上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市
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直江兼続公、上杉鷹山公が栽培を奨励されたことで今も米沢市内のいたる所で目にする「うこぎの垣根」ですが、その葉を食べることが出来るのは今だけです。柔らかい新芽の部分を「お浸し」「切りあえ」「天ぷら」「うこぎごはん」等にしていただきます。ビタミン、ミネラル、そして抗酸化物質が豊富に含まれていることから近年注目を集めています。

「うこぎ」は5月下旬頃になると新芽を沢山出し始めます。


食べることが出来るのは柔らかい「新芽」の部分だけです。


大きな葉はゆでても固さが残るので調理しても美味しくありません。


うこぎを収穫する時はくれぐれも鋭いトゲにご注意下さい。

うこぎのことは下記のリンクからどうぞ♪上杉時代館おススメのお店です。

元祖うこぎ屋 - うこぎ苗木・うこぎ茶販売


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
伝国(でんこく)の杜は、山形県と米沢市の合築施設として平成13年9月29日に誕生した建物です。山形県の施設は「置賜文化ホール」で、空気浮上式の可動能舞台があるホールや大会議室を備えています。一方米沢市の施設は、米沢市立上杉博物館です。こちらには国宝「上杉本 洛中洛外図屏風」をはじめ約17,700点にものぼる歴史や文化にまつわる品々が収蔵されています。

山形県と米沢市の合築施設「伝国の杜」。


使用時以外はエントランスで展示公開されている空気浮上式可動能舞台。


「米沢天地人博」が開催された米沢市上杉博物館。


敷地西側にある「置賜の庭」の「かてもの園」では、米沢で食されたり薬用とされてきた植物を見ることが出来ます。


「置賜の庭」にあるこの「行屋(ぎょうや)」呼ばれる建物は、


成人の儀式の前に使われていました。


直江兼続公、上杉鷹山公が奨励した「うこぎの垣根」もここで見ることが出来ます。


伝国の杜 米沢市上杉博物館・置賜文化ホール     伝国の杜の地図   


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
上杉家が入部するまで米沢城の正門は北門でしたが、慶長6年(1601年)、米沢30万石減封により上杉景勝公が米沢城に入城すると直江兼続公は正門を東門に改修しました。本丸の入口には二階建ての大手門(大御門)が南向きに、更にその外側の二の丸には小御門が東向きに建てられました。現在伝国の杜のロータリーと駐車場になっている辺りが大手門があった場所です。
大手門の東側には上級家臣団(高家衆)の屋敷が建ち並んでいたことから当初は「主水(もんど)町」と呼ばれていましたが、後に門の東側の町ということで「門東町(もんとうまち)」に変更されました。現在もその名称が使用されています。

画像左側(南向き)に向かって二階建ての大手門がありました。


二の丸 〜 本丸大手門 へ通じた道が現存しています。


往古御城下絵図。現存する最古の米沢城下町絵図です。寛永17年(1640年)作。上杉家第17代当主上杉邦憲様より許可を得て掲載しております。


米沢城大手門跡の地図


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により上杉景勝公は越後から会津120万石に移封となり、同時に直江兼続公は領内の米沢30万石を拝領しました。米沢城主となった直江兼続公は当初現在松岬神社が建つ場所に屋敷を構えましたが、慶長6年(1601年)、徳川家康からの上杉家米沢30万石に減封により僅か3年で屋敷を移すことになりました。移転先となった場所は現在一般住宅地になっており当時を偲ばせる面影は何も残っておりません。

米沢市の案内表示板があるのみです。


直江兼続公時代に付けられた町名(旧町名)が今でもごく普通に用いられます。


昭和53年(1978年)米沢「旧町名を大切にする会」発行の地図を引用。(許可を得て掲載)


正確な境が不明なため●印で表示しています


直江兼続公屋敷跡の案内表示板の地図


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢城には本丸、二の丸、三の丸の堀がありましたが、明治6年(1873年)に城が取り壊されると二の丸、三の丸の堀は埋められてしまいました。辛うじて二の丸の堀の一部が上杉伯爵邸南側に残っています。三の丸の堀は当時のまま残っている所はありません。(一部河川となっています)

僅かに遺る米沢城の二の丸の堀。(画像右奥の水路)


幅と深さは2間3尺(3.6m〜4.1m)との記録がありますが、現在はかなり浅くなっています。


以前はもっと奥まで遺っていましたが近年更に少なくなりました。


米沢城跡 二の丸の堀の地図


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢藩中興の祖「上杉鷹山公」は、10歳の時に日向国(宮崎県)高鍋藩秋月家から上杉家の養子となられ17歳で家督を相続されました。その後35歳の若さで次代上杉治広公に家督をお譲りなられた鷹山公は、お住まいを米沢城本丸御殿から二の丸へと移されています。ご逝去される72歳まで藩政の改革にお力を注ぎながらお過ごしになられたお屋敷が餐霞館(さんかかん)です。

米沢城本丸の菱門橋を渡り二の丸にあった上杉鷹山公隠居所「餐霞館」。


訪れる人の姿もなくひっそりと静まり返っています。


なせばなる・・・米沢の子供達はその教えに触れながら育ちます。


餐霞館前の通りは、お忍びでお出かけの際通られた道で「お忍び小路」と呼ばれていました。


上杉鷹山公隠居所 餐霞館跡の地図


上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)