上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市

上杉時代館の「直江兼続公」講座(別館) - 山形県米沢市
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直江石堤(谷地河原堤防)蛇 堤(へびつつみ) を完成させ城下南部と東部の安全を確保した直江兼続公は、南部の広大な土地と西部の更なる開墾を目指しこの地域に新しい水路を通す計画を立てました。松川上流部で取水し2つの地域を通り城下北部で再び松川に戻るこの水路は 堀立川(ほったてがわ) と名付けられ、取水口として建設されたのが 猿尾堰(さるおぜき) です。

取水口付近の地形は、東側を流れる松川から西に向かって高くなっていることから工事は困難を極め、堰に掛かる水圧で完成と破損の繰り返しでした。建設にあたった家臣の中には責任を感じ堰の前で切腹したという 切腹堰伝説 が伝わっています。(現在の堰から上流約200m)











現在の猿尾堰(さるおぜき)




付近に何か所も残る堰の跡。


猿尾堰の地図



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【八重の桜】 米沢にも暮らした八重


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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
慶長3年(1598年)、上杉家の会津120万石移封により上杉領となった頃の米沢は、城下を南から北に流れる松川(最上川)が度々氾濫を繰り返し、米沢城の東側には居住はもちろんのこと耕作も出来ない土地が広がっていました。慶長6年(1601年)、上杉家30万石減封により上杉景勝公が米沢に入部されると、直江兼続公はこの土地を活用するため 赤崩山 に登り「暴れ川 松川」を鎮める治水工事の計画を練ったと言われています。

直江兼続公が行った治水工事は、城下に向かって水があふれ出す地域に石積みの堤防を築いて水の浸入を防ぐというものでした。これにより約3kmに及ぶ大規模な 直江石堤(谷地河原堤防) とその下流域約8kmを守る 蛇 堤 が完成しています。(現存している蛇堤は約120mです)







蛇堤(現存部分)の地図



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
上杉景勝公が入部された頃の米沢は、城下を南から北に流れる松川(最上川)が度々氾濫を繰り返し、米沢城の東側には居住はもちろんのこと耕作も出来ない土地が広がっていました。そこで直江兼続公は、暴れ川「松川」を鎮めるため 赤 崩 山 (あかくずれやま)に登り治水工事の計画を立てたと言われています。

松川上流部の赤崩から谷地河原(やちがわら)にかけては、川底が浅い上にここから城下に向かって土地が下っているため、大雨の度にあふれ出し城下南部から東部にかけてを水浸しにしていました。慶長18年(1613年)に完成した石積みの堤防 直江石堤(谷地河原堤防) は、この浸水被害を無くし城下に新たな居住区と広大な農地をもたらしました。400年という年月を経ながらも直江石堤は今もなおその姿をしっかりと留めています。

松川の氾濫により浸水地域(イメージ図です)


松川と城下の間に造られた直江石堤。




雨に濡れ黒光りを見せる谷地河原堤防「直江石堤」


大きな石を中心に置き周りに小さな石を置いた「亀甲組み工法」


雑草の有り無しの違いは、砂が入っているかいないかの違いです。


熊が出没する地域です。くれぐれもご注意ください。


直江石堤(谷地河原堤防)の駐車場の地図



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
上杉景勝公が入部された頃の米沢は、城下を南から北に流れる松川(最上川)が度々氾濫を繰り返し、米沢城の東側には居住はもちろんのこと耕作も出来ない土地が広がっていました。そこで直江兼続公は、暴れ川「松川」を鎮めるためこの赤崩山 (あかくずれやま)に登り治水工事の計画を立てたと言われています。

尾根の先端部分にはかなり古い年代の板碑群がある他、伊達政宗公もこの場所に登っていたことが伝わっています。直江兼続公もその事実を知りこの山に登ったものと考えられています。

山そのものの高さはさほどではありません。


登山道が整備され登りやすくなりました。


山の頂からは、松川(最上川)とその下流部が一望出来ます。


尾根の先端部にある板碑群。風化により文字は読めません。


こちらは古くからの登山道。


途中に板碑となる石を切り出した跡が残されています。


何百年も前、ここに石を切り出した人がいたんですね。


熊が出没する地域です。くれぐれもご注意ください。


赤崩山の登山口の地図



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上杉時代館の「直江兼続公」講座(本館)
米沢市内南部にある山形県立米沢興譲館高等学校の敷地西側の畑に、かつてこの場所が米沢藩主の葬儀場であったことを示す案内板が建っていますが、史跡として見れるものは何一つとして遺されていません。

塩ビ製の旗竿・・・竹竿にでも変えられないのでしょうか?


米沢市の「大壇葬場跡」と題した案内板。


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設置されている案内板ですが、米沢市設置の物以外は知識の押し売り的な表現が多くとても一般人には理解出来ない内容となっています。また「上杉家葬礼場跡」、「大壇葬場跡」、「米沢藩主葬礼場跡」と3つも名称表示があり更に見る者の混乱を招いています。案内板たる物は知識を有する者の自己満足ではなく、誰にでも理解して頂けるように分かりやすく作るべきではないのでしょうか。特に何も遺されていない場合は尚更案内板の重要度が高まる訳で、その表現の在り方次第で話題が生きたり死んだりすることは明らかです。
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【八重の桜】 米沢にも暮らした八重


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