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長井の幕開け 最上川舟運  1

  • 長井の幕開け 最上川舟運  1

長井のまちには古い建物が残っている。確認できたもので江戸時代の蔵であったり建物が確認できる。町屋が残存し、明治以降の建造物も多く残る。歴史文化を大切にする心が長井にはあるのだ。それでは、現在に通じる分岐点はいつだったのだろうか。

それは、元禄7年(1694)の江戸時代に始まる。白鷹町の黒滝開鑿によって、宮舟場ができたことから、大きく長井のまちが変貌していく。それまでは、小桜城など軍事的なものもあったが、それほどに大きく歴史にからむところではなかった。小桜城、遍照寺を中心とした街並みと白山神社を中心とした街並みがかたまりとしてあったといわれている。

 

約300年前から営んでいた丸大扇屋

 

最上川を利用した舟運は、平安時代から行われていた。しかし、置賜の地に入ってくるのは元禄に入ってからである。朝日町から白鷹町にかけての五百川渓谷、白鷹町の黒滝があって、舟が上ってこれなかったからである。米沢藩の物資は陸路を使い山形へ、須川を下り最上川へとつないで輸出入を行っていたのだ。また板谷峠を越え太平洋のコースをとるなど、大量輸送には大変な労力とお金がかかっていた。米沢藩内には松川(最上川)が流れているが、前出のとおり藩内からの舟場がなかった。当然、藩では藩内を流れる最上川から直接しかも大量に酒田まで荷を下す必然性が生まれてくるが、そこに着目した人物が現れた。その名は「西村久左衛門」。通船を阻んでいた白鷹にある黒滝を開鑿し、下流の左沢から長崎までの航路を拓こうとしたのだ。

2016.01.05:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年と昭和9年  19

  • 2015 フィルム講座 大正3年と昭和9年  19

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

     製糸場の大正3年対昭和9年

 

    大正3年の地図

 

羽陽館川村製糸場は現在の長井アパレル(元郡是製糸)にあったが、写真はない。川村利兵衛が明治7年に製糸場を建設、以降拡大し、明治20年には羽陽館川村製糸場を設立した。女工75名男工12名の規模。「羽前エキストラ」としての名声を得た。明治38年に川村が病死、長沼惣右衛門が受け継ぎ「長井製糸場」と改称した。以降、片倉製糸に工場を貸したが、明治42年には再び長沼氏自ら、経営に乗り出した。しかし、糸価が低落し大正初年に、漆山の多勢亀五郎に経営を委任する。それも2年でやむなく手を引いた。その後2年ほど休業するが、大正3年当時がちょうど休業期間だ。その後、横浜の生糸問屋渡辺文七の所有となり、続いて信州富国館製糸の両角慶一の手に移り「羽陽館両角製糸場」と改称して大正9年の郡是につながっていくのである。

 

 

大正3年発行の町勢要覧に掲載された「三由軒製糸場」の写真。

三由軒製糸場は、明治20年、つつじ公園開発などに寄与した横山孫助氏が開業、明治28年、四ツ谷に工場を新設した。仏式製糸機械48釜を設備、32年には製糸講習所を設置するなど意欲的だった。43年にはボイラーを設置し70釜の大工場となった。

 

         昭和9年の地図

 

昭和9年の町勢要覧に掲載された郡是長井工場の写真。同じ写真考えられるものが下記に。

 

 

郡是製糸長井工場は大正9年1月に羽陽館両角製糸場を買収し2月1日に280釜で事業を開始した。買収時の敷地は4500坪、建坪880坪であったが、隣接地約1万坪を買い入れて設備を改築拡張した。

昭和7年には582釜、約1000名の従業員を有し、購繭数量57万貫、生糸生産高は5万貫を超えた。昭和8年には普通機180釜、多条機156台に改め昭和13年には全設備が多条機460台となった。

 

 

大正11年の町勢要覧に掲載された三由軒製糸場の写真。大正10年の生産高は、生糸4530貫目、屑物1400貫目、繭買入高春繭34000貫目、夏秋蚕14000貫目をほこった。大正11年には工場の大改築を行い活況を呈したが、昭和17年の企業整備令によって製糸業を廃業した。

 

2015.04.24:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 18

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 18

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

通りの大正3年対昭和9年

 

             大正3年の地図

 

 

明治43年当時の本町通り。石川肉店あたりからの風景とされている。この道路は明治以前からある古い道路だ。両側には切妻屋根が多く茅葺だ。道路はもちろん砂利道で側溝もある。切石組みと素掘りの側溝が混在している。

 

 

昭和23年の本町通り。

 

 

              昭和9年の地図

 

 

昭和9年町勢要覧掲載の写真。現在の中央十字路から西方を撮影したもの。奥に長井駅が見える。両側にすずらん灯(街路灯)があるが、駅側と十字路側でデザイン違う。道路は昭和8年に長井で初めて舗装された。ちなみに、長井で初めて自動信号機が設置されたのも中央十字路で昭和37年9月のこと。当時は中央十字路を「山交十字路」といっていた。中央に変わるのは昭和38年以降のこと。

 

 

 

2015.04.22:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 17

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 17

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

橋の大正3年対昭和9年

 

             大正3年の地図

 

 

大正14年の町勢要覧に掲載された長井橋写真。東山から西方を望む。木橋だ。

 

 

大正3年町勢要覧に掲載された「撞木橋」写真。バックに長井警察署庁舎が写る。

 

 

大正14年の町勢要覧に掲載された撞木橋写真。

 

          昭和9年の地図

 

 

昭和9年町勢要覧に掲載された長井橋の写真。昭和6年12月12日に「長井橋「長井大橋」同時に竣工した。ワーレン式トラス4連橋。照明がつけられているが、両橋ともデザインが違っている。

 

 

長井橋の灯具デザイン

 

 

昭和9年町勢要覧に掲載された長井大橋の写真。長井橋とは双子のようだ。

 

長井大橋の渡り初め後の記念写真。左に旧長井大橋が見える。

 

 

長井大橋の灯具部

 

 

昭和9年町勢要覧に掲載された「撞木橋」の写真。渡り初めは昭和6年12月30日。

 

 

 

 

2015.04.20:n-old:[歴史的建造物]

2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 16

  • 2015 フィルム講座 大正3年対昭和9年 16

平成26年度「長井の心を育む推進事業」で公開した写真を取り上げる。

長井のまちには、その歴史の中で様々な建物があらわれては消えを繰り返してきた。現存しているものもあれば消えてしまったものもある。その時々の人々の暮らしを彩り、時代を形どってきた建物等を、大正3年・昭和9年の時間軸周辺でご覧いただく。

 

銀行の大正3年対昭和9年

 

    大正3年の地図

 

大正3年は長井駅開業そして、長井に初めて電灯が灯った記念の年。その時代に銀行は3行確認できる。

 

 

大正3年発行の町勢要覧に掲載された「両羽銀行長井支店」の写真。両羽銀行(現山形銀行)は、明治29年4月14日山形市に開業。長井町には明治30年3月15日、宮十日町635番地(第八十八国立銀行長井出張所内)に「両羽銀行長井出張所」として開設された。そして同年4月1日から営業を開始した。同年6月30日には第八十八国立銀行長井出張所が廃止となり、両羽銀行がその業務を引き継ぐ。

明治33年11月6日、同じ十日町560番地に移転。地図の箇所が、それ。明治34年8月1日には出張所から長井支店に昇格。

 

 

大正3年の町勢要覧に掲載された長井銀行の写真

 

 

明治41年の絵葉書写真

 

株式会社長井銀行は明治30年10月27日、小出2485番地に資本金6万円で設立された。前身として明治24年3月、共興会(または芝興会)がある。明治37年11月にあら町に移転する。

大正3年当時の頭取は横山孫助。長井銀行は昭和8年8月11日に羽陽銀行に買収され、姿を消した。

 

 

株式会社第百廿五銀行長井支店の写真。これも、大正3年発行の町勢要覧に掲載されたもの。いつから設置されていたか不明だが、大正3年にはあった。当時の支店長は石口寅之助。

株式会社第百廿五銀行の前身は、明治11年12月19日、米沢に開設された第百廿五国立銀行。明治30年8月11日には株式会社第百廿五銀行となり、昭和2年4月11日まで存在した。

 

      昭和9年の地図

 

 

 

 

写真は、現NTT敷地に建っていた旧羽前銀行長井支店の建物。昭和26年に「置賜信用組合(現山形中央信用組合)」が入居した。

羽前銀行は昭和3年10月10日、荒砥町大字石那田958番地に資本金100万円で設立された。荒砥銀行・赤湯銀行・沖郷銀行が合併したもの。

長井町には昭和4年10月、「大字宮境町西1 460番地2(現NTT敷地)」に長井支店として設置された。昭和15年8月1日には両羽銀行に合併し、羽前銀行は姿を消した。

 

 

大正15年9月25日、宮境町東2に新築移転した「両羽銀行長井支店」。赤レンガ造り。両羽銀行はその後、昭和15年8月1日に羽前銀行を買収、昭和16年11月1日に羽陽銀行を買収。昭和40年には山形銀行と改称した。

 

羽陽銀行長井支店は、昭和8年8月11日、長井町小出1267番地に設置された。その後、昭和9年10月1日に長井町小出2457番地に移転、昭和16年11月1日の両羽銀行に買収されるまであった。羽陽銀行は左沢町左沢379番地に資本金15万円で設立された「左沢銀行」が前身。昭和4年12月31日に羽陽銀行と改称。 

 

 

2015.04.17:n-old:[歴史的建造物]