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長井の明治 3

  • 長井の明治 3

元禄7年(1694)に最上川舟運によって宮舟場が設置されて以来、飛躍的に商人町へと変貌した江戸時代。明治に入りどのように長井は変わっていったか、年譜形式で紹介する。

明治21年4月1日

 

市制及び町村制を施行

 

明治21年6月

 

 

長井大橋、伊佐沢橋完成 長さ78間、幅2間の木橋

 

明治22年2月11日

大日本帝国憲法が発布される

明治22年4月1日

 

 

小出郵便局と小出電信局が合併(3月14日)し、

長井郵便電信局となる

 

明治22年4月1日

 

 

市町村制が施行され、第一次町村合併が行われた

 長井町 (小出村・宮村) 猿橋政孝

 長井村 (成田村・五十川村・白兎村・森村) 高橋門左エ門

 西根村 (勧進代村・草岡村・川原沢村・寺泉村) 高世純一

 平野村 (平山村・九野本村) 深沢園吉

 豊田村 (今泉村・歌丸村・河井村・泉村・時庭村) 井上代造

 伊佐沢村(上伊佐沢村・下伊佐沢村・芦沢村)(当時東置賜郡) 鈴木千誉太

 

明治22年5月

 

一郡一警察の制となり宮警察署を長井警察署と改めた

 

明治22年6月8日

 

 

 

長井町長に猿橋政孝(喜多方出身)当選。これより前宮村と小出村が併合、長井郷の首都の意をもって「長井町」と命名。当時摂取院に仮役場を。新築を計画し明治26年に小出の念仏堂に一時仮役場を移す。27年4月に入札、小出本町1411番地(小野医師南)に明治27年9月に新築完成した。予算は1,600円、総建坪数は60坪。

役場の仕様:本庁舎 総二階 梁間四間 桁間七間半(但し一間は6尺3寸)    

竣工式は10月14日午前10時。

 

現駒屋道路向かいに

 

明治22年6月15日

 

〆切堤防決壊、野川大洪水

 

明治22年9月1日

 

日本鉄道上野・青森間全通

 

明治22年11月19日

 

長井町長に南雲辰蔵(米沢市木場町出身)

 

明治20年度

 

 

 

山形県統計に西置賜郡内製糸場として長井町(羽陽軒・川村製糸場・渡部製糸場)、長井村(佐々木製糸場)、西根村(安部工場・金平工場)、蚕桑村(高岡製糸場・拡製社・同名社が外に三社・共精社)、鮎貝村(鈴木製糸場・同上・塚原工場・高岡工場)、荒砥村(今井工場・熊谷工場・塚原工場)

 

 

明治23年5月22日

 

菅原白龍、東洋絵画展覧会協議員兼審査員となる

明治23年7月1日

 

第1回衆議院議員総選挙行われる

 

明治23年8月1日

 

長井区裁判所設置。大正7年廃止、改めて米沢区裁判所出張所となる

 

明治23年10月30日

 

教育勅語が発布

 

明治24年

 

小出公園、約1.87haの田圃を買収、拡張する。花作の七兵衛つつじを譲りうけることを計画

 

明治24年3月

 

長井銀行の前身として芝興会を組織。30年5月に本名に改める。37年1月に荒町角に移転

 

明治24年3月

 

致芳の高橋孫太、長井組製糸工場創設。五十川字間(あい)に。

 

明治24年4月1日

 

府県制及び郡制が施行

 

明治24年7月1日

 

長井で板垣退助・河野広中が演説会

 

明治24年7月4日

 

あやめ公園高台に柔術乱取手踊り等の興行かかる。この頃から、長期の常設小屋は始めて

 

明治24年9月1日

 

日本鉄道上野・青森間全通

 

明治25年12月2日

 

菅原白龍、美術展覧会に「着色山水」出品、一等賞受賞

 

明治26年7月3日

 

長井町長に高野俊平(米沢南堀端町出身)当選

 

明治26年10月

 

白龍画人、61歳、世界博覧会に日本勝景版木を出品、優等賞を受ける

 

明治26年12月1日

 

長井収税署設置。29年、税務署と改めた

 

明治27年6月28日

 

従来の高等中学校を高等学校と改称

 

明治27年7月1日

 

三由軒製糸場設立

 

明治27年7月

 

宮長栄館、外国まで輸出する

 

明治28年9月

 

小出区においてつつじ公園の整備にのりだす。一町八反七畝三歩を買収し築山をつくる。

 

明治28年

 

横山孫助経営の三由軒製糸場を四ツ谷に新設

 

明治29年4月14日

 

両羽銀行設立

 

明治29年9月1日

 

 

小出区議会議員がつつじ公園の経営を企画、大規模な拡張整備を行う。花作の七兵衛つつじの一部や仙台釈迦堂の桜苗を買い求める。これを松ケ池公園創設とする。

 風薫る池をめぐりて白つつじ 黙羅漢

 

明治29年11月15日~19日

 

郡会議事堂(初代・現郡役所南)において、西置賜郡農産物私立展覧会を開催。米、生糸、繭、真綿、織物、蚕種等

 

2016.02.01:n-old:[歴史的建造物]

長井の明治 2

  • 長井の明治 2

明治11年7月4日

 

第九大区の区務所を宮村に新築すると決定

 

明治11年7月22日

 

 

郡区町村編成法布告。郡区事務取扱は郡役所・区役所と称す。この法によって置賜は東・西・南の三郡に分けられた。なお、町村には戸長一名をおく。

 

明治11年10月24日

 

警察、邏卒(らそつ)の名を廃し、巡査と改める

 

明治11年11月1日

 

宮村に建築される区務所が新たに郡役所と定められる

 

明治11年11月

 

 

西置賜郡役所は宮村に洋風に新築され11月竣工、12月1日に落成式開業挙行。勧進代獅子踊と河原沢村神楽が。11月23日から29日は一般観覧ゆるす。その後、大正15年7月1日に廃止 12月1日開業式挙行 小幡文書(明治11年20日新築落成・開所式の通達 12月1日開所式執行)工期は4ヶ月、建築費は4,518円。

今でも見ることができる西置賜郡役所

 

 

明治11年11月

 

23日から29日まで郡役所を一般公開

 

明治12年1月20日

 

初めて山形県議会議員選挙を行う

 

明治12年6月20日

 

夜小出の籾蔵火災、1万余俵焼亡

 

明治13年4月8日

 

区・町・村規則を制定

 

明治13年6月8日

 

 

上伊佐沢村・下伊佐沢村・芦沢村の三カ村合併して、伊佐沢村となる

 

明治13年

 

栗子トンネル・新道できる。翌年「万世大路」と命名

 

明治14年

 

 

森小学校、14年に設置したが26年浅立小学校に合併

 

長井警察庁舎できる

手前は撞木橋と上人松

 

 

明治14年11月

 

西置賜郡役所で、第三回繭糸競進会開催

 

明治15年5月23日

 

宮小出中央に長井小学校建つ。翌年平章と改める。大正2年には停車場新設により改築移転する。総工費3万8千5百円。

 

現中央十字路付近から西方 校舎が奥に見える

 

 

 

明治15年12月8日

 

長井・荒砥間の郡道(東街道)竣工

 

明治15年12月8日

 

 

長井橋渡り初め。長井橋開通。この年、小出有志の献金により小出電信局設立する。長井荒砥間の郡道も整備された

 

明治16年6月

 

 

米沢・長井間に電柱架設工事始まる。越後から西方吉太郎を招き、絣紬の伝習を受ける

 

明治16年7月2日

 

政府、官報第1号を発行

 

明治16年12月

 

白川橋完成

 

明治16年

 

伊佐沢人参栽培に成功

 

明治17年

 

 

宮村小出村の戸長役場を接取院に置く

 

摂取院に間借りした 古い写真を借用 写っている方々は役場とは無関係

 

明治17年

 

 

小出区民が公園(小出公園、現つつじ公園)づくりを始める。翌年にかけて、池を掘り中島に松を植えた。初めて「松ケ池公園」の名称用いられる。名付け親は、立原和愛。

 

明治17年度

 

初代郡会議事堂に附属する土蔵建築

 

明治18年

 

羽陽館川村製糸工所となる

 

明治19年4月10日

 

小学校令により、尋常・高等の二科、修業各四年制となる

 

明治19年8月

 

 

新潟十日町の西方吉太郎を長井紬改良のため招聘。9月には製品すべてを「長井紬」に統一

 

明治19年11月10日

 

白川橋竣工し、渡り初めを行う

 

明治20年4月

 

学校令公布により尋常高等小学校となる

 

明治20年7月

 

横山孫助、三由軒製糸場を創業

 

明治20年7月22日

 

 

宮村にはじめて象の見世物かかる

 

当時の広告チラシ

 

 

明治20年10月20日

 

 

東北本線、上野仙台間が開通。これにより、最上川舟運による日本海側から陸路の表日本になっていく。

 

明治20年

 

川村利兵衛が、羽陽軒川村製糸場を設立

 

明治20年度

 

 

初代郡会議事堂建築(連合町村会)。梁間六間、桁間十間、二階造西洋風の造作。予算千円

 

西置賜郡役所の南方に 洋風建築4番目

 

 

2016.01.28:n-old:[歴史的建造物]

長井の明治 1

  • 長井の明治 1

元禄7年(1694)に最上川舟運によって宮舟場が設置されて以来、飛躍的に商人町へと変貌していった。明治に入り、その息吹でどのように長井は変わっていったか、年譜形式で紹介する。なお、明治初期には写真は見つからずご容赦いただきたい。

 

明治元年9月8日

 

明治と改元する

 

明治2年

 

版籍奉還

 

明治2年6月17日

 

米沢藩主・上杉茂憲も版籍奉還する。各藩主を「知藩事」に任命した。

 

明治3年7月4日

 

小出の川崎玄子、77歳で没す

 

明治3年9月19日

 

平民に氏(姓)を称することを許す

 

明治4年7月14日

 

廃藩置県を布告。旧藩主はすべて東京に住まわせ、県知事は中央政府から任命。米沢藩は米沢県となる。

 

明治4年9月

 

 

興譲館に皇学・洋学・医学・筆学・数学の五科を置く。また、五郷学校を設ける。宮内・小松・荒砥・宮・小国。米沢学校掛かりで出張教授した。

宮郷校は藩庁から借りうけた青苧倉で、平均50人前後で就学率は25%位。5人のうち4人までが文盲だった。

 

明治4年11月2日

 

米沢県を置賜県と改めた。初代参事・高崎友愛

 

明治4年4月4日

 

戸籍制度できる

 

明治4年

 

成田小学校、福蔵院の長屋を借入、成田小学校を開設

 

明治5年1月29日

 

国民の身分を皇族・華族・士族・平民の四身分と定めた

 

明治5年4月9日

 

 

庄屋・名主(米沢では肝煎)を廃し、戸長、副戸長を置く。

 

明治5年4月12日

 

小出村大火、83戸焼失。午後4時四ツ谷から出火

 

明治5年7月

 

小出に郵便取扱所開設

 

明治5年8月3日

 

義務教育制度定める

 

明治5年11月9日

 

太陽暦採用を布告

 

明治5年

 

 

時庭小学校、小出村に区学校を設け、宮・小出・泉・時庭・九之本・平山・中村の七ヶ村連合として各村に分校を設けた

泉・時庭は両村で一分校を営み、豪農3,4戸を選び交代に教場とした

明治7年、連合分校から離脱、泉・時庭合同の1校を設けることとなり、旧郷倉を校舎とし、校名を時庭小学校とした

長小関連では、明治5年小出置賜県第五大区小二区学校を設け、小二区管内七ケ村にそれぞれ区学校を設けた。位置は不明。明治4年12月、宮村の旧あおそ御蔵を借受し区校を開設したとも伝えられる。区内の分校は明治6年に廃止した。小出村は明治6年、本町に校舎を新築することで寄付を集め、明治7年落成開業した。

 

明治5年12月3日

 

この日を明治6年1月1日とし、以後太陽暦を採用

 

明治6年2月

 

小出村本町に啓蒙学校創立

 

明治6年

 

 

 

下伊佐沢小学校、龍雲寺借入。8年まで

上伊佐沢小学校、山口清右衛門から借入。8年まで

歌丸小学校6月、正覚院借入開校。7年鐘寺借入、8年6月八幡の官林に校舎を新築

平山小学校、時庭小学校の場合と同じく、区学校の分校を設け、天神寺を借入。7年、分校を廃し天神寺に平山小学校を開設

九之本小学校、観音寺を借入分校開設、7年九之本小学校として同所に独立

蔵京小学校、6月白兎村と勧進代村合同で高国寺を借入蔵京小学校を開設。9月、稲荷神社の祠掌佐藤勇所有の長屋借りて移る。11年4月、勧進代村郷倉を廃して学校に転用。14年8月、白兎村は生徒通学の便宜から分離して白兎小学校を設置

蔵京小学校を勧進代小学校と改称した

草岡小学校7月、草岡村・河原沢村が連合して洞松寺を借入草岡小学校を開設

寺泉小学校7月、願誓寺を借入開校

五十川小学校7月、正寿院を借入開設。7年8月、高橋藤次郎宅に移り、9年4月から大道寺定吉宅を借りて学校とした。

白兎小学校、勧進代村と連合し6月、高国寺に蔵京小学校を開設、14年連合から分離して白兎小学校を開設、そのため校舎を新築

啓蒙学校、宮村学校を統合し啓蒙学校と称した。旧桑島眼科医院北側に

 

明治6年6月3日

 

 

 

 

大区小区制が実施(明治5年2月から実施された戸籍法による「区制」は、同年10月新しく「大区」「小区」に変わった。置賜県は「六大区・二十八小区」に分けられた。下長井の大部分は第五大区となり、長井市は小二区・三区に編入された。

 

明治6年6月28日

 

夜午前2時ころ、十日町から出火、52戸焼失

 

明治6年7月16日

 

 

河原沢村と草岡村が談合して、洞松寺を借りて学校を設置する。14年7月、通学が不便なため分離、河原沢をわけ、新町(草岡)に新築する。

 

明治6年10月29日

 

 

貸座敷並び娼妓規則がうまれ、県内8箇所許可。小出村に10軒くらいあり。

 

明治6年11月15日

 

今泉郵便取扱所開業(今孝左エ門宅)

 

明治6年

 

佐々木宇右衛門が、器械製糸の工場(佐々木製糸場)を創設

 

明治7年11月

 

 

 

草岡村高世平次、郵便取扱御用申し付けられる。伊佐沢村皆川春吉、伊佐沢郵便取扱役を申し付けられる。

 

明治7年

 

小出学校1月、小出学校と称した

 

明治7年

 

川村利兵衛が、製糸工場を建設

 

明治8年1月8日

 

小学校の学齢を満6歳から14歳までとする。

 

明治8年2月13日

 

今後は平民にも必ず苗字(姓)を用いるべき旨布告

 

明治8年4月

 

宮学校4月、宮村小出村の合併学校を分離し、宮村の宮学校、小出村の小出学校に分けた

 

明治8年5月

 

今河小学校、今泉・河井が分離、長泉寺に設ける

 

明治9年4月

 

官庁は日曜休日、土曜半休の制を実施

 

明治9年5月27日

 

明治天皇東北巡幸に先立ち大久保利通東京を発

 

明治9年6月2日

明治天皇東北巡幸に出発

 

明治9年6月9日

 

大久保利通、成田・佐々木家の製糸工場を訪ねる

 

明治9年6月12日

 

大久保利通、佐々木右エ衛門と菅原白龍、最上川を下る

 

明治9年7月5日

 

上伊佐沢村と大石村を合併し、上伊佐沢村とする。

 

明治9年8月3日

 

山形・鶴岡・置賜の三県を合併して「山形県」誕生。初代県令は三島通庸

 

明治9年9月1日

 

山形新聞創刊(鳴時社から)

 

明治9年10月18日

 

 

草岡、勧進代、寺泉の各尋常小学校を併合、中央に一校建てる

 

明治9年10月30日

 

宮村第四屯所を宮村第五警察出張所と改称

 

明治10年2月14日

 

宮村第五警察出張所を宮村警察署と改称

 

2016.01.25:n-old:[歴史的建造物]

長井の幕開け 最上川舟運8

  • 長井の幕開け 最上川舟運8

小出村、宮村がいかに元禄7年(1694)の宮舟場が開設されることによって変貌していくかがわかる資料がある。邑鑑によると舟場開設前の元和初年(1615)のデータを次に記載する。

       宮村      小出村

石高  1350石6斗5升  1610石4斗

家数  113戸       89戸

人数  567人       491人

 

この数字はけして大きくない。上小松村は246戸、大塚村は123戸、梨郷村は129戸、鮎貝村は137戸、寺泉村は121戸である。しかし、舟場開設の78年後、安永元年(1772)では飛躍的に小出・宮の両村が伸びているのだ。小出村が307戸・1715人、宮村は241戸・1224人と倍増以上の数字を示している。

元禄の頃までは、宮村は十日町・川原町・坊中・新町・大町・新屋敷の六町があったが、舟場開設後には舟町が形成され、田端・横町・水上ができ、その後宮原・中道が。小出村は、舟場開設以前は粡町・本町・大巻・新舘の4町があり、開設後には片田・川原・四ツ谷が成立、その後金井神・花作・台が形成された。

いかに、元禄7年の舟場開設によって、現在の長井の元が形成されたかわかる資料である。

 

最上川舟運によって大変貌を遂げていった長井。200年余りの間、富と情報が蓄えられ、明治以降は他地域に先駆けて郡役所の創建、養蚕から織物業へ、そして大正3年には鉄道が敷設される。同時に、電気会社を設立するなど時代に対応した発展を続けてきた。

次回からは、それ以降の建造物や出来事を年譜のスタイルで示し、長井の変貌を記載することとする。

 

明治11年に建てられた西置賜郡役所

明治14年に建てられた長井警察署

明治22年に建てられた西置賜郡会事義堂

2016.01.22:n-old:[歴史的建造物]

長井の幕開け 最上川舟運7

  • 長井の幕開け 最上川舟運7

最上川舟運で、それぞれの舟場にどれほどの舟があったのだろうか。江戸時代の記録は残念ながらないが、明治初めのものが残っている。五十川村に18艘、成田村に17艘、小出村に51艘とある。宮村のデータはないが、小出村と同程度と考えられている。

宮舟場、小出舟場には、両村の舟のほかに村外からの上り舟、下り舟があり、常時数十艘もの船がへさきを並べていたであろうことが容易に想像できる。

最上川舟運は、米沢藩の廃藩(1869)によって上米蔵・上米輸送の機能は停止、以降民間で行われていたが、道路や橋梁の整備、そして、大正3年に開通する赤湯・長井間の軽便鉄道の開通によって終わりを告げた。長井における最上川舟運は黒滝開鑿の元禄7年に始まり大正3年に終焉、220年の歴史に幕を下ろすことになる。

 

大正3年に長井まで鉄道が開通  最上川舟運はここで終焉をむかえる

2016.01.20:n-old:[歴史的建造物]