木地区にある草木供養塔。
集落の真ん中付近から石段を登ると、立派な山の神様のお堂が建っている。
その参道の途中にある。
なぜか、草木塔の目の前に巳待塔が重なるような格好で建っていて、不思議。
ここでは、綱木の獅子踊りについて、参加者の雨田さんからいいお話をお聞きでkしました。




そして、簗沢方面に戻り、糸畔集落へ。
道端のとてもわかりやすいところに建っている、草木供養塔です。
土地所有者の方が、とてもきれいに管理なさっています。




その次は、初神(はじかみ)集落の渡部さんの屋敷内に建っている草木塔。
草の字体がちょっと変わっています。
明治39年に建立されたもので、この頃になると、個人で建てるようになってきているようで、建立者の名前が刻まれている。
そして、その主旨のようなものが書いてあるのだが、残念ながら明瞭でなく、追って調査をしなければならない。




それから、小野川の小町山にある草木供養塔。
昨年の会の研修でも訪れました。
置賜三十三観音の二十一番札所があります。




さらに、赤芝の龍性院さまへ。
ここには、平成5年に川から見つけられ、このお寺の境内にお寺さんや町内の有志の方々によって遷座された草木供養塔です。




最後は、三沢コミセンの駐車場脇の広場に建つ草木塔。





簗沢には、もう一基、屋敷集落と西ノ在家集落の背景にある山の中腹に建っているのですが、確認できなかったため、今回は案内することができませんでした。

次回へ持ち越しです。








2011.11.12:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

「番外」 草木塔学習

  • 「番外」 草木塔学習
三沢西部小学校の児童の「草木塔学習」で、田沢地区の草木塔を数か所回った。
田沢コミセンと小学校の今日で実施しており、今年で5~6年続けていることになる。

児童数が全校で40人のチビ学校なので、数学年の組み合わせで、1年に2回に分けて田沢にある全ての草木塔と、関係の深い大荒沢不動尊などを回って学習する。

今年は、3年生と5・6年生の児童を対象に行っている。


この日は、お寺のお勤めが忙しくなってしまい、着替える暇がなくそのままで^^;

最初は入田沢白夫平の草木供養塔。

一回目に見学する予定だったのだが、時間の関係で回り残してしまったのだった。

その次が、上中原の草木塔。
この草木塔は大きく形もよく、供養という字や梵字などが書かれていないシンプルなものになる。



それから、国道から離れて玉庭に越える旧螻蛄尾峠の登り口にある下中原の草木塔。
小樽川や国道などの近くからだいぶ離れている。
この道は、距離的には一番玉庭に近い街道なのだ。


そして、下の町の私のお寺で管理している墓地に立っている草木塔。
石塔にひびが入っているのが気にかかる。

最後は、上屋敷にある草木供養塔へ行って、全部回って、コミセンに戻り時間どうり終了。


今回は、高学年を中心にいい質問が出ていました。
「どうして1780年代頃に草木塔はできたのですか?」
「古い草木塔が壊れたのはなぜですか?」
「壊れたら、新しく建て直したらいいんじゃないですか?!」
「どんな石でできているんですか?」

途中で隠れキリシタンのお話をしたら
「どうしてキリスト教を信じてはいけなかったんですか?」

などなどです。
子どもたちには、草木塔が田沢が発祥の山里の文化であることを知っていてほしいと願っている。
それから、私たち人間は、樹木や草花にも命があって、それを食べたり利用して生きていられるということ。
ヘクサ虫などの虫や動物も同じで、生きているものには命があるとそう話す。
そうして、感じる矛盾も大切なこと。

今回は私の写真ばかりになっちゃって、すいませんね^^;

2011.10.20:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

「29」飯豊町大字白川の草木塔

  • 「29」飯豊町大字白川の草木塔
熱塩加納村からまた飯豊町中津川に戻る。
年代順に追っていくと、まったくピンボールの玉のようにあちこちへはじかれる。
これは自分で決めたルールなので、楽しむしかない。
無駄が多いことは承知なのだけれども。

さて、熱塩加納村の草木塔から3年後の文久二年(1862年)8月とあり、「草木塔」と細い文字で刻まれている…のだが、また訪れた時間が悪く逆光でよく見えませんね。
それに、土ぼこりをかぶっており、手でやさしく埃を払ってやらないと、なんの石塔だかわからないような状態になっている。

飯豊町の白川という地区の白川寺という曹洞宗のお寺の境内地、賛同のところに他のたくさんの石塔とともに並べられるように建っていた。
この並び方から想像するに、元々は別なところに建っていて、移設されたものではないだろうか。
そう遠くないところだと思うのだが。

白川寺は、田沢寺を「でんたくじ」と呼ぶように「はくせんじ」と読んでいいのかな。



お寺の境内に建っているということで、お寺の方にお話を聞けると期待して、少々緊張して出かけたのだ。
しかし、尋ね当てていくと人気がなく、住職不在のお寺になっているようであった。
人気のないお寺は寂しい。
このあたりは、やはり過疎化しているのだろうけれど、近くには「農家民宿」という看板を出している家が軒を連ねているのだし、進入路には立派なお寺の名を刻んだ石柱が建っていた。
おそらく、どこかのお寺さんが兼務なさっているのだろう。

隣のお宅の作業小屋の前を通って境内に入った。


お隣には誰かいらっしゃるようだったが、ちょっと気落ちもあり、声をかけずに来てしまった。次回訪れるときは話を聞かせてもらおう。

山門に繋がる道は、車が通れないような昔の道なのだけれど、とても山村のお寺の雰囲気がある。
その先には、蓮の花が咲いている池がある。

冬は…、きっとたいへんな雪なのだろう。
お寺から大きな通りに出るまでは数百メートルあるだろう。
それでここにはとても居られないのか…などと想像してみた。
けれど惜しい。

お寺は人がいてこそお寺のような気がする。

中津川で4番目に古い草木塔は、いちばん人里に近いところに建っていた。
2011.08.24:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]

28 福島県喜多方市 熱塩小学校脇の草木塔

  • 28 福島県喜多方市 熱塩小学校脇の草木塔
28番目で、初めて山形県外の草木塔が登場する。
飯豊町岩倉の草木塔が建ってから約1年である。
米沢市入田沢の塩地平に1780年に建立されたものから79年経過している。
明治時代以前に県外に建立された「草木塔」と考えられる石塔は現在のところ二つだけ。
その一つが、田沢地区からも比較的近い、熱塩に建っているというのは偶然ではないように感じる。


平成4年に開通した大峠トンネルのお陰で、国道121号を通って、一年中、熱塩加納村(当時)へ車で30分もあれば余裕で行ける場所になった。
それまでは、旧大峠道路は冬季間のおよそ5~6ヶ月間通行できず、大きく遠回りしなければ行けないところだったのだ。
開通後は、いろんな意味で喜多方市を含めて交流が広がって行った。

さて、草木塔が建っている熱塩小学校のグランドのそばには、草木塔以外に観音様やお地蔵さま、湯殿山の大きな石塔、どなたかの功績をたたえている生碑も建っていて、草木塔はじつに目立たない。
しかも、訪れた日は、この観音さまのお祭りらしく幕が掛けてあった。


お地蔵さまの後ろに隠れるように、墓石型の「草木塔」が建っている。
午後少し遅かったため、逆光になり字は読みにくいが、確かに草木塔である。
以前訪れた時は、前にお地蔵さまはあったかなぁ?
それに、小学校の石の標柱が新調されているようだ。

碑面には「草木塔」と刻まれている。
左の側面には、安政6年(1859年)6月建立とある。
その他の文字は、肉眼でよくわからない。
資料によると、建立者は「木樵 甚三郎」とある。



左側には、2mをゆうに超す湯殿山の石塔、その隣に生碑、そのなかにひっそりと建っている。
しかし、当時の熱塩加納村の教育委員会によって、昭和58年に村の指定文化財になっている。
喜多方市と合併した今でも、おそらく同様の扱いになっているのではないかと思われるのだが、要確認である。


米沢市が民俗有形文化財に指定するよりだいぶ前に、その意義を認めているところがすばらしい。

それにしても、大峠道路が明治に入ってから、三島通庸県令の施策により主要道路として整備されるより前から、人の往き来、交流はあったように考えられている。幾分ルートは違うものの、昔の大峠の道筋というのを地区の古老から聞いていたこともあり、熱塩の草木塔建立の経緯には、田沢との関連があるのではないかと想像している。



2011.08.11:dentakuji:コメント(0):[草木塔を歩く]