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「陳情不採択」顛末記―会議録から(下)

  • 「陳情不採択」顛末記―会議録から(下)

 

 「辺野古移設が唯一の解決策」―。世界一危険と言われる米軍普天間基地(沖縄県宜野湾市)の返還について、政府は一貫してこう主張している。つまり、この危険性を除去するためには辺野古新基地(名護市辺野古)を建設し、そこへ普天間基地を移設すしかないという「表裏一体論」である。ところが、今回の審査では「(陳情者が求める)辺野古新基地建設の中止と普天間の運用停止は矛盾する内容になっている」という珍妙な議論が展開された。たとえば、櫻井肇委員(共産党)や阿部一男委員(平和環境社民クラブ)は「この(矛盾)論にも一理がある。辺野古と普天間は一体的に捉えるべきだ」などとして、国が主張する「表裏一体論」に見事にはまり込むという体たらくを演じた。結果として、「普天間の固定化につながる」という国の“恫喝”(どうかつ)に屈したとさえいえる。その先に行き着くところは結局は沖縄総体に対する「無知・無関心」である。

 

 基地の増強につながる辺野古新基地の建設中止と普天間基地の運用停止を同時に求めることは何ら矛盾するものではない。むしろ、沖縄の民意が反映された当然の要求でさえある。「世界一危険な普天間基地の今後のあり方について、日米安保の恩恵を等しく受け入れている日本全体として、国民的な議論を盛り上げてほしい」―沖縄からのこうした究極の問いかけは結局、委員たちには届くことはなかった。米海兵隊が駐留する普天間基地も元をただせば、1960年代に本土の反対運動で沖縄に移駐してきたという歴史認識も持ち合わせていなかったようである。一体全体、何のための陳情審査であったのか。「!?」印は意味不明の質疑や意見表明に絶句した際の私のシグナルである。

 

 

【質疑応答】

 

●阿部一男委員(平和環境社民クラブ=社民党系)

 この陳情内容ですが、国民的な議論を通じて、沖縄の基地を全国でも持つべきだ、その負担を肩代わりするような覚悟を持つべきだ(!?)という意味にもなりますか。

●増子

 そういうことじゃありません。実は小金井市議会でもその点が問題になり、内部で議論を重ねた結果「この意見書は米軍基地の国内移設を容認するものではない」という文言を入れることで、採択にこぎつけた経緯があります。つまり、肩代わりが前提ではなく、まず議論をしようではないか、と。沖縄の米軍基地問題を「自分事」として、まず向き合おうじゃないかということです。

●櫻井肇委員(共産党)

 陳情というのは、あなたの個人的な発想で行うものではありません(!?)。議会としては誰に対して責任もって、どういう内容の意見書を提出するのか。そのことに責任を持たなければなりません。地方自治体(地方議会の誤りか!?)がどこに、どういう内容の意見書を出すのか、さっぱり分からないのですが…。

●増子

 どうも話が伝わっていないようですね。(国民的な議論という)沖縄の民意を私は本土に向けられた問いかけであると理解しています。本土に住む一人の人間として、その問いかけに応えるべく、陳情内容を意見書の形にして総理大臣など関係者に提出すべきである、と。桜井さんはどうも誤解しているようですね。

●内館桂委員(市民クラブ)

 沖縄の問題について、私は議員という立場ではなく(!?)、個人として非常に関心を持っています。ただ、当市議会にこの陳情が出されたということは、花巻市民にとってどのような問題を抱えていることになるのか―具体的に説明いただきたい。陳情者に対して、どれだけの花巻市民の賛同が得られているのか、(!!??)、詳しく教えていただきたい。

●増子

 沖縄の民意というのは当然、ご存じのはずだと思います。これは本土の我われに向けられた問いかけであると私は受け止めています。それでさっきの「公益」(当ブログの上を参照)にからんでくるんですけれども…。いわゆる、花巻市民の安心・安全にとって、沖縄の米軍基地はどんな風にかかわりがあるのか、と…。ちょっと、質問の趣旨が分かりません。

●藤原伸委員長(総務常任委員会委員長、明和会)

 参考人からの質問は許されませんので、了承願います。

●増子

 質問の意味が分からないから、聞いたんです。さっき言ったように、日米安全保障条約は日本の全国民の安心・安全を担保するために日米両政府が結んだものです。そういう意味では、花巻市民もこの条約の恩恵に浴している。このことが議論の根幹です。市民の賛同ということに関して、私は知る立場にありません。逆に陳情の趣旨を市民に分かるように説明するのが、議会側の責任、使命ではないでしょうか。

●藤原委員長

 他に参考人への質疑はありませんか。ないようですので、これで質疑は終わります。

 

 

【陳情審査】

●櫻井委員

 辺野古新基地の建設中止と普天間基地の運用停止は矛盾するものではないかという意見が大勢を占めているようで、これも一理あります(!?!?)。この件については、沖縄県と国が誠意をもって協議を行うという意見書を提出するということではどうか。

●鎌田幸也委員(市民クラブ)

 私も矛盾するように思います。ただ、沖縄県民の民意を尊重するという観点から、櫻井委員の意見書提出に賛同します。

●近村晴男委員(花巻クラブ)

 辺野古新基地の建設中止という沖縄県民の民意は理解できます。ただ、普天間基地の運用停止ということまで踏み込めば、日米安保全体の問題になってきます。私たちがちょっと、口を出せない範囲かな(!?)、と思います。

●阿部委員

 辺野古新基地の建設中止と普天間の運用停止ということは、一体的(!?)に考えることもできます。だから、これについては否決ということでも意味は分かると思います。

●内館委員

 この陳情については不採択でいくべきだと思います。地方自治体の自決権など自治体の本旨はどうあるべきなのか―など花巻市民に丁寧に説明していく必要があると思います。私はこの基地問題についてはよく分かりませんが(!?)、市民にとって分かりやすい議論をしながら、これを決めていかなければならないと考えます。

●藤原委員長

 他によろしいですか。盛岡(耕市、明和会)委員、横田(忍、市民クラブ)委員、菅原(ゆかり、公明党)委員もよろしいですね(異議なしの声あり)。これより、採決します。陳情を不採択にすることに賛成の諸君の挙手を求めます。全員、挙手でございます。よって、本陳情は不採択に決しました。

 

 

(写真は東日本大震災直後の議会傍聴席。議員たちがどう対応するのか―に内陸避難者の関心が集まった。満席だった傍聴席はいま閑古鳥。沖縄と同様、震災の記憶もいずこにか…=2011年6月定例会の際の議会傍聴席)

 

 

「陳情不採択」顛末記―会議録から(上)

  • 「陳情不採択」顛末記―会議録から(上)

 

 花巻市議会6月定例会に提出していた「辺野古・普天間」問題に関する陳情が付託先の総務常任委員会に引き続き、本会議最終日でも委員長や議長を除く全員の反対で不採択になった経緯については当ブログでその都度、取り上げてきた(5月13日、6月7日、6月13日)。今回、文書開示請求に基づき、不採択の根拠とされた総務常任委員会の会議録を入手した。この陳情に関しては今年3月、ほぼ同趣旨の内容が東京都小金井市議会で可決採択され、意見書がすでに内閣総理大臣など関係先に送付されている。なぜ、同じ地方議会の間でこんなにも天と地ほどの乖離(かいり)が生じたのか―。

 

 以下に陳情審査に際しての私の参考人陳述や質疑応答、各委員の意見表明などを趣旨を損なわない範囲で簡略に採録する。何回、読み返しても私にはその真意が伝わって来ない。ひょっとすると、審査に臨んだ各委員は陳情内容をよく理解しないまま、結論を急いだのではないか。だとすれば、憲法で保障された「請願(陳情)権」に対する明らかな冒涜(ぼうとく)であり、議会の自殺行為である。いや、待てよ。それ以前の議員の資質あるいは能力、そして議員としての使命感の欠如にこそ、問題の根源が潜んでいるのではないか。まずは小金井市議会の意見書を目を皿にして読んでいただきたい。この内容に異議を唱える人は余りいないと思う。ところが、わがイ-ハト-ブ議会の議員諸賢は全員がこぞって、異議を申し立てたのだった。!?!?

 

【参考資料】~小金井市議会の意見書全文

 

 沖縄県名護市辺野古において、新たな基地の建設工事が進められていることは、日本国憲法が規定する民主主義、地方自治、基本的人権、法の下の平等の各理念からして看過することの出来ない重大な問題である。

 

 普天間基地の海兵隊について、沖縄駐留を正当化する軍事的な理由や地政学的理由が根拠薄弱であることは既に指摘されており、沖縄県議会はこれまで何度も政府に対して「在沖海兵隊を国外・県外に移転すること」―を要求する決議を可決採択している。「0・6%に70%以上の米軍専用施設が集中する」という沖縄の訴えには、「8割を超える国民が日米安全保障条約を支持しておきながら、沖縄にのみその負担を強いるのは『差別』ではないか」という問いが含まれている。

 

 名護市辺野古に新基地を建設する国内法的な根拠としては、内閣による閣議決定があるのみである。沖縄の米軍基地の不均衡な集中、本土との圧倒的な格差を是正するため、沖縄県内への新たな基地建設を許すべきではなく、工事は直ちに中止すべきである。

 

 また、普天間基地の代替地について、沖縄県外・国外移転を、当事者意識を持った国民的な議論に決定すべきである。安全保障の問題は日本全体の問題であり、普天間基地の代替施設が国内に必要な否かは、国民全体で議論すべき問題である。そして、国民的な議論において、普天間基地の代替施設が国内に必要だという世論が多数を占めるのなら、民主主義及び憲法の精神にのっとり、一地域への一方的な押付けとならないよう、公正で民主的な手続きにより決定することを求めるものである。なお、この意見書は米軍基地の国内移設を容認するものではない。

 

 よって、小金井市議会は国会及び政府に対し、以下の事項(略)の解決を強く求めるものである。以上、地方自治法第99条の規定により、意見書を提出する。

 

 

【参考人陳述】(要旨)

 

 今回の陳情の大きな背景には新聞やテレビで報じられている、いわゆる普天間飛行場(普天間基地)の辺野古移設問題があります。この問題を通じて、民主主義とは何か、あるいは地方自治はどうあるべきかということを根本的に議論していただければと思います。若干、論点整理をしたいと考えます。この種の問題に関して、地方議会でいつも持ち出されるのが国の「専管事項論」です。安全保障や軍事、防衛に関する事項はもっぱら、国にゆだねられるべきで、地方議会にはその権限はないという論法です。

 

 ところがよく調べてみると、専管事項を定めている法的な根拠は一切ありません。国が一方的にそう言っているだけで、逆に憲法上では地方自治に関する規定が4項目にわたって明記されています。とくに、重要なのは第95条です。これは一つの地方自治体に関わる“特別法”を制定する場合には、当該自治体の住民投票で過半数の賛成を得なければならない、と規定されています。法哲学者の井上達夫さんや憲法学者の木村草太さんらは「辺野古への移設は実質的な新基地建設に相当するので、第95条が適用されるべきだ」と主張しています。

 

 そろそろ、この専管事項論の“呪縛”から抜け出すべきだと考えます。もうひとつ、これに関連して、地方自治法第99条は「普通地方公共団体の議会は、当該普通地方公共団体の公益に関する事件につき意見書を国会又は関係行政庁に提出することができる」と規定しています。この場合の「公益」と沖縄の米軍基地との関係もしばしば、論議の中心になります。ご存じのように、日米安全保障条約は日本全体の防衛義務(安心・安全)を定めた条約です。世論調査では国民の約8割がこの条約の必要性を認めています。つまり、花巻市民の安心・安全も沖縄県にその7割以上が偏在する米軍基地によって支えられている。この認識が非常に重要です。

 

 今回の陳情については、東京都の小金井、小平両市議会が同趣旨の意見書を採択しています。私自身を含め、「沖縄」問題へのかかわりを遠ざけている根っこには、実は沖縄への差別意識があるのではないかと感じています。その入り口に私たちはいま、立たされているのではないかと思います。

 

 

(写真は現職時代の質問光景。議会の外に出てみて、その閉鎖性が逆によく見えるようになった=花巻市議会議場で)

 

 

 

「見えない涙」と「涙ぐむ目」

  • 「見えない涙」と「涙ぐむ目」

 

 『見えない涙』というタイトルの詩集が知人から送られてきた。作者は敬愛する批評家で随筆家でもある若松英輔さん(51)である。「奥さまのご命日(7月29日)を控え、この詩集を送ります」という一筆が添えられてあった。26篇が収められた詩集のあとがきで、若松さんは宮沢賢治の詩「無声慟哭」(『春と修羅』所収)を取り上げ、その詩の内容についてというより、題名そのものに関して以下のように書いていた。

 

 「『慟』は『いたむ』と読む。それは『悼む』と同義だが、『慟』の文字の方が、心の揺れ動くさまがいっそうはっきりと示されている。『哭』は『犬』の文字があるように、人が獣のように哭(な)くことを指す。こうした行為に賢治は『無声』という言葉を重ねる。本来ならば、天地を揺るがすような声で哭くはずなのに、声が出ない。哭くことが極まったとき、人は声を失うというのである。同質の現象は声ばかりではなく、涙においても起こる。悲しみの極点に達したとき、目に見える涙は涸れ、その心を見えない涙が流れることがある。悲しみの底を生きている人はしばしば、声に出して哭かず、涙を見せず暮らしている」

 

 わが家からほど近い、北上川河畔に賢治が自耕したといわれる「下の畑」があり、その中央に「涙ぐむ目」という木製の標識が立っている。賢治は生前、8枚の花壇の設計図を残しており、そのひとつが「tearfuleye」(涙ぐむ目)である。設計原画ではひとみは黒色系のパンジ-、その周辺に青系のブラキコメ(姫コスモス)を配し、花壇の目尻と目頭に白い睡蓮(スイレン)の水がめを置いて、この花が開くと涙ぐむ目のように工夫が凝らされている。12年前、「下の畑」を管理する地元有志の手で模型が造られた。約130平方メ-トルの花壇には色とりどりの季節の花が絶えることがない。

 

 「下の畑」のわきに、賢治が農作業の疲れをいやすために腰を下ろしたと伝えられる大きな石がごろんと転がっている。私も散歩のたびにその石を拝借して、しばしの瞑想にふけることがある。梅雨の合間のある日、いただいた詩集を手に散策に出かけた。川面を渡る風が肌に心地よい。遠方の高台に見えるのが、賢治が農民芸術などを講義した羅須地人協会の跡地である。ふいに、「涙ぐむ目」から「見えない涙」のひとしずくがこぼれ落ちたように思った。たとえば、以下のような詩篇である。妻が旅立って、もうすぐ一年になる。「声に出して哭かず、涙を見せず暮らしている」―そんな自分の姿を私はいま、見ているのかもしれない。

 

《旧い友》

あたらしい友達で

日常をいっぱいにしてはならない

苦しいときも

じっと

かたわらにいてくれた

旧友の席がなくなってしまう

 

あたらしい言葉で

こころを一杯にしてはならない

困難なときも

ずっと

寄り添ってきた

旧(ふる)い言葉の居場所がなくなってしまう

 

言葉は

思いを伝える道具ではなく

共に生きる

命あるもの

 

だから人間は

試練があるとき

もっとも大切な何かを求めるように

たった一つの言葉を探す

 

たしかな光明をもとめ

わが身を賭して

伴侶となるべき一語を

希求する

 

 

《悲しさを語るな》

 

悲しさを語るな

悲しみを語れ

 

悲しさの度合いではなく

お前が背負った

世にただ一つの

悲しみを語れ

それだけが

還らぬ者への呼びかけになる

 

苦しさを語るな

苦しみを語れ

強き光を放つ

苦痛を語れ

その営みは

生きる意味の顕(あら)われとなる

 

愛を語るな

愛する人を語れ

お前よりも お前の魂に近い

その人を語れ

それは未知なる

お前自身を語ることになる

 

 

(写真は「下の畑」の中にある「涙ぐむ目」の花壇=花巻市桜町の北上川河畔で)

 

映画「新聞記者」…今昔物語

  • 映画「新聞記者」…今昔物語

 

 「この一件については、あまり深入りしない方が身のためですよ」―。スクリ-ンの向こう側から、妙にくぐもった陰湿な声が聞こえてくるような錯覚に陥った。いま評判の映画「新聞記者」(藤井道人監督:脚本、シム・ウンギョン:松坂桃李同時主演)を見ていた時である。その声を電話口で聞いたのはもう、40年近くも前のことである。当時、私は政治資金などを通じて、政界に隠然たる影響力を持つある黒幕を追っていた。あらゆる伝手(つて)を使ってやっと面会にこぎつけた直後から、帰宅を見計らうようにベルが鳴るようになった。最初は何となく不気味だったが、やがて電話の主が「内調」(内閣情報調査室)だということが判明した。

 

 この国に新聞記者は必要なのか―。映画「新聞記者」は国家権力の闇に迫ろうとする女性記者・吉岡エリカ(シム)と、政権に不都合なニュ-スをコントロ-ル(情報操作)する任務を与えられた、内調勤務のエリ-ト官僚・杉原拓海(松坂)との壮絶な闘いと葛藤を描いている。モリカケ疑惑や沖縄の辺野古新基地建設などをめぐる官邸記者会見で鋭い質問を浴びせ続ける、東京新聞記者・望月衣塑子さんの同名の著書が原作となっている。「『リアル』を撃ち抜く衝撃の『フィクション』/現代社会にリンクする社会派エンタテインメント」とパンフレットにはある。

 

ある夜、東都新聞社に「医療系大学の新設」に関する極秘公文書が匿名FAXで届けられる。表紙には謎めいた羊の絵が描かれている。内部によるリ-クなのか、あるいは誤報を誘発するための罠か?内閣官房VS女性記者という構図は否応なしに「権力とメディア」、「組織と個人」という現在進行形のせめぎ合いにオ-バ-ラップしていく。外務省時代の上司がビルの屋上から投身自殺したことによって、杉原は内閣に対する不信感を募らせていく。そして、上司の通夜が行われた日、吉岡と杉原は偶然言葉を交わすことになる。2人の人生が交差する先に、官邸が強引に進めようとする驚愕(きょうがく)の計画が浮かび上がってくる……。まさしく「いま現在」を照射する緊迫の場面である。

 

「集団の中にいると忖度(そんたく)してみんなの空気を読んで、自分の信念を曲げていくこともある。いまの日本の特に僕たちの世代はそういうことがめちゃめちゃうまいと思っていますが、それを打破したかった。個人個人が自分たちの人生をどう変えていくかということを真剣に考えてほしいと思います」(6月28日付「週刊金曜日」)―。藤井監督はインタビュ-でこう答えている。臨場感のある場面展開に引き込まれながら、私は別の感慨にふけっていた。「疑似体験を持つ自分にとっては、内調に嗅ぎつけられることこそが新聞記者としての誇りだった。時として、そのネタは政権を揺るがす事態に発展する可能性を秘めていた。会社全体としても決然と権力に立ち向かっていた。それが今では、マスメディア自体が権力に迎合しているのではないのか」―。

 

新聞記者の醍醐味(だいごみ)は何といってもルポルタ-ジュの執筆である。いろんな現場に身を置き、そこに住む人々の声にただひたすら耳を傾け、風土のたたずまいに包まれる。やがて、七転八倒する自分が立ち現れる。ペンがひとりでに動き出す。真剣勝負の一瞬である。その「ルポ」欄が最近の新聞からほとんど姿を消してしまった。わが古巣も例外ではない。私は物心がついて以来、続けてきた「朝日新聞」の購読を、この7月から止めた。「世界の報道の自由度ランキング」(国境なき記者団)によると、日本は2016年から2年連続で72位とG7各国の中で最下位に転落した。この映画はこうした状況の中で、産声をあげた。エグゼクティブプロデューサーの河村光庸さんはパンフなどで、こう述べている。

 

「民主主義を踏みにじるような官邸の横暴、忖度に走る官僚たち、それを平然と見過ごす一部を除くテレビの報道メディア。最後の砦である新聞メディアでさえ、現政権の分断政策が功を奏し、『権力の監視役』たる役割が薄まっている。集団の同調圧力の中で、今後個人としてどう生きていくのかという映画を目指した」

 

 

 

(写真は映画「新聞記者」のポスタ-から=インタ-ネット上に公開の資料から)

 

 

 

 

アジサイとスギナとカエルとヘビ…

  • アジサイとスギナとカエルとヘビ…

 

 玄関先と庭のアジサイ(紫陽花)が咲いた。亡き妻が愛したガクアジサイである。一周忌(7月29日)を前に今月初め、荒れ放題だった草取りをシルバ-人材センタ-に依頼。花を縁取る額縁のような見事な咲きっぷりに見とれていたのもつかの間…「難防除雑草」と忌み嫌われるスギナがアジサイの足元に襲いかかろうとしているではないか。地下茎を伸ばして繁茂し、草花の大敵である。さて、腰をかがめて引き抜こうとするも、途中でプツンと切れてしまい、その先はまるで地下をはいめぐるヘビのよう。近くのため池から、カエルの大合唱が聞こえてきた。こうなったらもう、「蛙の詩人」と呼ばれた草野心平さん(1903~1988年)に登場してもらうしかない。

 

 るるるるるるるるるるるるるるるるるるるる」(「春殖」)―。ひらがなの「る」だけを20個並べた不思議な詩がある。オノマトペ(擬音・擬態語)の天才と言われた心平さんの詩集『第百階級』は収録された45編すべてがカエルをテ-マにしている。そのひとつ「号外」はヘビににらまれ通しのカエルがその死に歓喜する詩である。虐げられた階級に位置づけられるカエルたちが抑圧者たるヘビの死を喜んでいる光景が目に浮かんでくる。私にはカエルの鳴き声は「ぐわっ、ぐわっ」としか聞こえないが、心平さんの手にかかると、こんな風に変奏する。「ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ」という異様なオノマトペがカエルの喜びの強烈さをよく伝えている―と解説にはある。
 

 界隈でいちばん獰猛な縞蛇が殺された
 田から田へ号外がつたはって
 みんなの背中はよろこびに盛り上がった

 ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
 ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
 ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ

 ぬか雨の苗代に
 蛾がふるへてゐる

 ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
 ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ
 ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ

 

 さて、ヘビならぬ我がガクアジサイの仇敵のスギナといえば、梅雨がもらす慈雨を思いっきり吸い込んで、日に日に勢いを増すばかり。老残の身との戦いはどう見てもスギナの方に分がありそうである。妻が旅立った昨年の夏も紫陽花は見事な花を咲かせていた。あと1か月余り、ほとんど“勝ち目”のない、スギナとのいたちごっこを私は続けなければならない。そんな時の応援歌こそがカエルたちの雄たけびである。「ぎやわろッぎやわろッぎやわろろろろりッ」―。梅雨空の下のハ-モニ-は心地よくもある。

 

 そういえば、宮沢賢治の『春と修羅』に共鳴した心平さんは生前の賢治とは会う機会には恵まれなかったが、その作品のすばらしさを世に紹介し続け、最初の全集(文圃堂版『宮澤賢治全集』)の刊行に尽力した。忘れかけていた、そんなこともカエルたちは思い出させてくれた。

 

 

(写真はガクアジサイの見事な競演。梅雨空に一番似合う、と亡き妻は言っていた=6月27日、花巻市桜町の自宅で)

 

 

《追記》~カエル塾

 

 6月28日付朝日新聞の「ひと」欄を見てびっくり。「カエル塾」の塾長を名乗る宮城県気仙沼市・唐桑半島の馬場国昭さん(74)のことが紹介されていたからである。辛うじて東日本大震災から生き延びた、自称「唐桑の不良おやじ」の馬場さんは学生たちに震災体験や波乱万丈の人生体験を語り続ける。塾生はのべ1万人。カエルのぬいぐるみを拾った学生がこう名づけた。この空間からもカエルたちの雄たけびが聞こえてくるようである。恋に悩む女性に対しては「思い詰めるな。スペアの男を作れ」―。それにしても、“カエル談議”がこんな風にして相まみえる、とは!?