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長井古写真物語 98 株式会社 第百廿五銀行支店

  • 長井古写真物語 98 株式会社 第百廿五銀行支店

古写真から情報を読み取ります。長井の昔を楽しんでください。「長井市文教の杜」に保管している古写真のコレクションを紹介します。

 

 

この写真も前回に続く、大正3年発行の「新装の長井」グラビアから写し取ったものなので、見にくい点はご容赦願いたい。「新装の長井」は大正3年11月3日、長井駅開業・鉄道開通・電気通電を記念して、民間で作られた町勢要覧。その中に多くの当時の情報が詰め込まれている。

株式会社 第百廿五銀行の前身は、明治11年12月19日から明治30年8月まで開設された株式会社 第百廿五国立銀行で米沢に。その後明治30年8月11日に株式会社 第百廿五銀行となり、昭和2年4月11日まであった。その年に買収される。長井支店の開設年、閉設年は不明だが、本町の郵便局北にあった。大正3年当時の支店長は石口寅之助。

2015.02.18:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 97 株式会社 長井銀行

  • 長井古写真物語 97 株式会社 長井銀行

古写真から情報を読み取ります。長井の昔を楽しんでください。「長井市文教の杜」に保管している古写真のコレクションを紹介します。

 

       明治41年の絵葉書

 

株式会社長井銀行は明治30年10月27日、長井町小出2458番地に資本金6万円で設立された。前身として明治24年3月に共(芝)興会がある。()書きはどちらか確認できていないため。明治37年11月にあら町(現越後屋呉服店北)に移転する。下記の写真は、大正3年に発行された「新装の長井」のグラビアに掲載されたもの。ちょっと見にくいがお許しいただきたい。大正3年当時の頭取は横山孫助。長井銀行は昭和8年8月11日に羽陽銀行に買収され、姿を消した。

 

 

       新装の長井のグラビアページ

2015.02.16:n-old:[歴史的建造物]

長井古写真物語 96 最初の郡会議事堂

  • 長井古写真物語 96 最初の郡会議事堂

古写真から情報を読み取ります。長井の昔を楽しんでください。「長井市文教の杜」に保管している古写真のコレクションを紹介します。

 

旧郡会議事堂のことは、旧郡役所とも幾度もでてきたが、旧郡会議事堂ができる前の「初代郡会議事堂」のことは、あまりわからなかった。写真も見つかっていなかった。

大正3年に発行された「町勢要覧」のグラビアに「置賜織物同業組合事務所」として掲載されていた写真があった。洋館である。そして、同じ町勢要覧に地図(略図)がついているが、現在の文教の杜のところに、「織物事務所・郡役所・郡会議事堂」の表示がある。

この地図の「織物事務所」こそ「置賜織物同業組合」の事務所ではないか、と考えた。これまで謎だった初代郡会議事堂がわかるかもしれない。要覧のグラビアの置賜織物同業組合事務所の写真には、これまで見たことのない洋館が写っていた。

 

  要覧のグラビアページ

 

もしこれが初代郡会議事堂であるならば、長井市史によれば6間・10間の洋館。人の背丈から見ると、サイズ的には合致している。郡役所は15間・4.5間。郡役所は東側から見ると横長だが、初代郡会議事堂は縦長ということになる。

町勢要覧は「立原和愛・加藤数馬」が発行、大正3年というと長井駅が開業した年で記念に作られたものだ。その中に添付されている地図を下に示す。

 

    宮地区の部分図

 

現在の文教の杜部分拡大図。今は郡役所しか残っていない

 

当時は、洋館が3棟並んで建ってたのだろう。全景写真も残っている。

 

 

北側手前が郡会議事堂、真ん中が郡役所、そしてその南に初代郡会議事堂(屋根の部分が写っている)。堂々とした風景だったにちがいない。それぞれの写真は以下のとおり。初代郡会議事堂は、以下の資料から推定したもの。

         新郡会議事堂   

 

                西置賜郡役所

 

  上記写真の左部のアップ。下記写真の北面が写っている

 

      置賜織物同業組合事務所:初代郡会議事堂

 

このように、洋館が3棟並んでいた。初代の郡会議事堂のバルコニーには屋根がかかり、窓は郡役所と同じ上げ下げ式。

この3棟に関することが長井市史に載っている。抜粋して下記に記す。

 

■西置賜郡役所 明治11年11月に落成 12月1日に開業式 

            勧進代獅子踊・河原沢村神楽

            明治11年11月23日~29日 一般観覧許す 

 

■郡会議事堂(初代)に附属する土蔵 建築落成 明治17年度 

■議場建築(初代)  明治20年度 梁間六間、桁間十間、二階造西洋風の造作。予算千円

■新郡会議事堂建築案まとまる 明治44年 特別会計で  

 初代議事堂の売却金も充てる

 議事堂建設設計費として150円 

 議事堂新築 

 

 

その時の建議書は下記のとおりだ。

 

  建議書

一、  明治四十四年度に於いて西置賜郡会議事堂を改築せらん事を望む

理由  

本郡会議事堂は建設以来、年所を経て大に腐朽頽廃(たいはい)の状を呈せるのみならず、旧式の建築なるを以って、其の設計宜(よろ)しきを得ず、実際の不便甚だ少なしとせず。且(か)つ堂狭隘にして、多数の公会に適せざるの憾(うらみ)あり。

随(したがっ)て郡会益に至大の関係ある教育、勧業等、各種の品評会、展覧会等を開催する場合の如き、之を利用するの便益を得ること能(あた)わず。其の結果、郡事業の発展を沮碍(そがい)するに至るなきことを保せず。

今や社会の趨勢は、益々之に応ずべき相当施設を為する最も緊要なるを認むるに依り、明治四十四年度に於いて、郡有苗圃地を該敷地に充用し、以上の欠陥を補うにるべき、相当設計の下に、比較的完全なる議事堂を建築せられん事を望む。

即ち当局者は速かに郡会議事堂建築に要する具体的成案を作り、其予算を郡会に附議せられ度(た)し。而(しか)して其経費支弁の方法は、之を特別会計となし、郡蓄積金及び中学校設備積立金を、其歳入に繰入れ、以て郡財政の調和を得せしむることとし、之が工事は、年度開始と共に成る可(べ)く速やかに着手して、本年冬期前に竣工を告げしめ度く、又、在来の議事堂は、改築予算の成立と同時に、随時契約を以て、郡公益に関係ある置賜織物同業組合へ、相当価格にて、特売するの提案を発せられんことを望む。

右郡会の決議に依り、建議候也

明治四十四年二月八日     西置賜郡会議長  菅 四郎兵衛

   西置賜郡長  武石速水 殿

 

建議書は直ちに採択され、新郡会議事堂は明治44年10月に完成した。

 

■置賜紬織物同業組合のこと

西置賜郡紬織物同業組合 認可 明治35年12月  設立総会は明治36年6月2日郡会議事堂で 

置賜織物同業組合に改名  明治43年4月  

置賜織物同業組合終わる 企業整備令により 昭和16年12月

西置賜郡立図書館・物産陳列館 大正4年11月12日に開館 

現在の中村循環器科医院あたりに。郡制廃止後、置賜織物同業組合の事務所に。戦後中央会館の建物に

郡区町村編成法は明治11年7月22日

 

■長井紬(本場米琉)の歴史 川村吉弥 著 発行:昭和50年8月31日

織物組合事務所のところを抜出し、そのまま記述する。

 

 組合事務所

置賜織物同業組合が初めてつくられたのは、明治36年9月のことであるが、創設当時の事務所は当然のことながら間借りの借家住まいだった。その場所は長井市小出本町で、森旅館すなわちいまの末広の向かいであった。つまり今の竹田市太郎さんの場所に当たる。

 次には同じ本町で故佐藤門右衛門さんの店先を借りて移った。もとの郵便局今の山形殖産相互銀行の向かいの家だ。今はオリエンタル電器店というようだ。

 そこも移らなければならなくなったので、今度は長井町役場といっても今は小野医院の向かいの小松安兵エさんの家に引っ越した。これで三度変わったわけだが、今度は相当長くおられる所というので宮境町(栄町)446番地大木周益医院を貸してもらって移った。それは明治43年1月1日のことだ。今は置賜石油のスタンドに変わったけれど。

 ところが、明治44年に郡役所の南にならんでいた郡会議事堂が、北側に新築されて不要になったので払下げられることになった。組合としては自分の事務所を必要としていたし、事務量も多くなったし、染色試験室や標本室も必要になっていたから、どうしてもこれを組合事務所として買受けたいのであった。さいわい組合も基礎もようやく固まっていたので、これの払下げを受けて移った。組合の機関雑誌置賜染色界の第三巻第一号(明治44年9月)の表紙裏に次のような公告を出した。

今般本組合事務所用として長井町大字宮千百二十二番地に建設しある旧西置賜郡会議事堂を譲受け本年六月一日より同所に移転して組合事務所を取扱う。追て目下起工中の庁舎内部の模様替並付属建物増築工事竣工の上は、事務所階上に工芸品陳列場を常設して公衆の縦覧に供す可(べ)し。

ここに移ってから組合の事務は極めて円滑にまた活発に行われた。この建物(初代郡会議事堂)は大正12年にまた移転したので大友惣八の世話で荒砥繭市場の建物に買い取られていった。

 

 

 

概観すると、初代郡会議事堂は、明治20年度に郡役所南側に新築されたが、老朽化のため明治44年、郡役所北側に二代目として新築された。初代郡会議事堂は同年に置賜織物同業組合に売却、その6月には事務所として入居している。庁舎内部の模様替えと増築を行っている。郡制廃止の大正12年に同業組合は現在の中村循環器科医院あたりにあった「西置賜郡立図書館・物産陳列館」に移る。それまで同組合事務所として使用していた初代郡会議事堂は荒砥繭市場の建物に買い取られ、長井からその姿を消した。初代郡会議事堂があった場所に長井税務署が新築された。その年は昭和4年3月10日のことである。

威風堂々としたこれらの洋館、長井に電気が通ずる大正3年までは相当暗かったに違いない。初代郡会議事堂では多くの催しが行われたが、暗くて困ったことが長井市史に載っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2015.02.02:n-old:[歴史的建造物]

2014 フィルム講座 長井小学校編

  • 2014 フィルム講座 長井小学校編

このシリーズは、2014年に文化生涯学習課主催において講座開催時に紹介したもの。前出のものと重複するところがあるがご容赦願いたい。なお、その後判明したデータを追加した。

 

長井小学校は4回も建て替えらえことはご存じだろうか。明治5年10月、明治政府が学制を発布する。以降それぞれに校舎を持ち明治15年、宮と小出を統合した小学校と校舎が出来上がった。以来、昭和8年まで4回建てられている。その歴史を紹介しよう。

 

昭和8年に現在の場所に開校した第四期長井小学校校舎

建設当初は田んぼの中。樹木も少ない。

 

そして昭和8年、現在の場所に長井町立尋常高等小学校としてスタートする。「長井小学校」と改称されたのは昭和22年。当時現在の第一校舎と同じ木造校舎が3棟並んでいたが第2校舎が昭和45年に、第3校舎が昭和47年にコンクリート造に改築された。第一校舎は昭和60年から平成元年にかけて改修、外観や内装は当初からほとんど変わらず残っている。規模も大きく意匠も優れ、昭和初期の木造校舎はたいへん貴重だ。

それでは、時系列に紹介する。

 

 

明治5年  小出置賜県第五大区小二区学校を設け、小二区管内七カ村にそれぞれ区学校を設けた。宮村は旧あおそ御蔵に開設したとも伝えられる。小出村は明治7年、本町に校舎落成開業した

明治6年  宮村学校を統合し啓蒙学校と称した。現在の桑島記念館北側

明治7年1月  小出学校と称した

明治8年4月  宮村小出村の合併学校をを分離した

明治15年5月  宮・小出両学校を統合して、新しく校舎新築、平章小学校と称した

 

第一期校舎。明治43年の絵葉書。左奥が明治15年に建設された長井小学校校舎。右に写るは、私立盲学校

 

大正元年の地図。長井駅がまだない。現在の中村循環器科医院あたりに道路をまたいで、あった

 

明治20年  小学校令によって「長井尋常高等小学校」と改名

明治38年4月  実習補習学校が付設された。これまで5回増築

大正2年  東京鉄道局長井軽便鉄道の敷設が始まり、小学校の後ろ(西側へ)八十間の距離に長井駅が設けられることとなり、学校前面の県道の東に3400余坪を買い上げ、大正3年5月起工、翌4年5月に竣工、第二期の校舎ができた。3万8千余円の建設費。

 

第二期の校舎正面  奥に子供たちが写っている

 

 

大正3年以降の地図。長井小学校は、現在のココス付近に

 

大正4年5月  改築記念事業で校章を制定

大正6年5月23日  大火によって、第二期の校舎が焼失。応急措置として、遍照寺や織物同業組合等11か所で分散授業した。同所に一部新築。

大正7年~8年  建坪801坪、総経費8万1千円余で新築。第三期の校舎が完成。以降に木造二階建て96坪の教室を増築した

 

 

 

 

第三期の校舎 大正11年の写真

 

児童数の増加によって、校舎・グラウンド等の新設を余儀なくされる。そして、現在の場所に第四期の校舎を建設する。

昭和7年11月30日  敷地土盛工事

昭和7年12月26日  地鎮祭

昭和8年2月7日   入札。遠藤茂助と請負契約

昭和8年5月30日   校舎上棟式

昭和8年8月22日   校舎一棟竣工

昭和8年9月8日    校舎移転改築工事入札。青木儀蔵落札請負(第2校舎は大正8年のもので第三期分)

昭和9年6月30日  工事竣工

 

第四期。新築当時の絵葉書

 

昭和16年  国民学校と改名

昭和22年  長井小学校と改名

昭和32年5月3日  長井小学校PTAが慈愛の像を校庭に建立、除幕式を行う。新学制施行10周年を記念してPTAが寄贈。長沼孝三作

昭和37年8月2日  長井小学校にプール

昭和40年4月30日  体育館、アーチ型で竣工落成。総工費2638万8千円。1190㎡

 

 

 

昭和44年8月1日  第二校舎改築第1期工事。6350万円、飛島建設株式会社仙台支店、RC3階建て、1766㎡

昭和44年10月15日  宿直員制度を廃止

昭和45年12月31日  第二校舎改築工事第2期完成。5850万円、飛島建設株式会社仙台支店、1620㎡

昭和46年10月  第三校舎改築工事第1期着工。5300万円、竣工は昭和47年3月31日、主体工事は飛島建設株式会社仙台支店。

昭和46年10月  言語治療教室開設

昭和46年12月1日  第四校舎焼失。4年生が中央公民館で授業、47年7月まで。中央公民館は図書館に移動

昭和47年8月1日  第三校舎第二期工事着工、48年3月31日まで。主体工事は飛島建設株式会社仙台支店、7300万円

昭和48年1月  長井小学校前に歩道設置

昭和60年  第一校舎を保存改修

平成21年1月22日  第一校舎が国の登録有形文化財に指定

平成24年4月16日  体育館取り壊し開始。6月1日に完了

平成24年7月2日  体育館起工式

平成25年5月25日  体育館竣工式典

 



 

 

2015.01.30:n-old:[歴史的建造物]

2014 フィルム講座 歓迎ゲート編

  • 2014  フィルム講座 歓迎ゲート編

このシリーズは、2014年に文化生涯学習課主催において講座開催時に紹介したもの。前出のものと重複するところがあるがご容赦願いたい。なお、その後判明したデータを追加した。

 

過去、長井には多くの歓迎ゲートや歓迎門、歓迎塔がありました。判明しているものを掲載、以下追加の写真も掲載。

 

①長井駅開業歓迎門  大正3年11月15日

 

 

長井軽便鉄道が長井まで開通し長井駅が開業した。大正3年のこと相当大きな歓迎門である。これが、今確認できる一番古いもの。

 

②長井駅前歓迎門  昭和10年

 

これまでも、何回も登場した写真。風俗的にも面白い。

1、「あやめ団子」の看板(右中)  このころには、あやめ団子があった。しかし、今のような形ではなく、まったくの別物。元祖としては、松屋さんがおみやげコンテストのようなイベントで優秀な成績をおさめたのが、この「あやめ団子」で、再現されれば面白い。
2、長井駅(奥)  現在の長井駅舎は昭和11年築で、写真の駅舎は大正3年築のもの。開業当時の駅舎はその後、大正14年3月に拡張し、大正15年には乗降所の上屋を建てている。駅舎入口も変更されている。
3、駅前道路  長井で初めて舗装された道路。昭和8年6月4日のことで、道路脇に照明灯があるが、「すずらん燈」と呼ばれ、舗装工事と同時に設置された。
4、菊水館(中央)  大正12年にオープンした映画館。
5、長井商工会(右・門の右)  長井商工会は、明治43年4月2日に結成。その後、法施行前に昭和30年4月16日創設、法施行後は昭和35年9月12日に発足した。長井商工会議所となるのは、昭和50年の4月1日を待つこととなる。
6、道路にセンターラインがない  初めて信号機が設置された場所は、中央十字路。当時は山交十字路と言っていた。それも昭和37年9月1日。まだまだ車社会になるには年月を要した。人は右、車は左。今は当然のことだが、昭和23年8月にGHQから勧告があり、その後、人も車も左から現在のようになった。写真は昭和10年だから、人が左側を歩いていることは、当時は正しかった。

 

③駅前歓迎ゲート 昭和26年5月

 

 

ゲートの奥に長井駅が写る。昭和11年に改築された今の駅舎が写っている。仰々しいが、張りぼてっぽい。

 

④中央十字路(山交十字路)歓迎ゲート 昭和30年6月

 

あやめまつりの間に合いように作られた。

 

 

昭和33年の写真。消防署の火の見櫓から撮影されたもの。このゲートは昭和35年まで確認されている。

 

⑤歓迎ゲート  昭和30年~昭和38年 写真は昭和35年5月

このゲートから鉄骨造となった。昭和30年、市制施行1周年の記念パレード(11月)の写真に。昭和37年9月の「中央十字路に信号機」にも写っている。

上記写真は、長井駅前通りを長井駅に向かって撮影されたもの。歓迎アーチは、長井年表では昭和30年6月とされている。長井市となったのは、昭和29年11月15日、翌年には整備された。アーチ上部にある章は、市章のデザインと考えられるが、昭和30年、その際公募で審査、賞まで決定したが正式採用とはならなかった。市章は昭和38年10月17日に制定され、長沼孝三氏がデザインした。

このデザインは〇(丸)が六つ、これは長井町・長井村・西根村・平野村・伊佐沢村・豊田村が合併、それぞれの町と村を表している。中央には「長」の文字。デザインされた方は、芳文社にお勤めの大沼喜三郎氏だった。

昭和38年2月5日発行市報に鳥瞰写真で写っているのが、確認できる最後の写真。しかし、アーチには酒の銘柄があるが、市内の醸造元ではない。なぜ? 実は、この面は裏側なもだ。長井駅から降りてくる方々に対しての歓迎アーチだった。それでは裏側をみてみよう。

 

⑥歓迎ゲート夜景 長井駅からみたゲート

 

こちらが正面の写真。地元の銘柄が写っている。当時は鉄道で来る観光客主体だったことがよくわかる。また、この明かりはネオンで、不具合がでると、ラジオに雑音が入ると商工課に連絡が入った。このゲートが確認できるのが昭和38年2月まで。

 

⑦歓迎ゲート改造  昭和38年~

 

このゲートは、昭和38年9月30日発行の市報で確認できる。同じ年の8月16日には初めての「長井まつり」が行われた。鉄骨部分を利用し頂上のマークもそのまま。

 

昭和42年撮影の写真。長井駅側から撮影されている。これが、ゲートが確認できる最後の写真。残念ながら、最終年は確認できていない。

 

⑧歓迎塔  昭和34年~

 

 

昭和34年の写真。長井駅前の道路、ど真ん中に歓迎塔を設置、観光のPRと歓迎を目的とした看板だ。長井駅を降りると、この風景画飛び込んでくる。現在は、歩道ができた事を加えると道路幅は当時と同じだが、広く見える。右側手前には、三階建ての和泉屋旅館、左側奥には菊水館(映画館)が見える。道路奥には歓迎ゲートがうっすらと映しこまれている。それにしても、空の広さは昔の特徴だろうか。
左側の電柱には映画上映の宣伝板。それには、3種類の映画ポスターが貼られているが、そのうちの1種類が判明。それは「網走番外地」。昭和34年に公開された第一作で、主演に小高雄二、浅丘ルリ子で日活の作品。この写真も昭和34年に撮影したものとわかる。
上部に立体のデザインがなされ、「歓迎」「長井のつつじまつり」のPR、その下には「長井市・長井市観光協会・長井市商工会」の文字が横書きに並べられている。また上部からワイヤーが両サイドに下がり、国旗等の掲揚に使用されていた。歓迎の文字の上には、長井市章の前身の「〇が六つに長の文字」のマークが掲出されている。

 

 

歓迎塔は、長井線廃止反対や各催しの周知にも広く利用されていた。

 

 

 

 

2015.01.28:n-old:[歴史的建造物]