最上義光プロジェクト
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◇最上家家臣団(た行)
田村助左衛門(たむらすけざえもん)
生年不明~没年不明 戸部武直 とともに、天童落城後、伊達家の元に身を寄せ反攻の機会をうかがっていた天童家の重臣・草刈将監を謀殺したという。庄内十五里ヶ原で勝利した本庄繁長が、余勢を駆って東根城に攻め寄せた際には、援軍として駆けつけ、繁長の嫡子・本庄勝繁を討ち取ったという。
2019.01.28
戸部忠直(とべただなお)
生年不明~明暦二年(1656) 戸部武直 の子。九郎介。関ヶ原の戦いにおいて、父・武直が石田三成方に組したため、三成の居城・佐和山城に入ったが、武直は討死し、忠直は捕らえられた。のちに 最上義光 に四百石で召し抱えられ、旗本に列した。しかし、大坂の役に際して、真田信繁の陣に加わって敗残の身となり、秋田雄勝郡の院内銀山に幽居したという。
2019.01.17
戸部武直(とべたけなお)
生年不明~慶長五年(1600) 三郎左衛門。天童落城後、伊達家の元に身を寄せ反攻の機会をうかがっていた天童家の重臣・草刈将監を謀殺し、その功により長瀞で二千石を給されたという。庄内十五里ヶ原で勝利した本庄繁長が、余勢を駆って東根城に攻め寄せた際には、援軍として駆けつけ、相手方の侍大将を討ち取ったという。のち関ヶ原の戦いでは石田三成方に馳せ参じ、討死したという。父は、尾張国戸部城の城主であった戸部政直か。
2019.01.16
辻吉助(つじよしすけ)
生年不明~没年不明 加賀を称す。武蔵国の生まれ。北条家に仕えて数々の戦功を挙げ、下野足利の戦においては、北条氏直から感状を賜った。その後上杉家に仕え、慶長出羽合戦ののち最上家に仕えた。最上家改易後は、庄内藩酒井家に登用され、同じく最上家旧臣から召し抱えられた五十三騎の筆頭とされた。
2019.01.08
高橋英国(たかはしひでくに)
生年不明~没年不明 弾之助。 鮭延秀綱 の家臣。 最上義光 が 野辺沢満延 の勇力を試すために選んだ大力の持ち主七人のうちの筆頭。身の丈七尺の大男。そのため身に合う武具が無く、いつも素肌のままで戦っていた。太っていたこともあり裸豕之助(はだかぶたのすけ)と呼ばれていたのを、義光が「武太之助」に改めさせたという。のちに鮭延家を離れて浪人となり、雄勝郡寺沢の土民たちに助力を請われた戦にて討死したという。
2018.07.25
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