HOME >   №2 弁慶の供養塔

弁慶の供養塔⑥

  • 弁慶の供養塔⑥

 これを聞いた主人をはじめその家の人々は、大いに驚きかつたいそう喜んだ。そのような身分の人の娘では、一層粗末にできないと言って可愛いがり、大切に養育をした。成人した娘は非常に容貌の美しい、その上、心持の優しい賢い女であった。するとちょうど、その家の相続人息子に嫁取り頃で立派な若い者があって、二人は相思恋愛の仲となったのでありました。親達もたいそう喜んで、早速夫婦にしてくれた。夫婦は仲睦ましく、男女数多の子に恵まれたという。

 

 さてその後、弁慶の娘夫婦の世代となってからの事である。孝心深い彼ら夫婦は、亡父弁慶と同行の人々の霊を弔い慰めるために、供養塔を建立して大法要をしたのでありました。里人は、名高い人々を祭祀した御塔であるので、「塔ッ様(とっつぁま)」と名付けて崇敬したのでありました。現在も成田字塔の腰に、鎌倉時代の姿そのままの七重層の御塔が残っているのであります。

 

 

【補 足】写真は、今も残る塔様です。(写真はフィルターをかけています。)

弁慶の供養塔⑦

  • 弁慶の供養塔⑦

 その後、子孫大いに繁盛し、分家別家と栄えていった。現今、成田における鈴木氏一門はことごとくその子孫であるということであります。一方義経が泊った家は、森の塔の上の古口名兵衛の祖先宅であったという。なお一説には、昔の鈴木平左衛門兼行という人は、同行山伏七人のうちの一人で、やはり義経の家来で彼の娘に保護者として付け残された人であったとも言われております。

 

 果たして娘に形見として残していった日の丸の軍扇は、その由緒書と系図の一巻と共に、その家の重宝となって相伝していったのであります。さらに江戸時代になってからは、家の惣領筋の者が伝えるべきものとなり、回りまわって吉川家に伝えられることになったといいます。しかしながら歳月は流れ、今日では軍扇の存在を確認することはできなくなったとのことです。地区最大の歴史秘話を証言する軍扇は、まさに歴史の闇の中に消えてしまったのでありました。

 

注:写真はもちろんイメージです。

 

弁慶の供養塔⑧

  • 弁慶の供養塔⑧

 ここまで昔話を聞いてくれた皆さんには、果たしてこの地に義経主従が滞在することはあるのか、という疑問が残るでありましょう。確かに、山形県内で義経主従の伝説が多く残るのは最上地方ですが、平泉に下向する際のルートは、まだ確定したものはないようです。長井近辺で義経主従が登場する場所をいくつか紹介しましょう。

 

 まず、米沢市花沢の常信庵には、義経の家臣であった佐藤継信・忠信兄弟の生まれたのが米沢で、戦死した佐藤兄弟の供養のために、義経一行が平泉に逃れる途中、佐藤氏の寺院である常信庵に立ち寄ったと伝えられています。また、長井の東山から山の上を通って河井に出る道があって、義経が弁慶らと岩手の衣川に行く時、金売り吉次が案内した道であり、「金売り吉次道」と呼ばれたといいます。さらに成田から北上した朝日町には、義経の正室である北の方が出産したといわれる場所があり、また弁慶が宿代の代わりに置いていったという笈(きゅう:おいばこ)が今も残っているということです。

 

 写真は、塔様の案内板です。歴史をたどるミステリアスな旅を、この案内板から始めては如何でしょうか。

 

 

【参考資料】「金売り吉次道」は東北文教大学民話アーカイブ 工藤六兵衛翁昔話「時庭の六本仏」より。「弁慶の笈」は「あさひまちエコミュージアム」より。

 

弁慶の供養塔⑨

  • 弁慶の供養塔⑨

 ふるさとめぐり致芳(致芳地区文化振興会編)では、「この塔様は寺に建てられたものか、または川端に建てられ野川や松川の洪水を防ぐため、お祈りしたものかとも考えられますが、道しるべともいわれています。」と記されている。また古口名兵衛宅(⑦参照)付近の3層の石塔と塔様、西根地区の黒附け土壇が一直線上に並ぶことから、「山岳信仰に由来するものでないか」とも書かれています。

 

 その正確な由緒を確認することは出来ませんが、一時期、塔様を供養する祭礼が途絶えた時期があり、町内に不幸な事が続いて起こったそうです。今、地元久保町地区の若い衆は、弁慶会という会を作り、毎年7月に供養祭を行っています。弁慶会の平成30年度総会資料には次のような活動目標が掲げられています。

 

 「伝統ある弁慶会員の一員であることに自覚と誇りを持ち、家庭と仕事を大事にしながらも、何かと集まる理由を常に探り、提案し、実際に集まる機会を増やそう。そして今以上に「弁慶愛」を育み、会員各々が各々の世界で「無敵の弁慶」になれるよう励まし合い、認め合って活動していこう!さらに「義経・弁慶ゆかりの地」を緩やかにPRしていこう!」

 

 弁慶の供養塔を通して、先人が残し、伝えたかったのは、こうした仲間が集う場所と地域への思いだったのかもしれませんね。弁慶会の益々の発展を祈念しながら、この物語はこれにて打ち止めにて御座候。