上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市
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米沢市内南部にある山形県立米沢興譲館高等学校の敷地西側の畑に、かつてこの場所が米沢藩主の葬儀場であったことを示す案内板が建っていますが、史跡として見れるものは何一つとして遺されていません。

塩ビ製の旗竿・・・竹竿にでも変えられないのでしょうか?


米沢市の「大壇葬場跡」と題した案内板。


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設置されている案内板ですが、米沢市設置の物以外は知識の押し売り的な表現が多くとても一般人には理解出来ない内容となっています。また「上杉家葬礼場跡」、「大壇葬場跡」、「米沢藩主葬礼場跡」と3つも名称表示があり更に見る者の混乱を招いています。案内板たる物は知識を有する者の自己満足ではなく、誰にでも理解して頂けるように分かりやすく作るべきではないのでしょうか。特に何も遺されていない場合は尚更案内板の重要度が高まる訳で、その表現の在り方次第で話題が生きたり死んだりすることは明らかです。
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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)

洞昌寺(とうしょうじ)は、天文23年(1554年)に上杉景勝公(喜平次)と直江兼続公(与六)が幼少の頃共に学んだ 雲洞庵 の末寺として越後に創建されたお寺です。その後上杉家の会津120万石移封、米沢30万石減封に従い会津、米沢と移されましたが、米沢の地では城下から遥か遠く離れた山奥に再建されています。寺の更に山手には「白布温泉」があり、そこには直江兼続公の指示で幕府に隠れて秘かに火縄銃を製造するための 鍛造工場 が造られました。寺に武器武具を配備し防衛の拠点として位置づけていた直江兼続公は、藩の最重要機密である 火縄銃製造 という秘密を守るため、数ある寺の中から最も信頼の置ける「洞昌寺」を選び配置したものと思われます。

城下から遥か遠く離れた山奥に再建された米沢の「洞昌寺」。


藩の最重要機密を守るための拠点だった「洞昌寺」。



洞昌寺の地図     ※地図上に「 卍 」の標記はありません。



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
上杉家の領地替えとともに越後国の上越中越から多くの寺が米沢に移されていますが、千眼寺(せんがんじ)は下越の 岩船郡平林(新潟県村上市) から米沢に移された寺です。

平林城主を務めていた色部長真(いろべながざね)は、上杉謙信公の急逝後の上杉景勝公と上杉景虎の家督相続争い 御館の乱 が起きると、領内の揚北衆(あげきたしゅう)をまとめ上げいち早く上杉景勝公側に付きました。
その後上杉家会津120万石移封、米沢30万石減封では、上杉家の重臣となり家臣団の揚北衆を従えて金山(山形県南陽市)、窪田(山形県米沢市)に入り、上杉景勝公、直江兼続公の命を受け領地を接する山形の最上義光に睨みを効かせました。千眼寺は菩提寺として色部家と行動を共にし米沢に移されています。

山形の最上や高畠の屋代庄に対しての上杉の北の塞だった「千眼寺」。


「保呂羽堂(ほろはどう)」には、近郷の農民が虫害で困っていた時にお堂の縁の下の土を畑にまいたら虫がたちまちいなくなったという言い伝えが残されています。そのため今でも6月4日には「虫除けのお札」が出され、12月4日には収穫した米で餅をつき奉納されています。




千眼寺の地図



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
平成20年(2008年)から始まった 上杉治憲敬師効迎跡保存修理事業 は、昨年度で 羽黒神社 本殿の修復工事が完了し、今年度からはいよいよ 普門院 の工事が始まります。普門院の修復工事期間は羽黒神社の4年間より更に長く7年間にも及びます。如何に歴史建造物の修復作業が大変であるかが伺えます。

山形新聞 2008年(平成20年)8月27日(水曜日)紙面


年次計画表(米沢市文化課資料)


見事に美しく保存修理された羽黒神社の本殿。壮観です!


今年度から保存修理事業が始まる普門院 。


羽黒神社の地図     普門院の地図



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【大河ドラマ 八重の桜】 米沢にも暮らした八重


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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢の真福寺(しんぷくじ)は、直江兼続公に続き正室お船の方が亡くなった後、東源寺 が創建されるまでの間、直江家の家臣団「与板衆」が細々と法要を執り行った寺です。その経緯については当ブログ内の 直江兼続公夫妻墓所 - 権力に翻弄された墓 に記載しておりますのでそちらをご参照下さい。



真福寺は、 直江兼続公が造った防衛機能「寺町」 の東寺町にあります。

真福寺の地図



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