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星崎さん&ももなさん

  • 星崎さん&ももなさん

 3月8日に「ももなさんをきっかけにして」と題して、星崎シクラさんの駅ノートをブログにアップした。星崎さんのその書込みが気になって、白兎駅に行ってみた。白兎駅のノートにはももなさんの誕生日や里帰りを祝うメッセージがたくさん寄せられていた。そして3月5日、フラワー長井線沿線紹介マップ(上の写真)を添えて星崎さんの書込みが続きます。

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2023.07.29 駅メモももなさんのお里帰り達成。また来ます。(あおにゃん)

2023.10.26 ももなさんの誕生日、里帰り達成。おめでとう!!(ぼうやぼうや)

2023.10.26 ももなさんハピパ!!

2023.11.19 遅ればせながら白兎ももなさんの里帰り記念に。来年は10月26日に来たいですね。(ざくろ仙台)

2024.01.24 ももなさんの里帰り記念! 機会があればまた寄りたいです。(ふかふか&きから)

2024.02.11 駅メモの温泉娘イベントの帰りに、ももなさんのご実家ということで訪問しました! 外寒い! うさぎかわいい! (るっる)

2024.02.28 キュンパスでももな里帰り。思ったより雪少なかった。夕陽が差し込んでとても美しい。 (麻理藻)

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2024.03.05 なんか思ってたより熱が入っちゃった・・・。里帰りとして、たくさんの方が訪ねて来てくれるのが本当に嬉しくて・・・! ももなちゃんをきっかけとして、フラワー長井線のことを知ってくれたことが本当に嬉しいんです! 皆様ありがとうございます!これからもフラワー長井線そしてももなちゃんのこと、よろしくお願いします!(星崎シクラ)

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【おらだの会】来訪された方々への感謝の言葉と長井線とももなちゃんを応援して欲しいとの星崎さんの言葉が胸に響きます。2年前星崎さんが駅茶においでになって、「駅メモ」と「白兎ももな」のことを熱く語ってくれたことを思いだしました。こんな風に山形鉄道のことを考えてくれる人がいることには感謝の言葉しかありません。ありがとう、星崎さん。これからもよろしくお願いします。

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 星崎さんとの最初の出会いはこちらから

 → ももなちゃんを知って欲しくて:おらだの会 (samidare.jp)

 → ももなちゃんをきっかけに:おらだの会 (samidare.jp)

2024.03.11:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

伊藤桃さん来訪

  • 伊藤桃さん来訪

 鉄道アイドルとしてたくさんのファンを持つ伊藤桃さんが羽前成田駅に来てくれました。今回が3回目の来訪になります。

 

 彼女にどうしてこの駅が好きなのですか?と質問しました。第一は古い駅舎が好きだとのこと。それは歴史のある建物には余白があって、そこにいると自分の居場所と想像が広がる空間があるのです。それは古民家やお城などと同じように、そこに生きていた人々の思いが感じられるからだと思うのですとのこと。

 

 加えて語ってくれました。私は古い建造物以上に、その駅を守っている地元の人たちの生き様に惹かれるのだと思います。ローカル線を守っている地元の人たちを応援したいんです、とのこと。

 

 JRキュンパスで来てくれた彼女との2時間の何とも楽しかったこと。田舎の爺さんたちは、自分の子や孫に近い年齢の彼女から元気をもらったのでした。また会える日を楽しみにしています。

 

 

2024.03.02:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

ちいさなきかんしゃ

  • ちいさなきかんしゃ

 絵本「でんしゃがいっぱい」に続いて、本棚の奥から出てきたのは紙芝居「ちいさなきかんしゃ」である。この紙芝居は昭和62年(1987年)の刊行であり、今も人気の「きかんしゃトーマス」が最初に放送されたのが1984年であり、これとほぼ同時期の作品である。

 

 登場人物はコッペル君とダブスン君という2台の機関車である。機関車の名前はそれぞれドイツのコッペル社、イギリスのダブス社からとったものらしい。コッペル君は以前から働いている小さな機関車である。大型の機関車ダブスン君が登場すると、コッペル君の出番はなくなり車庫で休む毎日。ダブスン君から「じゃまだどけどけ」と意地悪をされることも。

 

 大雪が降ったある日、ダブスン君が峠でスリップして前に進めなくなった時に、コッペル君が応援に行くことになる。助けてくれたコッペル君に、ダブスン君が「コッペルありがとう、なかよくしてくれね」と言い、コッペルも「ダブスン、ぼくたちともだちだね」と語る場面で終わるのである。

 

 この紙芝居を改めて読み返すと、高齢社会の一翼を担う我が身とダブってくるものがある。果してこれから、「ぼくたち一緒に生きる仲間だよね」と言い合える場面はあるのだろうか。それはさておき40年たってこの紙芝居を読み聞かせる機会があるのだろうか。その時の心境はどんなものであろうか。

 

2024.02.25:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

でんしゃがいっぱい

  • でんしゃがいっぱい
  • でんしゃがいっぱい

 物置を片付けていたら、「でんしゃがいっぱい」という絵本が出てきた。こんな絵本を買っていたのかと思いつつ、ページをめくると山形新幹線の新聞の切り抜きが出てきた。

 

 山形新幹線は平成4年(1922年)7月1日が開業日である。この年は第47回国民体育大会が山形県で開催された年であり、山形新幹線と共に庄内空港も開設されるなど、交通インフラが整備された年でもある。

 

 とりわけシルバーメタリックの山形新幹線(400系)は、「銀の衝撃」と言われるほどに人気があったものである。小学校に入学したばかりの息子は鉄ちゃんではなかったが、新聞記事を絵本に張り付けたものであろう。新幹線を見たい!と思ったのかもしれない。

 

 開業から30余年を経て来月16日、山形新幹線にE8系の車両がデビューするという。子供たちにとって新幹線は、今の時代でも憧れの対象なのであろう。けれどもガタゴト走るローカル線にも愛着を持ち続けて欲しいものだ。

2024.02.16:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]

「ああ上野駅」から「仰げば尊し」  

  • 「ああ上野駅」から「仰げば尊し」  

 大正から平成まで歌をとおして辿って来た。最後に白鷹町の荒砥中学校卒業生(荒十会)の同窓会誌に「集団就職列車に同行して」と題する投稿が掲載されていたので紹介したい。「集団就職」という言葉自体が消え去ろうとする現代にあって、社会の大きなうねりの中で、生徒たちと寄り添い続けた教師の姿を伝えたいと思うからである。

 

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 私は3学年の副担任として就職係を担当することになった。当時の卒業生の進路は進学、就職、自家自営がそれぞれ約3分の1くらいの割合であった。就職希望者には相談表に記入してもらい、適性検査なども実施していた。職業安定所から来たパンフレットを廊下に張り出し、それから選んでもらい、職業安定所の職員が来校し、個人面接をして決めていた。

 

 集団就職が始まったのは昭和27年(1952年)、28年(1953年)頃からで、就職列車が出るのは3月29日から30日頃だった。午前7時頃、長井駅に西置賜安定所管内の卒業生が集まり、赤湯へ向かった。長井駅ではものすごい人混みで、各校ごと校歌を歌い、長井中学などは吹奏楽を演奏して激励し送り出した。それぞれの学校の就職係が付き添い、私も担当として同行した。

 

 夜行で上野駅に朝5時ごろ到着する。上野駅には管轄の安定所ごとに幟を立てて出迎えた。駅の近くの広場で引渡しが行われたが、何といってもまだ15歳。引き取られていく生徒を見るのは辛く、もごさい(可哀そうな)ものだった。その後私たち就職係は、自校生徒の就職先を訪問した。1週間くらいはかかったと思う。中には、「すぐに帰りたい」と言い出す者もいた。住宅の一部に看板を掛けただけのような規模の小さい縫製会社などがいっぱいあった。求人票で見て考えていたイメージと違うということもあったと思う。

 

 S君は食糧組合に入ったかと思う。彼はまだまだ子供っぽさが残っており、果たして務まるかなと心配した。しかしコメの配達の仕事をして、得意先から大変めんご(可愛)がられて駄賃などをよくもらったのだという。そして米屋さんの養子に迎えられ、大変成功したと聞く。関東での同級会に私も呼ばれて出席した時、立派な社長の風格で、よく我慢して頑張ったんだなぁと思ったものだ。

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 これを読んで、中学時代の恩師の顔を想い出した。同級会で教え子の現況報告をニコニコしながら聞いてくれたものだった。先生が亡くなったとき、先生に一番叱られた友達が弔辞を読んだ。最後の「先生ありがとう」の言葉は泣き声だった。

 仰げば尊しわが師の恩。互いに睦し日頃の恩、別るる後にもやよ忘るな。「ああ上野駅」から「仰げば尊し」に漂着してしまったが、それぞれの心の故郷の中には、恩師と友との想い出があるのだと思う。

 

 

【おらだの会】写真は、荒砥中学校卒業生(荒十会)同窓会記念誌から転載。

 

2024.02.07:orada3:コメント(0):[駅茶こぼれ話]