最上義光プロジェクト
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戸部正直(とべまさなお)
正保二年(1645)~寛永四年(1708) 戸部忠直 の子。はじめ権三郎のち清左衛門を称す。剃髪して一閑斎と号す。十代の頃から諸国を巡って見聞を広め、奥羽地方の永禄年間から慶長年間までの軍記物語である「奥羽永慶軍記」四十巻を著した。また、慶長五年(1600)の長谷堂合戦の様子を描いた「長谷堂合戦図屏風」の作者でもある。
2019.01.18
戸部忠直(とべただなお)
生年不明~明暦二年(1656) 戸部武直 の子。九郎介。関ヶ原の戦いにおいて、父・武直が石田三成方に組したため、三成の居城・佐和山城に入ったが、武直は討死し、忠直は捕らえられた。のちに 最上義光 に四百石で召し抱えられ、旗本に列した。しかし、大坂の役に際して、真田信繁の陣に加わって敗残の身となり、秋田雄勝郡の院内銀山に幽居したという。
2019.01.17
戸部武直(とべたけなお)
生年不明~慶長五年(1600) 三郎左衛門。天童落城後、伊達家の元に身を寄せ反攻の機会をうかがっていた天童家の重臣・草刈将監を謀殺し、その功により長瀞で二千石を給されたという。庄内十五里ヶ原で勝利した本庄繁長が、余勢を駆って東根城に攻め寄せた際には、援軍として駆けつけ、相手方の侍大将を討ち取ったという。のち関ヶ原の戦いでは石田三成方に馳せ参じ、討死したという。父は、尾張国戸部城の城主であった戸部政直か。
2019.01.16
山本大膳(やまもとだいぜん)
生年不明~没年不明 小野寺刑部 や 辻加賀 とともに上杉家に仕え、慶長出羽合戦ののちに上杉家を離れ最上家に仕えた。最上家改易後は、最上家仕置のため公儀から派遣された永井右近直勝に召し抱えられた。
2019.01.15
佐竹正勝(さたけまさかつ)
生年不明~寛永十三年(1636) 金山城主・ 丹政直 の二男。太郎左衛門。母は進藤勘解由左衛門の娘。父の隠居料二百石を継ぎ、近習を務めた。最上家改易後は津軽に移住し、のちに弘前藩津軽家に百石で仕え、名字を進藤に改めた。孫の進藤庄兵衛正次は、弘前藩津軽家家老を務めた。
2019.01.11
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