長井市中央地区公民館

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 青苧(あおそ)はイラクサ科の多年草で、茎から皮をはぎ取り蒸して
晒して繊維にする。上杉藩では江戸時代始めから生産され、「からむし」
とも呼ばれて重要な生産物であった。
 これらの青苧繊維は秋に収穫して麻糸にし束ねて一時青苧蔵に収められ、
奈良や小千谷に輸出され晒し(さらし)や縮(ちぢみ)の原料となった。
 青苧繊維を収める宮の青苧蔵御門は寛文3年(1663年)に建てられた。
青苧御蔵の正門が青苧蔵御門で、屋根は昔木羽葺で、厚さが17cmもあり、
重厚な感じのするもんで長井では中世に作られた数少ない門の1つである。

平成2年度設置。平成28年度修復。





 宮市の始まりは、總宮神社の祭りであった旧暦の9月18・19・20日から
約1か月開かれた明神市であろう。それは大永年間(1521)のころだった。
産業が発達し分業が進んだ万治元年(1658)に、新町を開いた井上小左衛門
が、小出市から3日分の市場開設の権利を分けてもらって、月に3日、新町・
十日町・河原町で宮市を定期的に開くようになった。
 文久2年(1862)に十日町の長沼惣右衛門が世話役になって宮市の繁盛を
願い、市神を今の安部印房店前に立てた。明治になって道路を拡張するとき
現在の白山神社に移された。

平成元年度設置。平成27年度修復。





 創建年月不詳。古来加賀の白山権現を勧請し白山宮として鎮座。
同じ境内にあった白山寺(明治3年廃寺)が別当寺であった。明治初年
の神仏分離に際し、白山神社と改め宮村一村の鎮守とした。明治6年
宮村大火で類焼した後、土蔵造りの本殿に再建した。昭和6年3月不審
火により社殿焼失、氏子の寄付によって9月に再建したのが現社殿で、
棟梁は黒坂秀吉であった例祭には十日町子供会の獅子舞が行われる。

昭和61年度設置。平成5年度再設置。平成29年度修復予定。




 当山の開基は古く平安時代の寛仁元年(1017)の開山と伝えられ、
始めは法相宗であった。
天保14年遍照寺34世諦真(たいしん)和尚が再建し、現在の堂宇は平成
元年に住職 神尾昭臣が新築したものである。
 本尊は大日如来。他に菅谷不動尊分霊・境内に弁才天尊・子育地蔵
尊がまつられている。
 年中行事のうち、4月28日お不動様のお護摩、昔から目の神様として
信仰を集めている。7月末、弁天様の祭礼は子供会が中心になって行わ
れている。

昭和63年度設置。平成15年度一部内容の変更。





 橋の形がT字形で、鐘を鳴らす撞木に似ていたので撞木橋と呼ばれた。
昔ここで2本の川がY字形に合流し、横50m、縦17mの大きさの橋だった
という。
 今の橋は昭和6年(1931年)に架けかえられたが、橋の欄干の常夜燈は
太平洋戦争中に供出された。昭和59年(1984年)長井市制30周年を記念し
て再び安らぎの灯をともし旧状を復元するため、県と市と町の人々の善意
と奉仕によって昔の形のままの常夜燈が設置された。
 また、西にある名刹摂取院は信仰と学問の中心で、寺子屋修身館(1853年)
があった。近くの常楽院に隠居した名僧宥日上人が袈裟を枝に架けた松も
この橋の北たもとにあった。

平成6年度設置。平成28年度修復。





 恵日山常楽院は始め御影堂(みえいどう)と呼ばれ、遍照寺中興開山
宥日上人が隠居(閑居)されたところであった。上人はこの寺で時を過
ごされるうち、77才の正月13日(文政4年)その行方がわからなくなった。
その時この井戸の端に履物が脱ぎそろえられてあったため、さてわと井
戸替えをしてみたが、出てきたものは古い石塔一つだけだったので、こ
の石塔を井戸のほとりに建て置き上人の形見としてあがめまつった。の
ちに御影堂を建立してその仏壇に安置したと伝えられている。
 上人は不思議な霊力を具え、ことに火伏せの霊力が著しかったとされ
るため、ご命日には近郷近在からこの井戸の水を汲みに来る者群をなし
たといい、今もなおお水取りに来る人が跡を絶たないという。

昭和59年度設置。平成17年度修復。