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2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 15

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 15

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

商店・料亭などの大正3年対昭和9年

 

     大正3年の地図

 

 

トモエヤ商店。大正3年11月15日、長井線が長井駅まで開通、合わせて長井に初めて電灯が灯った日だ。その祝賀風景を写した「トモエヤ商店」写真。商店右側に、列車時刻表を掲示した看板と裸電球の装飾が写る。

 

 

 

 

この3枚の写真は「香文閣」。大正3年の地図に表記されている。いつまであったのか、記録はない。栄町・芳賀醤油店の北に位置していた料亭だ。

 

 

「三清楼」の門構え写真。昭和23年の撮影。香文閣と同様、料亭である。

 

 

角万旅館写真

 

 

森旅館。大正3年発行の町勢要覧、商工年鑑広告に掲載された写真。

 

 

長井屋旅館。大正3年発行の町勢要覧、商工年鑑広告に掲載された写真。

 

        昭和9年の地図

地図上の表記はない。駅前通りにあった「三芳屋商店」。

 

東町にあったと考えられる「グリーンホール」。和洋食・レストランと看板に。

 

2015.04.15:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 14

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 14

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

公共建築物等の大正3年と昭和9年

 

     大正3年の地図

 

大正3年は長井線がようやく長井駅まで通り、電気もようやく通電された年だ。前出の役場や学校等の公共建物等の他は、あまりない。地図の「長井税務署」は郡役所東に位置し、写真は見つかっていない。山形県蠶業取締所はカイコを指導と取り締まる県の出先で、大正3年の町勢要覧に掲載された写真は下記に。

 

 

明治31年、本町に長井検査所が設置されるが、その後事務所は転々とした。明治35年には舟場、明治38年に「蠶病予防事務所」と改称、明治39年には西置賜郡会議事堂に移転、明治40年に「蠶業取締所」と改称、明治41年には十日町大正倶楽部に、そして大正2年、ようやくこの場所に落ち着いた。

 

 

合資会社長井倉庫の写真。業務内容はわかっていない。

 

 

         昭和9年の地図

 

 

 

昭和9年の町勢要覧に掲載された「長井税務署」の写真。前身は明治26年12月1日、「長井収税署」として西置賜郡役所東に設置されたもの。明治27年には「長井税務署」と改称。上記写真は西置賜郡役所の南側にあった「初代西置賜郡会議事堂」の跡地に昭和4年、新築移転した。開庁式は昭和4年3月10日。

 

昭和9年の町勢要覧に掲載された「長井繭市場」の写真。これは大正15年7月1日に「長井産業株式会社」を「有限責任長井繭市場信用販売購買利用組合」と改称したもの。前身は大正11年1月に「長井産業株式会社」だが、この名称も改称した、という記録があるが、おおもとの名称はわからない。長井産業株式会社時代の建物写真がある。

 

これは大正14年の町勢要覧掲載の「長井産業株式会社」。

 

 

長井初の自動車学校「山形県太陽自動車学院」。昭和2年に設立、昭和3年に新校舎を竣工している。昭和2年10月、バス運営会社・昭和自動車の階上につくり、運転手を養成した。長井橋河原に1,000坪の練習場をつくり、1期15人の養成を目指した。撮影は昭和3年7月。入口に「○○公認太陽○○」とある。職業学校法令に基づく正式な認可も受けている。

 

写真は残念ながら昭和29年以降、長井市となってからの「長井市消防署の写真。この建物は大正9年に栄町(現あやめ交番あたり)に建設、昭和46年まで使用された。建物の北側には「火の見櫓」があって、昼夜監視にあたっていた。

 

 

 

昭和9年発行町勢要覧掲載の写真。「米沢区裁判所出張所」は大正7年に設置された。

 

 

昭和9年の町勢要覧掲載の写真で「長井農業倉庫」。長井駅前通りの現JA長井出張所の場所。農協発足後は農協の米倉庫として使用された。

 

 

 

 

 

2015.04.13:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 13

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 13

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

県立長井中学校の大正3年対昭和9年

 

        大正3年の地図

 

中学校の創設は大正9年、3年当時はまだない。西置賜郡の悲願であった中学校建設はその6年後に実現する。

 

       昭和9年の地図  

山形県立長井中学校(現長井高等学校)が創立したのが大正9年。新校舎が出来るまで、長井小学校に間借りしており、第1回目の入学式は長井小学校で行われた。創立開校式も長井小学校で執り行われ当時は教職員7名、生徒数は96名だった。新校舎建設に合わせて、道路を敷設し、地図上には「中学校北新道」の記載もある。校舎竣工は大正10年10月15日で、授業開始はその2日後の17日からである。長井町には、女学校もあったが、この2校は統合、分離、統合を繰り返し、女学校は長井工業高等学校の設置に合わせて消滅する。長井中学校と女学校は別々にあったため、「長井第一高等学校」「長井第二高等学校」、そして「長井南高等学校」「長井北高等学校」と改名、そのため、統合後も「長井高等学校」となってもしばらくは「南高」の呼び名が根付いた。

 

 

創立時の校舎写真

 

 

昭和9年発行の町勢要覧に掲載された「県立長井中学校」の写真。校舎前は田圃だ。

 

 

2015.04.10:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 12

  • 2015   フィルム講座 大正3年対昭和9年   12

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

     医療機関の大正3年と昭和9年

 

        大正3年の地図

 

大正3年発行の町勢要覧「新装のながい」の地図では、医療関連のものは二か所のみ。小出に「紺野歯科医院」、宮に「寺島薬局」しか、見当たらない。データとして次の医師が掲載されている。宮に「外田修・長沼永安・中條周資」の三医師。小出には「豊竹親勝・佐藤信行(八起堂)・紺野文兵衛)の三医師、計6人の医師がいた。行政の病院は、当時なかった。

 

          昭和9年の地図

 

昭和9年にようやく「長井公立病院」がでてくる。

 

昭和3年11月、長井町・長井村・西根村・平野村・豊田村・伊佐沢村で「長井町外五カ村伝染病院組合」を設立、昭和4年11月に各々に設置していた伝染病院を一か所で運用する「共立伝染病院」が現在の場所に完成、診療収容を始めた。しかし地域住民から一般診療の病院設立の強い要望があり、昭和14年2月、伝染病院と併設で治療管理・診療棟とを建設した。昭和14年3月28日に名称を「長井公立病院」に改称、一般診療を開始。この日が「開院記念日」となる。

 

 

完成当時の桑島眼科医院。昭和2年、初代桑島眼科医院院長・桑島五郎が洋行を取りやめてまで擬洋風建築の医院を竣工した。当時の新聞には「純洋式鉄鋼コンクリート二階建てにして高層巍々たるもの・・・」と紹介された。当時のお金で1万6千円、石造りに似せた人造洗出し(御影石・黒霞)、ゴシクック建築の名残の棟飾りやドーマーウインドウなどに特徴があるが、木造建築である。間口7間、奥行4.5間で総二階建て、延べ面積242.2㎡、高さ10mと堂々としている。設計図や仕様、設計者、棟梁などの資料がそろっていることも特徴の一つだ。

 

 

昭和6年竣工、小池医院の写真。重厚な一階部分自然石洗出し外壁の上に、木の骨組みにリズミカルな斜材、円状の木装飾が並ぶ「ハーフティンバー」の二階部分、その上に急な勾配を持つ大屋根、突き出た八角形の望楼がそびえる。当初は左奥の玄関部にバルコニー付ポーチがあった。こちらも設計者や施工者、棟梁などの記録が残る。延べ面積は237.6㎡、高さは11.5m。

 

桑島眼科医院は道路に面して横に、小池医院は道路に面して縦に建てられ、両建物は曳き移転された。場所を変え、今も見ることができる。

 

 

 

2015.04.09:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 11

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 11

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

        娯楽施設の大正3年と昭和9年

 

大正3年の地図

 

大正3年当時は、あやめ公園南にあった「偕楽館」のみ。明治34年創設で花道・桟敷席・枡席を備え、回り舞台もあった。大正3年に手直ししたが、大正6年、松ケ池公園に演芸館ができると衰退し、大正8年ごろには天童の業者に買い取られて姿を消した。写真はない。

 

昭和9年の地図

 

昭和9年当時、娯楽施設は長井町に3軒、長井村に1軒、豊田村に1軒あった。

 

松ケ池公園にあった「演芸館」、昭和初期の写真。あやめ公園南にあった偕楽館は大正8年には姿を消し、かわりに小出に整備された。この建物は大正5年秋に山形市で開催された「奥羽六県連合共進会」の会場に建築されたもので、それをそっくり移築したもの。民間による運営で始まり、幾多の変遷を経て昭和49年に姿を消した。共進会は山形県庁の落成を記念して行われたもので、第3会場まであり、主会場である県庁(現文翔館)敷地、県会議事堂の南西に整備されたものだ。白亜の威容を誇り、長井町の名物になった。

 

 

長井駅前通りにあった「菊水館」。写真は昭和10年に東海林太郎アトラクションが開催される時のPRの様子写真だが、左手に写っている建物が「菊水館」である。建物の杮落しは大正12年11月で、昭和49年5月30日に惜しまれながら閉館した。長井町初の映画館で、宮地区を代表する顔ぶれが名を連ねた株式組織でスタート。娯楽の少ない時代、民衆を楽しませた。上映に当たっては米沢の常設映画館である常盤館からピアノ・フィルム・映写技師・弁士・映写機を持ち込んで週2回、行っていた。翌大正13年には松竹・日活と契約し、常時上映となる。

 

 

常盤館は小出に昭和3年夏に開館しお盆興行を行った。その映画は「地雷火組」。米沢の常盤館が長井に進出し、当時は第七常盤館として営業していた。昭和7年ころには、今泉にも第八常盤館を開設したが、こちらは昭和18年で幕を閉じた。長井の常盤館の閉館は、昭和62年8月に閉館、そこはタウンセンターとして生まれ変わることとなる。写真は昭和62年のもの。

 

もう一つは「栄楽館」。写真はない。栄楽館は羽前成田駅前通り北側にあった映画館。週2回の上映を行い、芝居やのど自慢などの会場に利用されたが昭和30年1月に閉館した。同館が開業したのは大正11年12月11日のことで、長井線が白鷹町鮎貝駅まで開通した年だ。株式の組織で運営され、成田地域に活気をもたらした。

 

 

 

 

 

 

 

2015.04.07:n-old:[歴史的建造物]