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沖縄から(10―完)…旅の終わりに

  • 沖縄から(10―完)…旅の終わりに

 

 今回の「旅の終わり」はまさに突然、訪れたのだった。1月10日未明の午前2時ごろ、以前から私の沖縄訪問の際に“杖”となり、“足”となってくれていたUさんが同宿したマンスリ-マンションの浴槽で倒れているのを発見した。4年前に千葉県から沖縄に移住し、私のような不案内な旅行者を観光地ではない、たとえば沖縄戦の戦跡や米軍基地の現状を肌で知ることができる現場へと解説付きで連れて行ってくれた。亡き妻をこうした場所に案内してくれたのもこの人だった。本土から訪れる人たちを乗せる「辺野古バス」の運行の手助けをしたり、かと思えば、反対派の拠点テントの中で大鍋にカレ-を仕込んでいる姿も目撃している。

 

 幸い、一命は取り留めたものの、いまも那覇に近い病院で治療を続けている。沖縄と本土をつなぐ最前線にはUさんのように、文字通り“架け橋”に徹する人たちがいる。Uさんとの出会いがなければ、沖縄の記憶を辿りたいという私の数度にわたる「沖縄訪問」も実現していなかったかもしれない。まだ、58歳。一進一退の容態を気遣いつつ、同行者としての責任を感じる日々……

 

 Uさんの身の上に起こった突然のアクシデントが30年も前の、もうひとつの「旅の終わり」の記憶を呼び覚ましたようだった。北海道勤務を終えて東京本社に転勤する際、私は当時流行(はやって)いた演歌「旅の終わりに」(冠二郎)の一節を挨拶状の冒頭にしたためた。赤面するようなキザな文章だが、現代ニッポンを照射しているという意味ではそれほど的外れではないような気もする。恥のかき捨てついでにその要旨を以下に―

 

●「春にそむいて/世間にすねて/ひとり行くのも/男のこころ…」―。吹雪が舞う北の街で、この唄を口ずさむのが好きでした。報道部有志が送別会を催してくれた翌日、残雪の山並みを眼下に見ながら、五木寛之の同じ題名の文庫本を読みふけっていました。『旅の終わりに』。津軽海峡をひとまたぎした飛行機はあっという間に「トウキョウ」に到着していました。この世界に足を踏み入れて25年。水俣病や被差別部落、そして筑豊…。中央から切り捨てられていく姿を長い間、見続けました。途中、少し寄り道をして北海道へ。ここでもまた、炭鉱閉山や農漁業の衰退、和人の侵略にさらされ続けるアイヌ民族の苦悩を知りました。そしていま、25年ぶりにトウキョウの地に立っています。

 

●地下鉄の中で分厚い本を手にした若い女性を見かけました。題名をのぞいて、ぎょっとしました。『常勝思考』。捨て石の山が地方に築かれている間に、中央は勝つことだけに熱中していたのでした。言葉の片鱗として「上昇志向」という程度の記憶しかない浦島太郎にとっては驚くべき出来事でした。「はじまり」があるから「終わり」もあります。南と北の「目」を大事にしたいと思っています(1990年4月の転勤挨拶状から)

 

 沖縄訪問の際、避けて通ることが許されない“関所”がある。「風貌からして叛逆老人。白いあご髭を長く垂らして、手を振って熱弁をふるう」(鎌田慧著『叛逆老人は死なず』)と紹介されている彫刻家の金城実さん(81)である。実は最初に金城さんに引き合わせてくれたのもUさんだった。「関所に立ち寄ってから、田舎に戻ります。早く元気になってまた、水先案内になってください」―。病室に見舞うとUさんは混濁する意識の中で、かすかにうなずいたようだった。うしろ髪がひかれる思いで、病院をあとにした。

 

 「うしろに回ってよく見てみろ」と金城さんがうす暗いアトリエの中で言った。最新作の木彫の背後に「Home-Less」(ホ-ムレス)と刻んであった。「本土に打ち捨てられた沖縄の現実を描きたかったんだよ」と金城さん。「叛逆老人の全国ネットワ-クっていうのはどうですか。南と北から“中央”をにらみ返すんですよ。オジィこそがその代表格にぴったりだと思うんです」と誘惑すると、まんざらでもないような表情で自慢のヒゲをなでまわした。この報告を閉じるに当たって、記録作家・故上野英信さんの“遺言状”(1月23日付当ブログ)について、「筑豊」を「沖縄」に置き換えた浅慮(せんりょ)を反省したい。前者の捨て石の上にいまさらに「後者」の捨て石が築かれようとしているという意味では、両者は並立でなければならない。そして、さらにつけ加えるとすれば、北のアイヌ民族の受難も…

 

 

筑豊よ、沖縄よ、アイヌよ

日本を根底から

変革する、エネルギ-の

ルツボであれ

火床であれ

 

 

 自前の「背もたれ」を探し求める今回の旅は道半ばで終わった。しかし、この「終わりなき旅」はUさんに背中を押されるようにして、ふたたび再開されると私は確信している。二人三脚の旅を支えてくれたUさんへの心からの感謝と一日も早いカムバックを祈りつつ……

 

 

 

 

(写真は流木などを拾い集めて、ノミを振るう金城さん。”叛逆老人”の作品にはなぜか「鬼」を題材にしたものが多い=インターネット上に公開された写真より)

沖縄から(9)…“原点”が存在する

  • 沖縄から(9)…“原点”が存在する

 

 「通りすがりのパフォ-マンスに自己満足するだけではないのか」―。米軍普天間飛行場(宜野湾市)の名護市辺野古への移設(新基地建設)現場の最前線…米軍キャンプ・シュワブのゲ-ト前を私は行ったり来たりしていた。ほぼ毎日、土砂を満載した大型ダンプカ-やコンクリ-トミキサ-車数百台がこのゲ-トから大浦湾の埋め立て現場へと向かう。朝と昼と午後の1日3回、進入を阻止しようと数十人が座り込む。島のオバァやオジィが大半で、年金生活者とおぼしき移住者や現場視察の教員や地方議員らの姿も。私を逡巡(しゅんじゅん)させていたのはある種の“後ろめたさ”だったのかもしれない。「こっちにおいで」とオバァが手招きしている。柔道の“空気投げ”でも食らったように、私は道路を横断していた。

 

 本土では最近、ほとんど感じることのない不思議な“小宇宙”がそこには広がっていた。沖縄県警の機動隊員と警備会社の警備員が前後を固め、基地内では沖縄防衛局の職員が記録用のビデオカメラを回している。一見、物々しい“敵対”の光景なのだが、この空間に身を置いてみると感覚がまるで違うのである。「ツ-ショットをお願いね」とサングラスをかけた機動隊長と腕を組むウチナンチュ(沖縄)の中年女性。「それはちょっと…」と言いつつもちゃっかりと写真に納まっている。「あなたはどこから?」と問われ、「岩手から」と応答するとすかさず「岩手からも来てるぞ~」とシュプレヒコ-ルが響き渡った。ジョギングをする米兵と日本製の小型軽トラックが目の前をすれ違った。「腹が出っ張っていたら、兵隊は務まらないさ」とクバの編み笠をかぶったオバァ。「火」と大書された軽トラには「EXPLOSIVES」(爆発物)というステッカ-が張られていた。

 

 ゲ-ト前で「カチャ-シ-」が始まった。三線(さんしん)に合わせて踊る沖縄伝統の手踊りである。機動隊員はもちろんのこと、地元出身者が多いといわれる警備員にとってもこの伝統舞踊は体に染みついているはずである。これを踊れなければ、ウチナンチュの恥とさえ言われる。「この人たちもきっと、心の中で一緒に踊っていたのではないのか」と私にはそう思えてくるのだった。「そろそろ、余興の時間は終わりにしてよろしいでしょうか」と機動隊長はハンドマイクを握った。「すみやかに歩道に出てください。従わない場合は道路交通法違反の容疑で強制排除に入ります」―

 

 カチャ-シ-が終わるタイミングに合わせたかのような“最後通告”に私は妙な感慨を覚えてしまった。「敵対の中のほんわかした連帯。そして、こうした連帯の輪に対し、総がかりで敵対しているのは他ならぬ私たちヤマトンチュ(本土)ではないのか。無知・無関心という装いをこらしながら…」―と。「暇とお金が少したまったら、また来てね。とにかく、諦めないで続けることが大切なのよ」とさっきのオバァが手を差し伸べてくれた。

 

 不意に著名な思想家で詩人の谷川雁(1923―1995年)の文章の一節が脳裏をかけめぐった。谷川は「原点が存在する」というエッセイにこう書いている。「『段々降りてゆく』よりほかないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギイがある。…一刻の休みもなく私達は新しい子供達を創らねばならない。まだ暁闇(ぎょうあん)以前に横たわっている、あの嬰児(えいじ)のために。そのために私達は『力足を踏んで段々降りて』ゆこう。平和のために戦い、平和へののぞみを歌おう。汝、人類の生存を望むか」(1954年5月)

 

 日本最大の産炭地だった「筑豊」(福岡県)に思想の砦(とりで)としての“サ-クル村”を設立し、切り捨てられていく炭鉱労労働者の人権回復や「60年安保」闘争の戦列に加わった谷川の「原点」がこの文章に凝縮されている。谷川の同志だった記録作家、故上野英信さん(享年64歳)は1987年、病床のメモ用紙にこう書きつけた。

 

筑豊よ

日本を根底から

変革する、エネルギ-の

ルツボであれ

火床であれ

 

 沖縄から南米に移民した一族の苦難の転変を描いた『眉屋私記』は上野の代表作のひとつである。沖縄にも心を寄せ続けていたのである。私はいま、敬愛するこの作家の“遺言状”に一部の変更を加える無礼を許していただきたいと思う。「筑豊」を「「沖縄」へと…。谷川のいう“原点”はいま、南のこの地にこそ存在していると思うからである。

 

 

 

(写真は機動隊と警備員の壁にはさまれながら、カチャ-シ-を踊るオバァやオジィたち。奇妙な連帯感が漂っていた=1月9日午後、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブのゲ-ト前で)

 

 

 

 

沖縄から(8)…南の果ての“マラリア地獄”

  • 沖縄から(8)…南の果ての“マラリア地獄”

 

  「パイパティロ-マ」―。日本最南端の沖縄南西諸島・波照間島のさらに南の海上にこんなロマンチックな名前の幻の島があると聞いて、この島を訪れたのはもう20年以上も前のことである。この地方の方言で「パイ」とは「南」、「パティロ-マ」とは「波照間」を意味し、「人は死んだら、その霊魂は争いもない平和なパイパティロ-マへと旅立つ」と言い伝えられている。波照間島は南十字星を間近に観察できることでも知られ、私のまなうらにはまだ、流れ星の光跡がくっきりと刻まれている。

 

 最前線に送られた護衛隊やスパイ虐殺、集団強制死…。ドキュメンタリ-映画「沖縄スパイ戦史」(1月16日付当ブログ)は「軍隊とはそもそも最初から住民を守る組織ではない」という衝撃的な事実を白日の下にさらした。そして、その悪魔の手はやがて、この「星降る」島にも…

 

 沖縄戦が始まる数か月前、「山下虎雄」を名乗る若い男が波照間国民学校の教師として、赴任した。用務員をしていた西里スミさん(当時16歳)は映画の中でこう証言する。「顔は面長。毎日、木刀を下げて。ズボンはカ-キ色。初めてヤマト(日本人)を見た」。民家に下宿した男は物腰もやわらかで、すぐに島民の間に溶け込んでいった。しかし、戦局が急転すると、態度が一変した。軒下に隠し持っていた軍刀を振り回し、「西表(いりおもて)島へ移住せよ」と迫った。当時、この島はマラリアの有病地帯として恐れられていた。米軍の上陸を想定し、捕虜になった住民がスパイ活動をさせられるのを事前に防止する―というのが強制移住のねらいだった。

 

 「陸軍軍曹・酒井清」―“山下先生”の本名である。陸軍中野学校出身で、肩書は「離島残置要員特務兵」。強制移住先の西表島では島民の三分の一に当たる約500人がマラリアにかかって犠牲になった。素顔をさらけ出した酒井は今度は家畜の処分を命令した。牛や馬、豚、ヤギ、ニワトリなどその数7千以上。「米兵は肉食人種だから、その糧食を絶つ」というのが表向きに理由だったが、実は島内の製糖工場に持ち込み、秘かに燻製処理をして日本兵の胃袋に収まっていたことがのちに明らかになった。こうした酒井の横暴に抗議するため、当時の波照間国民学校の校長らが舟で西表島を脱出して、石垣島の独立混成第45旅団長に直訴。ようやく疎開命令の解除を取り付けたが、酒井は聞く耳を持たなかった。

 

 映画の中で、酒井の肉声が記録された貴重なカセットテ-プが初めて公開された。「わっはは」と高笑いをした後、酒井はこう続けている。「その~、民を虐(しいた)げてね。軍が横暴を振るうということはなかったと、私は断言できますよ」―。島民を“マラリア地獄”に突き落とした酒井は戦後を生き延びて、3回も波照間島を訪れている。約40年前の最後の訪問時の際、島民の代表19人は連署で絶縁状を突きつけた。「あなたは、今次対戦(ママ)中から今日に至るまで名前をいつわり、波照間住民をだまし、あらゆる謀略と犯罪を続けてきながら、何らその償いをせぬどころか、この平和な島に平然として、あの戦前の軍国主義の亡霊を呼びもどすように三度来島したことについて、全住民は満身の怒りをこめて抗議する」―。戦後、酒井は滋賀県で工場を経営していたが、骨がらみの軍国主義から抜け出すことなく一生を終えた。

 

 「いま、ネット社会では沖縄戦自体がなかったとする歴史修正主義が堂々とまかり通っている。与那国島や石垣島、宮古島などで進められている自衛隊配備は決して、過去の話ではない。波照間の悲劇と地続きだと考えなくてはならない。いや、沖縄だけでなく、日本列島全体がアメリカの防波堤になりつつある」―。映画上映会の記念講演で、監督のひとり、三上智恵さんはこう力説した。辺野古新基地建設の最前線で反対の座り込みを続けている島袋文子さん(90歳)が車いすを押しながら、三上さんに声をかけた。「沖縄戦の体験者として、その闇にメスを入れてくれてありがとうね」

 

 世代を架け橋するその光景を写真に収めながら、私は石垣島で同じ“マラリア地獄”を体験した山里節子さん(1月7日付当ブログ参照)の話を思い出していた。「自衛隊の造成現場を見ただけでは戦争の本当の恐ろしさはわからない」と道すがら、山里さんはそう言ったのだった。石垣島の島民が強制移住させられた「白水」地区はうっそうたるジャングルの中にあった。そのかたわらに「白水霊水」を売り物にする健康食品会社の作業場があった。「この島にはね、特攻基地も大きな飛行場もあったのよ。ほら、向こうの開けたあたりにね」―。私は指さすその方向に視線を向けたまま、ぼうっと立ち尽くしていた。

 

 米軍基地の固定化と日米地位協定の導入を決めた「日米安保」改定(60年安保)から19日で60年を迎えた。新条約に署名したのは当時の元岸信介総理大臣で、現安倍晋三総理大臣の祖父に当たる。この節目の日にひょんなことを思い出した。幻の泡盛といわれる波照間産の「泡波」は当時もプレミアムがつくほど高価だった。大枚をはたいてお祝い用の”益々繁盛”(二升5合瓶、4・5リットル)を買い求め、後生大事にわが家に持ち帰ったことを懐かしく思い出す。友人や知人にお振舞いをし、中身はあっという間に空になったが、この巨大なボトルはいまも私の大事な宝物である。

 

 

 

 

(写真は沖縄戦体験者の島袋さん(右)と三上監督は戦争の闇の深さを話し合った=1月13日、沖縄・読谷村の読谷村文化センタ-で)

  

沖縄から(7)…もうひとつの「桜を見る会」~ソメイヨシノとカンヒザクラ

  • 沖縄から(7)…もうひとつの「桜を見る会」~ソメイヨシノとカンヒザクラ

 

 貴様と俺とは 同期の桜/同じ兵学校の 庭に咲く/咲いた花なら 散るのは覚悟/みごと散りましょ 国のため」―。“裏の戦争”ともいわれるドキュメンタリ-映画「沖縄スパイ戦史」(三上智恵×大矢英代監督、2018年)を観ながら、太平洋戦争中、旧日本軍の間で好んで歌われた軍歌「同期の桜」の一節が唐突に口からもれた。戦死を美化する「散華」(さんげ)のシンボルがこのソメイヨシノ(染井吉野)なら、「散るな、生きろ」と叫ぶのは南の島に咲き誇るカンヒザクラ(寒緋桜)である。この映画はヤマト(日本)とウチナ―(沖縄)との気の遠くなるような精神の隔たりをふたつの「サクラ」に託した物語でもあった。

 

 敗戦1年前の1944年の晩夏、特務機関「陸軍中野学校」から42人のエリ-ト青年将校が秘かに沖縄に送り込まれた。少年ゲリラ兵の養成や軍命による強制移住、マラリア地獄、はてはスパイ虐殺…。第32軍の牛島満司令官が自決することによって、「沖縄戦」が表面上終結したとされる「6・23」(1945年)以降も北部の山岳地帯では凄惨な“秘密戦”が繰り広げられていた。青年将校たちが作戦に動員したのは、まだ10代半ばの少年たちだった。「護郷隊」と呼ばれた。映画は当時の生存者を探し当て、戦後初めてその闇を浮かび上がらせた。

 

 沖縄本島北部―国頭郡大宜味村の小高い山にカンヒザクラが花を咲かせている。植樹を続けているのは瑞慶山良光さん(91歳)。16歳の時に護郷隊に召集された。死線をさ迷った末に奇跡的に生き残ったが、長い間「PTSD」(心的外傷後ストレス障害)に侵された。“兵隊幽霊”と蔑(さげす)まれ、座敷牢に閉じ込められた。その瑞慶山さんはいま、戦地に散った若い戦友69人分の苗木を手塩にかけて育てている。沖縄で「花見」と言えば、カンヒザクラを指す。1月初旬から開花が始まる。一部満開になった桜の木の下で瑞慶山さんら2人が微笑みながら、握手する場面が映画に出てくる。

 

 同じ護郷隊の一員だった高江洲義英さん(当時17歳)はこれまで「戦死」として記録されてきたが、数年前、戦友の証言から実は日本軍の軍医によって、射殺された事実が明らかになった。「破傷風から精神に異常をきたし、軍務の足手まといになる」というのがその理由だった。瑞慶山さんはショックに打ちひしがれる弟の義一さんをほころび始めたカンヒザクラの下に誘った。可憐な一重の花びらを見上げながら、二人は固く手を握り合った。「もう、忘れていいよ。わたしがここで、覚えているから」と瑞慶山さん。濃いピンクの花弁は南の島の太陽を体いっぱいに浴びながら育った護郷隊の少年たちの笑顔のように見えた。

 

 戦後、護郷隊を組織した青年将校の中には「懺悔」(ざんげ)の気持ちから、1000本以上の桜や果樹の苗木を沖縄に送り続けた人もいた。しかし、亜熱帯の地でソメイヨシノが根付くことはなかった。この桜は大和魂が息づく「ヤマト」の地でしか花を咲かせることはできまいと思う。ふと、現実に引き戻される。「桜を見る会」や「サクラを集める会」に浮かれた“同期の桜”たちよ、そろそろ、ソメイヨシノに殉じて潔(いさぎよ)く散ったらどうなのか!?(2019年12月18日付当ブログ参照)。かつて、護郷隊が生死の彷徨(ほうこう)を余儀なくされた沖縄北部のまち…読谷村でこの映画会は開かれた。誘ってくれたのは現在、辺野古新基地建設反対の最前線に立つ金城武政さんである(1月11日付当ブログ参照)。上映後、金城さんがポツリと口にした。

 

 「軍隊は住民を守ってはくれない。辺野古の現場でも自衛隊の配備が進む宮古や石垣などの南西諸島でも、護郷隊の再現が秘かに計画されているのです」―。今年の「桜(カンヒザクラ)を見る会」は羽地内海(はじないかい)を眼下に望む瑞慶山さんの桜林で2月1日に開催される。那覇市内では今月6日、カンヒザクラが開花した。平年より12日、昨年に比べて4日早い開花である。

 

 

 

 

(写真はカンヒザクラの下でかつての戦友たちを偲ぶ瑞慶山さん(左)と高江洲義一さん=インタ-ネット上に公開の映画の一シ-ンから)

 

 

沖縄から(6)…「寄り添う」意見書

  • 沖縄から(6)…「寄り添う」意見書

 

 「あなたの粘り腰が実を結びましたよ」という開口一番に私は思わず、頬(ほほ)をゆるめてしまった。新基地建設(名護市辺野古)の反対運動の先頭に立つ金城武政さん(63)に再会するのは3年ぶり。「この内容ならヤマトの人たちもさすがにそっぽを向くわけにいかんでしょうね」―。「沖縄県民の気持ちに寄り添うことを求める」意見書には沖縄における米軍基地の偏重に触れながら、簡潔にこう書かれていた。「沖縄県民が深い悲しみの中にいる今こそ、その負担の軽減につなげ、これまでの敬意と感謝を示すためにも、沖縄県民の気持ちに寄り添うべきときである」

 

 埼玉県川越市議会(三上喜久蔵議長、定数36)は昨年12月定例会に提出されていた「辺野古新基地中止」「普天間無条件返還」「沖縄県民の民意尊重」…の「3項目」請願を賛成10反対24で不採択とした。この請願には市民有志が街頭などで集めた5800筆の署名も添えられていた。議員のひとりが「川越市民のこの民意も無視することはできない」として、3項目だけを切り離して意見書を採択すべきだとする緊急動議を提出。その結果、「3項目」請願の反対に回っていた自公所属議員も一転して賛成に回り、全会一致で意見書採択が実現した。

 

 「話し合いの原点は寄り添い。互いに無知・無関心を装って反目していたのでは何ごとも始まらない」と金城さんは言い、「そのことの大切さを気づかせてくれたのは実はあんただったのさ」と言葉を継いだ。郷土の詩人、宮沢賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」をまちづくりのスロ-ガンに掲げている花巻市議会に在職中だった私は「ヤマトンチュ(本土側)が沖縄にどう向き合うべき」―を問うために金城さんを訪ねたのだった。3年ほど前の5月、その時の光景と身が震えるほどの悲劇の様相は消えることのない記憶として、私の体全体に刻み込まれている。

 

 新基地建設が進む米軍キャンプ・シュワブに近い、いまでは閑散とした商店街の一角に中央アメリカ原産のブ-ゲンビリアが今を盛りと咲き乱れていた。「アポロ」(Apollo)というロ-マ字書きの店名が辛うじて読み取れた。ベトナム戦争のさ中、その一帯を占拠した歓楽街には米ドル紙幣が乱れ飛んだ。「従業員の女性に続いて、母親も米兵の手によって命を落としました」―。閉店して久しい「アポロ」の隣に住む金城さんは母親の遺影が飾られた仏間の前で絞り出すように語り始めた。2歳の時、基地建設の景気を当て込んだ両親とともに「普天間」から移住した。母親は針仕事が得意だった。その腕を生かした布団の製造販売が大当たりした。琉球刺繍を施した布団カバ-が米兵の人気だった。「米兵による布団ドロボ-にも手を焼いたが、故国の両親へのプレゼントの注文もあった。何しろサイズが特大なんで面白いように儲かった」―

 米国は1969年7月、アポロ11号による人類初の月面着陸に成功した。「Aサイン(米軍専用)のバ-を開業したのはその直後だった。店名はこの成功にあやかって親父が付けた。当時はベトナム戦争の真っ只中。札束を握りしめた米兵たちがひっきりなしにやってきた。朝までドンチャン騒ぎの毎日だった」と金城さん。手仕事を身に付けたいと若い女性が母親に弟子入りした。バ-の人手が足りないので、店も手伝うようになった。金城さんが高校に入学した直後、この女性は別の町で米兵によって殺害された。当時、20歳だった。その顛末(てんまつ)も知らされないまま、事件はうやむやになった。

 「ベトナムからの帰還兵はいつも浴びるように酒を飲んでいた。でも、まさか…」―。金城さんは仏壇をふり向きながら、呻(うめ)くように続けた。女性殺害事件の2年後、オ-プンを前にした店に米兵が押し入った。準備中の母親から10ドルを奪ったうえ、コンクリ-トブロックで頭を殴りつけて逃走した。即死状態だった。米兵は近くのホテルに「人を殺してきた」と自首した。長期勾留されたという噂(うわさ)を聞いただけで、その後、どうなったかは知る由(よし)もなかった。まだ、52歳の余りにも若い死だった。

 

 今回再会した際、金城さんはタンスの奥からしわくちゃになった米ドル紙幣を取り出した。紙幣にはマジックで米兵の名前が書かれ、別れのメッセ-ジのようなメモも。「ベトナムに出征する兵士たちが店の壁に貼っていたものです。母親は米兵に殺されましたが、この紙幣の兵士たちの中にも生きて帰ることのできなかった若者がたくさんいます。それが戦争です。本土のあなたたちもその現実から目を背けないでください。あきらめないで、やれることをやってください」―。金城さんのこのひと言がずっと、私の背中を押し続けてくれたように思う。

 

 私は昨年6月の花巻市議会定例会に川越市議会と同趣旨の陳情を提出したが、議長を除く25人全員の反対で否決された。一方、一部の議員の発議で提案された「辺野古埋め立て反対の沖縄県民の民意を尊重すべきだとする」―意見書は賛成16、反対9で可決された。そのことを報告すると、金城さんは「何事もあきらめないことです。あなたの粘り腰が川越市議会にも通じたのだと思う」と恥ずかしいほど持ち上げてくれた。それでもうれしかった。

 

 基地建設で揺れる名護市内の飲食街で「雨ニモ負(マケ)ズ」(賢治の詩)の看板を掲げた居酒屋を見つけた。受難の記憶が刻まれた「アポロ」は店内を改装して、沖縄の有機野菜を使った食堂に生まれ変わることになっている。店名は「HeavenーHeaven」。辺野古の海が「天国」(Heaven)につながるようにとの願いが込められている。「腕を振るうのはナイチャー(本土からの移住者)の女性です。少しづつ、少しづつ…ね」―。金城さんがニッコリ微笑んで言った。

 

 

 

(写真は米兵たちが母親の経営するバーに残していったサイン入りのドル紙幣=1月9日、名護市辺野古の自宅で)