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老兵の半生(ビル沢湖)

昭和35年、私19歳、今から48年前
地元に水道が引かれるとの事で、街中の主要道路の端を、大勢の
人たちが、(つるはし)と(スコップ)を使って掘っていました。
自宅前も、毎日毎日その人たちで、少しづつ距離を
伸ばしていました。
その中に私と同世代の背の高い痩せ型の、ちょっと男前の
彼がいました。水を飲ましてくださいと言われたのが、きっかけで
話をするようになり色々話しているうちに、彼は南高(現在の長井
高校)を卒業し役所の水道課に、就職して毎日水道埋設のため
道路堀をしているとの事でした。私は上京して挫折帰郷して
目的も探せず、いわゆる荒れた生活の毎日を過ごしていた
時期でした。
ある日、「今度の日曜日サイクリングに行こう」
「何処まで」「高畠のビル沢湖まで」
「無理、俺は体力も無いし右足に欠陥を持っているから」
「やってみなければ、解らないだろうゆっくり、時間をかければ
行けるよ。俺がサポートするから」強引に約束させられ
私にとっては、清水の舞台から飛び降りるような気持ちでした。
ビル沢湖の"手ごきボート"に寝そべって見た
そらの青さが、今でも鮮やかに思い出されます。
なぜそのとき彼は、強引に私を連れてってくれたのかは
解りませんが、努力もしないで、すぐあきらめる事は、
人間として最低の生き方だと、教えてくれたのかも知れません。
それほどその時の私は、無気力だったのかもしれません。
挑戦する事で、自分の可能性を引き出すことが出来る。
その後の私は何かが、開けてきたような思いで一杯でした。
この達成感がその後、おくればしながら高校入学することに
なった要因のひとつになったのでした。

彼には何十年もあっていないが、元気だろうか。

長井市経済再生戦略会議開催

  • 長井市経済再生戦略会議開催
11月4日 タスホテルにて平成20年度第一回、経済再生会議
が開催されました。50名の委員が内谷市長より委嘱され
「まちなか活性化構想」「観光マーケティング構想」
「工業振興構想」の3つのテーマー別部会をの中で
それぞれの部会別に、協議を進めました。
今後2回~3回の会議を持ちその結果を、参考に
市制方針の施策として市民全体に、知らしめるそうです。

秋田県教育庁・来校

11月4日 秋田県教育庁 主査 渡部 和朝氏並びに、
主任指導主事 有坂 俊吉氏が長井工業高校を訪れる。
私にも同席してほしいとの事で、同席してきました。
長井市の工業高校と地域企業群との、関わり方の実情を、
メデァ等の記事を、読んでの訪問との事ですが、
一学校、一行政のみの指針や思惑では、現代の高校教育は
なかなか難しい、局面を迎えているのかも知れません。
地域における教育の中では、普通の子供達を如何教育
して行くかが、最も大切な事柄かも知れません。
父兄や、受け入れ企業や、地域の人たちがこの少子化の
時代如何この貴重な子供達を、地域に定着させることが
出来るかで、地域活性化の今後が、
決まるような期がします。

老兵の半生(あんちゃ先生)

昭和32年、私中学三年生、就職先を決めるため悩んでいた
時代です。希望は地元に就職したい、しかしながら地元では
なかなか見つかりませんでした。
その上私には、右足に欠陥がありあったとしても、断られる
のが落ちでした。当時の担任の先生は23歳の若い体育の先生で
私達との年齢の差が七歳しか、違わない小柄な先生でした。
だれゆうとなく自然に「あんちゃ先生」と呼ばれていました。
今でもそうゆうと名前を言わなくても、当時の卒業生は
みんなわかります。
山形の時計屋に、就職面接に行くことになりましたが
父兄同伴が条件でした。
当時貧乏暇無しの父母は、決められた日は仕事を抜けることが
出来ず、私は困り果てていたのですが
「いさお、俺がついてってやる」と先生と一緒に山形に
面接に行ったのでした。面接の人から「お兄さんですか」と
言われたときは、一瞬そうだったらいいなぁーと思ったものです。
現在自社でも、高校卒の子供達を長年毎年採用しておりますが、
担任の先生が、後にも先にも顔を見せたことは、ありませんし
なおかつその子達の、父兄の挨拶も受けたこともありません。
結局私は、卒業後上京したわけですが。
私にとって、この先生はいつまでも「あんちゃん」今でも何年かに
一度交流を深めています。

最近あっていないのですが、そのうち同級会でもやって
先生を呼んでみよう。

老兵の半生(背中)

昭和23年、私小学校2年生一年間右足治療のため、小学校を
全休したため、落第し一年下の学年で2年生の仲間入り
未だ完全に治癒したわけでもないので、松葉杖の助けを
借りないと歩行困難な状態でした。
早生まれのせいかあまり、級友との年齢による違和感は
無かったです。
その頃一番の楽しみが、映画鑑賞でした。長井小学校から
隊列を組んで、駅前にある「菊水館」まで距離にして約2k弱
ありました。担任の先生は白鷹町より嫁いで着たばかりの
若い女の先生でふっくらとした美人でした。
玉虫色の道行きを羽織った着物姿で、もんぺを履いた姿は
優しさも加えて、学年の先生がたのうちでも、子供達には
人気ばっぐんでした。
映画鑑賞の日校門の前で、しゃがんで私に背をむけ「負んぶして
行こう」「・・・・・」私はもじもじしていると、「早く」
と声をかけられ、先生の背中に負んぶして「菊水館」までの
往復の道のりを、先生の背中のぬくもりを感じながらの
ひと時を過ごしました。
先生のうなじに、光る一筋の汗を今も鮮明に記憶してます。
今教育機関の中で、様々な不祥事が報道されていますが
「我伝引水」自分だけ楽しよう、自分の利益優先が闊歩する
風潮の中、この先生のような人が沢山いれば、子供達
にも、もっと素敵な人の心を大切にする考え方を、教え込んで
いける様な気がします。

先生は今もご健在で、ご活躍なさっています。