HOME >   №2 弁慶の供養塔

弁慶の供養塔①

  • 弁慶の供養塔①

 成田村伝説の第2弾として塔様(弁慶の供養塔)の物語をお話しましょう。まずは、成田地内のマップをご覧ください。左下に「塔様」という文字が見えると思います。ここが、今回の物語の舞台で、鎌倉時代の建立であるとされている5層の石塔が立っています。

 

 ここは、置賜野川と最上川の合流点で河岸段丘のヘリにあたります。ブラタモリではありませんが、裏道や小路、崖っ縁には、いろんなドラマがあるようです。成田駅で降りてくれた皆さんも、時間があったらちょっとだけ足を延ばしてみてください。なお、このマップは、長井まちづくりNPОセンターが街歩きツアー用に作ったもので、実際とは違っている場合もありますので、ご了承ください。鎌倉時代の大河ドラマは、次回よりいよいよスタートです。

 

 

【おらだの会】「塔様」についてはこちらからもご覧ください。

  → 塔様 | 成田(なりた) | 致芳ふるさとめぐり | 長井市致芳コミュニティセンター (chihou-cc.org)

弁慶の供養塔②

  • 弁慶の供養塔②

 昔、成田と森が一つの村であった頃の事である。あるいは未だ森、成田という名称も付けられない頃であったかもしれない、文治2年(1186年)秋の事であった。

 

 村の東方の部落に山伏の同行7人が、民家に宿を願って泊めてもらったのであった。この山伏一行は、源九郎判官義経主従が、世を忍ぶ落人潜航の人達であった。もちろん表向きは、普通に羽黒詣りの山伏と言っていたが。7人が一軒に泊まることは出来ないので、付近のもう一軒に分かれて泊ったのでありました。

 

 

注:この記事は、長井村郷土史会が昭和28年2月に発行した「長井村伝説物語――成田字塔の越(塔の腰)塔ッ様の由来 鈴木氏一門家系の由来」を基に作成しています。

弁慶の供養塔③

  • 弁慶の供養塔③

 その晩、同行していた二人の女性のうち若い方の女が、時候の障りで患い、どっと床についたまま起き上がることができなくなった。仕方がないから、「しばらく逗留させていただきたい。」と願ったのでありました。するとその家の人達は、非常に心の優しい方々であったので、色々に親切に手に手を尽くして看病してくれた。そのおかげで、娘は程なく病気は治ったが、まだまだ皆の衆と一緒に道中されるような身体には回復してはいないので、「そういつまでも大勢で厄介になっていることもできません。」とて、羽黒参詣が済んでの帰りまで、娘を泊めて貰うように懇々願った所が、その家では快く引き受けて、「決してご心配下さるな。」と言うてくれました。一同の山伏は大そう喜んで、今まで世話になったお礼を萬々申し述べて出立したのでありました。

 

弁慶の供養塔④

  • 弁慶の供養塔④

 ところが翌年になっても、その次の年になっても何の消息もなくなってしまったのでありました。そうしておりますうち、いよいよ3年目の文治5年(1189年)の夏、奥州衣川において泰衡が突然の夜討ちによって、義経主従をことごとく討死にしてしまったという。引き続いて頼朝の奥州征伐となって、泰衡はじめ平泉の藤原氏がことごとく滅亡してしまったという噂が、こんな田舎にまで伝わって来たのでありました。

 

【補足】 衣川は、「弁慶の仁王立ち」の逸話が残る場所ですが、前九年の役(1060年頃)に源義家と卯の花姫の父とされる安倍貞任が戦った場所でもあります。安倍家滅亡後100年を経て、奥州の覇王藤原家が東征の軍によって滅亡させられたのでした。

 

弁慶の供養塔⑤

  • 弁慶の供養塔⑤

  平泉の騒乱を聞いた娘は、ある日のこと、主人の前に出でまして、今まで包んで語らなかった我が身の素性を打ち明かすのでした。「彼の時、御当家様に泊めていただいた山伏の一人で、背のずっと高い髭の多い頭(かしら)分のような態度をしておったのは、西塔武蔵坊弁慶と言う者で、妾(わらわ)の父でありましたし、付近の家に泊まった人々は主君義経夫婦などの人達でありました。」と。残らず語ったうえで、「その証拠がこれでございます。」と言うて、一つの日の丸の軍扇を出し、「これが妾の父が義経公の家来になった時、その証として拝領した軍扇で、非常に大切に肌身離さず所持していた物ですが、別れの時に親の形見にと渡していったのであります。」と言うて、示したのでありました。

 

【蛇足】写真は「義経 弁慶と五条の橋で戦ふ」(歌川国芳画)の図ですが、牛若丸が持っている扇に日の丸が見えます。弁慶が娘に渡した軍扇なのかもしれません。