上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

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龍師火帝(りょうしかてい)の碑は、猿尾堰堀立川 の守り神として直江兼続公によって作られた石碑です。
「龍師」は水神、「火帝」は火の神のことで、水害と日照り干ばつからの守護を願い文字が刻まれています。高さ約1.6m、横幅約2.7m、厚さ約1.4m、推定重量10tにも及ぶこの安山岩の巨石は、かつてその存在こそ知られていたものの発見には至っていませんでしたが、河川工事の際に偶然川の中から発見され現在は平成の猿尾堰の側に置かれています。
長年に渡り水の流れにさらされていたため、石碑右側の「龍師火帝」の文字は辛うじて判読出来るものの、左側に書かれていたであろう碑文は残念ながら全く読み取りことが出来ません。











龍師火帝の碑の地図




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【八重の桜】 米沢にも暮らした八重


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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

川が史跡なの? と思われるかも知れませんが、実は直江兼続公が米沢に遺した一番大きな史跡が 堀 立 川(ほったてがわ) なのです。上杉時代館の記憶の中に「直江兼続公」の名前が刻まれたのもこの「堀立川」がきっかけで、それは小学校の授業の時にまでさかのぼります。

直江石堤(谷地河原堤防)蛇 堤(へびつつみ) を完成させ城下南部と東部の安全を確保した直江兼続公は、南部の広大な土地と西部の更なる開墾を目指しこの地域に新しい水路を通す計画を立てました。松川上流部の 猿 尾 堰(さるおぜき) で取水され2つの地域を通り城下北部で再び松川に戻る新しい水路は 堀立川(堀楯川) と名付けられました。人口的に掘って造った川ですが、「掘る」の「掘」ではなく「お堀」の「堀」の字が使われています。











松川(最上川)の水が猿尾堰で取水され堀立川として城下を流れます。


お堀の目的がない城下の外では川幅は広くありません。


三の丸の堀の代用 となる林泉寺手前から川幅が広くなります。


三の丸の堀の代用は 林泉寺から法泉寺(禅林寺)まで 続きました。


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昭和42年(1967年)8月28日から29日にかけての記録的な大雨は、米沢市内に大きな被害を及ぼしました。「羽越水害」と名付けられたこの水害以降、堀立川は全域に渡り護岸工事が施工され、掘削当時の面影はほとんど見られなくなってしまいました。
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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

直江石堤(谷地河原堤防)蛇 堤(へびつつみ) を完成させ城下南部と東部の安全を確保した直江兼続公は、南部の広大な土地と西部の更なる開墾を目指しこの地域に新しい水路を通す計画を立てました。松川上流部で取水し2つの地域を通り城下北部で再び松川に戻るこの水路は 堀立川(ほったてがわ) と名付けられ、取水口として建設されたのが 猿尾堰(さるおぜき) です。

取水口付近の地形は、東側を流れる松川から西に向かって高くなっていることから工事は困難を極め、堰に掛かる水圧で完成と破損の繰り返しでした。建設にあたった家臣の中には責任を感じ堰の前で切腹したという 切腹堰伝説 が伝わっています。(現在の堰から上流約200m)











現在の猿尾堰(さるおぜき)




付近に何か所も残る堰の跡。


猿尾堰の地図



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

慶長3年(1598年)、上杉家の会津120万石移封により上杉領となった頃の米沢は、城下を南から北に流れる松川(最上川)が度々氾濫を繰り返し、米沢城の東側には居住はもちろんのこと耕作も出来ない土地が広がっていました。慶長6年(1601年)、上杉家30万石減封により上杉景勝公が米沢に入部されると、直江兼続公はこの土地を活用するため 赤崩山 に登り「暴れ川 松川」を鎮める治水工事の計画を練ったと言われています。

直江兼続公が行った治水工事は、城下に向かって水があふれ出す地域に石積みの堤防を築いて水の浸入を防ぐというものでした。これにより約3kmに及ぶ大規模な 直江石堤(谷地河原堤防) とその下流域約8kmを守る 蛇 堤 が完成しています。(現存している蛇堤は約120mです)







蛇堤(現存部分)の地図



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

上杉景勝公が入部された頃の米沢は、城下を南から北に流れる松川(最上川)が度々氾濫を繰り返し、米沢城の東側には居住はもちろんのこと耕作も出来ない土地が広がっていました。そこで直江兼続公は、暴れ川「松川」を鎮めるため 赤 崩 山 (あかくずれやま)に登り治水工事の計画を立てたと言われています。

松川上流部の赤崩から谷地河原(やちがわら)にかけては、川底が浅い上にここから城下に向かって土地が下っているため、大雨の度にあふれ出し城下南部から東部にかけてを水浸しにしていました。慶長18年(1613年)に完成した石積みの堤防 直江石堤(谷地河原堤防) は、この浸水被害を無くし城下に新たな居住区と広大な農地をもたらしました。400年という年月を経ながらも直江石堤は今もなおその姿をしっかりと留めています。

松川の氾濫により浸水地域(イメージ図です)


松川と城下の間に造られた直江石堤。




雨に濡れ黒光りを見せる谷地河原堤防「直江石堤」


大きな石を中心に置き周りに小さな石を置いた「亀甲組み工法」


雑草の有り無しの違いは、砂が入っているかいないかの違いです。


熊が出没する地域です。くれぐれもご注意ください。


直江石堤(谷地河原堤防)の駐車場の地図



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

上杉景勝公が入部された頃の米沢は、城下を南から北に流れる松川(最上川)が度々氾濫を繰り返し、米沢城の東側には居住はもちろんのこと耕作も出来ない土地が広がっていました。そこで直江兼続公は、暴れ川「松川」を鎮めるためこの赤崩山 (あかくずれやま)に登り治水工事の計画を立てたと言われています。

尾根の先端部分にはかなり古い年代の板碑群がある他、伊達政宗公もこの場所に登っていたことが伝わっています。直江兼続公もその事実を知りこの山に登ったものと考えられています。

山そのものの高さはさほどではありません。


登山道が整備され登りやすくなりました。


山の頂からは、松川(最上川)とその下流部が一望出来ます。


尾根の先端部にある板碑群。風化により文字は読めません。


こちらは古くからの登山道。


途中に板碑となる石を切り出した跡が残されています。


何百年も前、ここに石を切り出した人がいたんですね。


熊が出没する地域です。くれぐれもご注意ください。


赤崩山の登山口の地図



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