草木塔の郷 DENTAKUJI なあまず日記
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(91)『センセイの書斎』
内澤旬子:文・イラスト(幻戯書房 2006年)
〈イラストルポ「本」のある仕事場〉と、サブタイトルがついている。
書斎とは、〔個人の家で〕読書・研究・執筆をするための部屋、とある。
家に書斎というのは、私にとって、ちょっとした憧れだ。
しかし、読書はしても、それは研究でもなく、まして執筆というようなことはそうそうすることでもなく、まぁ、寝っ転がって本を読み、何か書くときは炬燵兼食卓兼という、全面的に兼ねた座卓で真にあってしまう。
そうではなく、やはり、仕事として書を読み研究・思索し、執筆活動をしている、所謂「センセイ」はどんな書斎を持っているか、興味がある。
以前、『私の本棚』という本が面白かったのだが、書斎もね。
私に戻って、書斎を持てないならば、せめて、ミニ(私的)図書館(室)はできないだろうかと考えている。
もしできたら、「虚空蔵」と名づけようと思っていたら、玄侑宗久さんが自坊に素晴らしい書庫を造っておられてましたね^^;
2011.05.04:
あら
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(90)『スローワーク、はじめました。』
谷田俊太郎:文、宮沢 豪:写真(主婦と生活社 2005年)
自分のペースで、好きなシゴト
毎日、毎日、いやいやながら仕事をしていないか?
お金は必要だけど、空虚感はないか?
何のためにあくせく生きているんだろうか?
そんなことを感じたら、ちょっとのぞいてみましょう。
「こういう生き方もあるのかもしれない」という生き方をしている人々を紹介している。
それも、「人生の楽園」的な、熟年の方々ではない、若い世代にその思いをカタチにした人たちだ。
〈自分の店を持つ〉 〈好きな仕事でフリーランス〉 〈新しいシゴト、新しいスタイル〉 〈年収300万円時代のスローワーク〉
どちらかといえば、これに近い生き方をしているワタシではありますが、果たして長続きできるかどうかというというのが気になります。
この本に登場した方々の、今を知りたいと感じる。
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2011.04.30:
あら
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(89)『杉浦日向子の 食・道・楽』
杉浦日向子、鈴木雅也:写真(新潮文庫 平成22年)
著者は平成17年に46歳で亡くなった漫画家・エッセイストの杉浦日向子。
テレビで観る、和服を着て江戸を語る姿が懐かしい。
この本の写真を撮った鈴木雅也は実の兄で、「妹としての杉浦日向子」という文を寄せている。
江戸の粋を愛し、実際に彼女は、町を歩き、街中の蕎麦屋にふらりと立ち寄り、お酒を愉しみ蕎麦をたぐる。また、風呂屋(銭湯)をみつけると、やはり寄らずにはおれず、ひと風呂浴びて、またそぞろ歩く、ということを喜びとしていたようである。
それでいながら、一本芯が通った美しさを感じさせる雰囲気がある。
愉しむことにおい、じつにある意味ではストイックさを感じるほど、粋であることにこだわりがあったのかもしれいないと感じる。
また、兄の文章を読んでいると、江戸(東京)で生まれ育った環境も、半分ぐらい関係があるのかもしれないとも感じる。
「ほろ酔い気分」という文章がある。
・・・ひとは気持ちよく酔うために呑む。ちっとも酔わないほどなら呑まない方がいい。その酔いかたが、おのおの切実な問題だ…
・・・基本は、ちゃんと食べながら呑む。ちゃんと食べられなかったら、呑むのをやめる。とにかく食べなくちゃ、駄目だ。
・・・「呑むなら食え、食わぬなら呑むな」・・・
そうだ、そうだ、同感である。
私的に、このことばを頼みにする。
でも、「呑めぬほど、食うな」と言われるかもしれぬ。
ほどほどに、お酒も食べることも楽しみ、乱れないうちにさっと余韻を残して帰ろうではないか・・・?!
2011.04.23:
あら
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(88)『ねずみとくじら』
ウイリアム・スタイグ、せた ていじ:訳(評論社 2004年)
絵本。
ねずみとくじらが海で出合い、心を通わせ合うという、ありえないようなお話なのだけれど^^
海辺が大好きな ねずみのエーモスは海と海の向こうのことを想像し、船を作り航海術を学んで、大海原に出ます。
そして、ふとした事故からであったクジラのボーリスと出会い助けられる。
そこで心を通わせた二人(二匹?!)は別れ、やがて歳月を経て再び巡り合う…。
2011.04.19:
あら
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(87)『読めば読むほど。』
子どもたちを〈本好き〉にする本
永六輔、永千絵、永麻理(くもん出版 2001)
永六輔さんとその娘さん2人。
家族で一番読書しているのは奥さんの昌子さんとか。
※引用
「見返りを求めない読書
・・・子どもが、知識を獲得するために本を読む、。国語の勉強のために本を読む。こういう読書も、当然あるでしょう。
しかし、、読書がすべて、何かしらの見返りを求めて行われるとしたら、とても残念です。とくに子どもの読書は、目先の「成長」や「成績」といったものが目的で、おこなわれてはならないと思います。
子どもたちには、まず、読書そのものを、充分に楽しんでもらいたい。
そのためには、ぼくたち大人が、そのつもりにならなくてはいけません。
その人が、ふっと気になったこと、あるいは、好奇心がわいてきたことを、とりあえず読んでおく。すると、何かの拍子に、かつてその本を読んだことが、まるで宝くじが当たったように、「読んでおいてよかった」という形で、その人に返ってくるんだろうと思います。そっれは、見返りとは別の喜びです。・・・
永家には、壁の書棚が本で埋まっている、というより、本の中に暮らしているというほど、本でいっぱい。
永さん夫妻が、どうやって子どもたちに本を読むのを好きになるようにしていったのか、それを娘さんたちはどう受け止めていたのか、双方向からの考察が興味深い。
2011.04.15:
あら
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(86)『こころ医者講座』
なだいなだ(ちくま文庫 2009年)
≪こころ医者≫とは
「病気を治して問題を解決しようとするのが精神科医で、話を聞いて本人の[こころ]を成長させて自分自身で問題を解決させようとするのが≪こころ医者≫です
とあります。
2011.04.12:
あら
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(85)『随筆 本が崩れる』
草森紳一(文春新書 2005年)
著者の住むマンションの部屋は、本が占拠している。
主は書物のように、本棚などというものはすでにいっぱいになり、廊下であろうとリビングであろうとお風呂であろうと、床があればそこには、本の置き場になる。
その写真もなかなかすごい。
さて、地震が起きて、崩れるほどの揺れだったら、本は凶器にもなりうる。
この度の地震の際、お陰さまでわが家はお寺の方と居住スペースも被害がなくて助かった。
やれやれと思って、二階にある部屋に行くと、そこだけ大地震がきたように、本や雑誌や書類が床に散乱していた。
いやはや、ガラス扉がついている本棚からも飛び出していた。
ひゃぁ、これは部屋にいたら怖かっただろうなぁ。
しばし眺めて、一旦部屋から出て、やや時間をおいて、とりあえずそれらを片づけた。
落ちて散乱しただけで、なにも壊れていなかったから助かった。
震度5強の揺れだと、この部屋の本は落ちる。
高いところの本や書類は整理して片づけることにする。
2011.04.08:
あら
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(84)『人生激場』
三浦しをん (新潮文庫 2006年)
作家の身辺のことを綴ったエッセイなのでありますが、これが、かなり妄想の世界に引き込まれたり、等身大の女性(連載当時は20代後半)の話に戻されたりするのがここちよかったりします。
そう、このエッセイを書いているのは20代後半としても、おやっじっぽい正義感とか人情のような機微も感じられる。
あとがきに著者が「微妙な刺激物」という表現をしている。
(引用)
幸せになりたいとも、幸せだとも思わないまま、しかし幸せとはなんだろうと考えることだけはやめられない。町で見かけた楽しい出来事や、ちょっと変わった人などを、「微妙な刺激物一覧表」に書き加え続けている。もしかして、幸せの傍観者であることが、私の幸せなのか。それってちょっとま哀しすぎやしないか。
エッセイにはこの微妙な刺激物で満ちている。
そうして、著者の妄想はふくらんでゆくようであるし、ある意味では彼女自身も「微妙な…」の一人ではないかとも思える。
2011.04.05:
あら
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(83)『生きる』わたしたちの思い
谷川俊太郎 with friends(角川SSC 2008年)
「mixi」の谷川俊太郎さんのコミュニティから、『生きる』という詩のコミュニティが立ち、そこからウェブ上で続々と生まれてきた言葉(詩)が一冊の本になったもの。
谷川さんの『生きる』から、みんなそれぞれの「生きる」。
声に出して読んでみた。
2011.04.01:
あら
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(82)『ハモニカ文庫』
山川直人(芳文社)
「物語の主人公は、あなたです。」というキャプションがついております。
どこにでもある平凡な町を舞台に、おもわずホッとするような温かい物語のコミックスです。
学生時代に住んでいた町を思い出しました。
2011.03.27:
あら
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(81)変見自在 『サダム・フセインは偉かった』
�盪垣鞠掘�著(新潮文庫)
週刊新潮に連載中の人気コラム「変見自在」のコラム集。
かなり、辛口である。
表題の「サダム・フセインは…」を見ただけでも、その切り口が想像できそう。
新聞社系の週刊誌にはとても書けまいと思う。
文庫の帯に「正義ほど怪しいものはない」と書いてある。
正義を振りかざすものほど疑ってかかれ、その裏にはきっと良からぬ魂胆があるんだから…。
辛口のコラムといえば、山本夏彦がいた。
テレビという巨大なジャーナリズムで流す正義は、「茶の間の正義」と呼び眉唾ものとした。平和な世の中で語られる平和論を一蹴していた。
「変見自在」では、アメリカという超大国が振りかざす正義、新聞が自国(日本)に向けた自虐的と思われる正義、大学教授という権威を纏った正義…。
まやかしの正義を一刀両断にするのだから小気味良い。
解説によると、良いコラムとは、「面白い、ためになる、真実を衝く。わかりやすく、リズムよく、かいつまんで言う。」というもので、このコラムはまさに六つの要件を満たしている、と。
なるほど、その通りで、一気に読んでしまった。
ただし、著者は、ジャーナリズムの見方は、歴史やその背景にあるもの、誰がそのことによって得をして、そのことがどこに影響するのか、とうようなことをよく見詰めよと言っているに違いない。
そういう意味では、このコラムもちょっと斜に構えて受け止めなきゃいけないんだろうなぁ。
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2011.03.23:
あら
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(80)『虫眼とアニ眼』
養老孟司、宮崎駿(新潮文庫)
二人の対談の中で、学校の校庭はあんなに平(たいら)じゃなくて、デコボコしているようなのがいい、とか、運動会にはブルドーザーで山を作ったりしてみたらいいんじゃないかと考えていた、というようなくだりがある。
ふんふんなるほど、などと思いながら、ちょっとう〜んなどと感じた。
なぜなら、子どもの頃を思い出してみると、学校のグラウンドが近くで唯一平らな場所であったからだ。
周囲には、山や川や田んぼや畑や、そんな所ばかりなので、グラウンドぐらいは平らな方がいいなぁ…と^^;
わが家の前のお寺の境内はちょっとした広い遊び場であったのだが、障害物がいっぱい。
それなりにその地形を生かして野球をやったり、数えきれないほどの遊びが生み出されていた。
稲刈り後の田んぼが野球場になったり、猫明神と呼ばれる石ころだらけの荒地をグランドにして遊び回っていた。
小学生の頃というのは、友達や年上年下を問わず、遊びが全てではなかったか。
それから、一人でする好きなこともあったに違いない。
魚とりや虫とりであり、本を読むことであり、妄想することであり…。
それかもう一つ。
いま、なぜ学校では人間関係のことばかり気にするようになったのだろうか、ということ。
人との関わりは大事なことに違いない。
しかし、そのことばかりに拘りすぎると、何かが失われてはいないか。
小学校時代の先生のことを思い出してみる。
みんな、いい先生であった。
亡くなられた方もいらっしゃるし、今でもなおお付き合いがあり、お酒を酌み交わす先生もいらっしゃる。
先生と私たち子どもの関係ってどうだったんだろうと思う。
あの先生が素晴らしくよかったとか嫌だったなんてことはなにもないのだなぁ。
不躾を承知で言えば、どんな先生であっても、大丈夫だったように思う。
この二人の対談とそれぞれの文章を読んでいるうちに、子どもの頃、わが家の裏山に秘密基地を作ろうとしていたことを思い出した。
そうだそうだ、その延長が、「裏山の整備」と名付けた遊びなのだ。
もちろん、秘密ではなくなったんだけどね。
2011.03.18:
あら
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(79)『とっておきのいい話』
ニッポン・ジョーク集(文藝春秋:編)
不謹慎と思われる向きもあろうかと思いますが、ワタクシ、思いのほか小心者であるようで、この数日、なかなか寝つくことができません。
それで、何を読もうかと本棚を見たら、これがよろしいようです。
日本のジョークはあまり面白くないと言われるようですが、これでなかなか。
日本の著名人、およそ200人がとっておきのジョークを披露しております。
外国のものを紹介しているのもありますが、エロチックなもの他愛無いもの、シニカルな話し、いろいろあって、ようやく眠れるのでありました。
2011.03.15:
あら
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(78)『品格なくして地域なし』
関川夏央、日下公人、奥本大三郎、森まゆみ、津野海太郎:著(晶文社 1996年)
帯に、まちおこし「ブーム」は終わった。と、書いてあります。
1996年は今から15年前のこと、すでにバブルがはじけてしまったあと。
リゾート開発は止まり、行政で箱モノを立てて地域文化の拠点に、というような時代は終焉していた。
さて、次なる地域づくりは、という模索の時代であったのだろうと、振り返って思い出している。
当時、社会教育とか地域づくりというような現場で、方向性が変わっていった。
簡単に言えば、ハードからソフトへ^^;
こんな単純なことでは言い尽くせはしないけれど、大まかに言えばそう違ってはいないだろうと思う。
そして、都会の真似ごとよりも、地域を見つめ直して、本当にその地方に培われてきたものをリスペクトする、という方法を考え出していたころだったろうと思う。
この著書は、すでに優れた地域文化を発信していた地方の街を訪れて訪れ、リポートし、また検討と研究をしようという試みだったろうと思う。
私も、地域活動の手がかりにと、読んだものと記憶している
2011.03.08:
あら
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(77)『わたしの普段着』
吉村 昭:著(新潮文庫)
エッセイ集
「日々を暮らす」「筆を執る」「人と触れ合う」「旅に遊ぶ」「時を経る」
五つの構成でおおまかに分けられている、58篇のエッセイ集。
物腰はやわらかく、しかし一本筋のとおった感がある人柄を感じさせられる文。
ほどよいユーモアと、気負わぬ言葉に、どんどんと読み進んだ。
戦中・戦後の時期、肺結核の末期状態になりながら、肋骨の一部を切るという賭けのような手術によって、死を覚悟した状態から回復したことを思えば、なんという幸せなことか…。
こうした経験が、このエッセイを通して吉村の生き方に投影されているのだろうと思う。
「大安、仏滅」「不釣り合いなコーナー」「変人」「一人で歩く」「床屋さん」などが面白い。
著者は取材のために、国内外そうとうな回数と時間を旅している。
その中で、「雲井龍雄と解剖のこと」というエッセイで、取材のため米沢を訪ねた由、記してあった。
2011.03.05:
あら
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