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「さっさと帰れ」発言;余話~今度は遠野市議会で

  • 「さっさと帰れ」発言;余話~今度は遠野市議会で

 

 故中村哲さんの偉業に思いをはせる日々…その余韻に身を置いていた矢先、ふたたび寝首をかかれるような出来事に出くわした。「品位」を語るのに一番ふさわしい人物こそが中村さんだと思っていたが、「議会の品位とは―」という見出しの記事にはこんなことが書かれていた。12月11日付当ブログ「『さっさと帰れ』発言から『被害者はどっちだ』発言へ」と合わせ読んでいただきたい。アフガンから『遠野物語』のふるさとへ…気の休まる暇もないほどに翻弄(ほんろう)される今日この頃である。

 

 「(12月)13日の遠野市議会本会議で、累積赤字が5千万円超に上る遠野ふるさと公社に関連し、小松正真(まさみ)氏(無所属)が市長の経営責任に言及し『失格』などとした発言を議事録から削除する一幕があった。『議会の品位』などを理由に浅沼幸雄議長が職権で削除を求めた形で、小松氏は応じたものの『自由な議論による開かれた議会に反する』と疑問を呈する。『失格』、『ごまかし』、『目くらまし』の三つの発言が削除された。地方議会に詳しい駒沢大の大山礼子教授(政治学)は『人格非難ではなく、常識的に品位を落とす発言とは考えられない。多数派と異なる論点の発言排除のために「品位」が使われてはならない』」(14日付「岩手日報」、要旨)―

 

 元祖「(議会の)品位」論争の幕が切って下ろされたのは東日本大震災が起きた直後のこと。そして、中村さんの“喪”(も)に服さなければならない時期に相次いだ盛岡・遠野両市議会でのドタバタ劇―こうした不謹慎な面々には金輪際、「品位」などという言葉を口にしてほしくないとつくづく思う。地方議会だけではなく、永田町界隈で花見に浮かれる、わが宰相らあなたたちもだ!?河童(かっぱ)たちが泣いている。どうせのことなら、作家、太宰治のように「人間」を「失格」してほしいと思うぐらいである(10月19日付及び11月26日付当ブログ参照)。そして、ふと思い出した。

 

 「…花巻市議会の品位を汚したものであり、議会会議規則に規定する『品位の尊重』に違反するものである。よって、地方自治法の規定により戒告する」―。ちょうど、8年前の12月2日、私は当時の議会議長によって、懲戒処分に処された。「さっさと帰れ」発言を追及する際に「白を黒と言いくるめる」、「(委員長報告の)欺瞞性」、「口裏を合わせる」などという言葉を使ったことが処分事由とされた。さらには処分の正当性を主張するため、地元紙の声欄(2011年12月13日付「岩手日報」)に投書をするなど“弁明”にやっきになった。その時の議長は現在、県議会議員にまで上り詰めている。いまの世の中、“逆立ち”して眺めるしか術(すべ)がなさそうである。

 

 

 

 

(無際限の想像力をかき立てる民話のふるさとには河童が住むと言われる川も流れている=インターネット上に公開の写真から)

「私の履歴書」―哲さんのヤクザ(任侠)の血筋とは!?

  • 「私の履歴書」―哲さんのヤクザ(任侠)の血筋とは!?

 

 故中村哲さんの血筋にヤクザ(任侠)の血が流れていることについては、12月4日付当ブログで触れた。このことに特段こだわるつもりはないが、哲さんの不動の信念には何か、別の気配を感じてしまう。かつて、日本一の炭鉱地帯・筑豊を取材した経験のある私はその独特の風土である「川筋気質」を哲さんの背中に見てしまう。「板子一枚下は地獄」という生と死が背中合わせの“生きざま”は炭鉱の地底労働にも通じる。大叔父が石炭の荷役を一手に引き受けた玉井金五郎、その息子で哲さんにとっては伯父に当たるのが作家の火野葦平という家系図の一端をのぞいてみると―。以下、週刊文春(2016年9月1日号)の中村さんの寄稿文をノンフィクション作家、稲泉連さんが再編集した内容(文春オンライン)を転載する。

 

 

 私が子供の頃に暮らしていた福岡県若松市(現・北九州市)は、父と母の双方が生まれ育った土地でした。若松は遠賀川(おんががわ)の河口にあって、石炭の積み出しで栄えた町です。母方の祖父である玉井金五郎は、港湾労働者を取り仕切る玉井組の組長。父親は戦前、その下請けとして中村組を立ち上げ、戦後は沈没船のサルベージなどを生業(なりわい)にしていました。ちなみに、玉井組の二代目は作家の火野葦平です。彼は私の伯父にあたる人でしてね。彼が一族の歴史を描いた小説『花と龍』は、小学生の頃に映画化もされました。私は玉井家の実家にいることが多かったので、文筆業で一家を支えていた和服姿の伯父の姿をよく覚えています。(アフガニスタン東部のジャララバードを拠点に、国際貢献活動を行う医師の中村哲さんは1946年生まれ。港湾労働者を組織した一族の中で、多くの人たちが出入りする家に育った)

 

 

 生活の中心だった玉井の家は大きな邸宅でした。普段から労働者や流れ者風の男たちが行き交い、子供がうじゃうじゃといました。例えば私が兄だと思っていた兄弟が、よくよく聞いてみると従兄弟(いとこ)だった、なんてことも珍しくない。三世代、四世代が入り乱れて住んでいましたね。若松の家にいたのは、ほんの数年のことでした。私が6歳のとき、福岡市の近くの古賀町(現・古賀市)に引っ越したからです。後に聞いた話では、中村組の従業員が沈没船引き上げの際に亡くなる事故があったそうです。父は保証人倒れも重なり事業に失敗し、空き家になっていた昔の家に戻った。私はそこで大学を卒業するまで過ごしました。

 

 古賀町の家は瓦屋根の平屋で、中庭に鯉の泳ぐ池がありました。津屋崎(つやざき)の海岸から運ばせたという庭石が置かれ、事業に失敗して極貧に落ちた、という感じが全くないのは不思議でしたね。とはいえ、借金取りはしょっちゅう来て、強面(こわもて)の男たちが、家具に白墨で差し押さえの金額を書いていく。勉強机にも金額が書かれ、子供心に不安になったのを覚えています。

 

 ところが、酒豪の両親は心配するより酒でも飲もうと言うばかり。結局、親がクヨクヨしていなければ、子供もクヨクヨしないもので、どこにも悲壮感はありませんでした。しばらくして、父は家を二階建てに増築し、借金を返すために旅館業を始めました。「ひかり荘」という旅館の名前は、伯父が付けてくれたものです。部屋は15ほどあり、建設業関係の客が多かったです。土木工事が近くであると、何か月も部屋を借りて出勤するわけです。考えてみれば、私はアフガンで用水路づくりの土木工事をしているので、いまもそうした人たちに囲まれて働いている。何とも不思議な気がします。

 

 ただ、子供の頃はそれでも良かったのですが、高校時代は辟易(へきえき)とすることもありました。私の狭い部屋は壁ひとつ向こうが宴会場で、試験の前日でも夜遅くまでドンチャン騒ぎが続くんですよ。当時の労働者には命からがら戦地から復員してきた世代が多く、彼らは酔うと盛大に軍歌をうたい始める。手や茶碗を叩き、踊り、大いに羽目を外すものですから、大学受験の時は近所に嫁いだ姉の家に机を置かせてもらい、勉強をしていました。(一浪の後、九州大学の医学部に入学。1973年に卒業してからは、佐賀県にある国立肥前療養所(現・肥前精神医療センター)の精神神経科にまず勤務した)

 

 子供の頃、私は虫や蝶の観察が好きだったので、本当は農学部の昆虫学科に行ってファーブル先生のような生活をするのが夢でした。しかし、固い父親からすれば、昆虫学といってもただの遊びにしか聞こえなかったでしょう。医学部に進んだのは、医師になりたいと言えばその父の許しが得られると思ったからでした。その頃、ちょうど地方の無医地区の問題がクローズアップされていましてね。自分は医師になって日本国のために尽くしたい。そう言えば表向きは立派です。それでも昆虫学者の夢が諦めきれなければ、後から農学部に転部すればいいと考えたわけです。

 

 しかし実際に医学部に入ると、国立大学とはいえ高価な医学書を何冊も買わなければなりません。それを父が借金をして買ってくれるのを見ているうち、転部の気持ちはなくなっていきました。親から受けた義理、恩を立てないと親不孝になる。そう思い、医学部を出ようとはっきり心に決めたんです。最初、神経科に入ったのは、人間の精神現象に興味があったからです。実は高校の頃の私は極度のあがり症で、教師に当てられただけで汗がわっと吹き出し顔が赤くなる。女性が前に座っていると自然に振る舞えなくなり、固まって動けなくなるくらいでした。そのことでずいぶん悩み、それで哲学の世界を齧(かじ)り始め、読書に没頭していった過去のいきさつもありました。

 

 一人暮らしを始めたのは、そうして国立肥前療養所に勤務するようになってからです。病院は佐賀の山中にあり、周辺には空き家の百姓家が多かった。そのうちの一軒を借りていました。家は人が住まないと傷むということで、家賃はなし。食事は病院で食べていたので、帰ってきて寝るだけの場所でしたけれど。あの頃はうつ病や統合失調症の患者の話を、とにかく聞き続ける日々。カウンセリングでは相手の世界をそのまま受け入れ、会話するのが鉄則です。相手に寄り添うようにして、ただただその人の気持ちを理解しようと努める。その経験から私は多くを学んだと感じています。後にアフガニスタンで文化も風習も異なる人たちと接する際、大切なのは彼らの生きる世界を受け入れ、自分の価値観を押し付けないことです。単に違いであるものに対して、勝手に白黒をつけてしまうことが様々な問題を生む。そう考える癖がつきました。

 

 (中村さんが初めてパキスタンを訪れたのは1978年。以前から趣味の登山で付き合いのあった福岡登高会から、ヒンズークシュ山脈への登山に医師としての同行を依頼された。それがきっかけで同地に縁ができ、福岡県大牟田(おおむた)市の労災病院などに勤務した後、日本キリスト教海外医療協力会からペシャワル赴任の打診を受ける)

 

 福岡登高会からの依頼は、二つ返事で応じました。登山の期間中、医師はベースキャンプに何か月も滞在します。そのあいだに自然の観察ができるのが魅力だったからです。ヒンズークシュ山脈周辺はモンシロチョウの原産地と言われ、はるか氷河期の遺物とされるパルナシウスという蝶も生息しています。あの高山に本当にモンシロチョウが居るのかを、自分の目で確かめてみたかった。実際にベースキャンプでは充分に蝶の観察ができました。だから、現地赴任を打診された時も、もともと好きな地域だったので心惹かれるものがあったんです。

 

 結婚したのも同じ頃です。家内は当時勤務していた病院の看護師でした。(1984年、前年にロンドンのリバプールで医療活動の準備をした後、ペシャワルのミッション病院へ妻と幼い子供を連れて赴任した。同時に彼の活動を日本から支援する「ペシャワール会」も設立された)。同地での仕事はハンセン病の治療を行い、その根絶のプロジェクトを進めることです。ですが、私が赴任を決めた背景には、医療の他にもう一つの理由がありました。

 

 実はその2年前に父が亡くなったんです。父が生きていたら、私は老いた両親を残したままペシャワルに行こうとは考えなかったはずです。昔の親父というのは恐ろしい存在で、生きているうちは自分に自由がないような気持ちがするんですね。だから、あの厳しかった父が死んだとき、寂しいという気持ちは当然ありつつも、それにも増して「これで俺は自由になった」という思いを抱いたのです。人生における重しが消え、これからは自分の思い通りの人生を歩んでいくことになる。そんな思いが私をペシャワルへと押しやったのでしょう。

 

 さて、私たちが暮らしたのは、ミッション病院の敷地内にある邸宅でした。場所はダブガリという旧市街。以前は英国軍の宿舎や兵舎があった英国支配の本拠地で、病棟は兵舎を改築した建物でした。敷地内にムガール王朝時代の廟もある歴史ある街です。私たちの家も以前は将校のためのもので、600坪ほどの敷地が壁に囲まれた英国風のレンガ造りの建物でした。建坪は200坪くらい。浴室も複数。部屋にはカーペットを敷き詰め、畳に見立てていました。ちなみに英国の影響を受けているパキスタン人は平気で土足で上がってくる。一方でアフガン人は日本人に似ていて、玄関でしっかり靴を脱ぐという文化の違いがある。なので、パキスタン人の来客の際、靴を脱いでもらうのに苦労した思い出があります。

 

 家族5人、私たちは広さだけはあるその家で、小さく生活していたということになります。大変なのはイギリス風の庭園で、雨がほとんど降らない土地柄ですから、水やりをしなければ芝生も花壇の花もすぐに枯れてしまう。これは自分たちでは維持ができず、病院が雇ってくれた庭師に手入れを頼みました。あと、洋式トイレにはいまもなじめませんですね。

 

 80年代はアフガン難民の支援のために、欧米各国の援助団体が増えた時期です。そのため、アメリカが出資したインターナショナルスクールがあり、私たちも子供を通わせました。妙な言い方ですが、当時のペシャワルは国際的な援助で活気があったんです。(ミッション病院でハンセン病の治療を続けながら、中村さんの活動は徐々に広がりを見せていく。86年からは新たな支援団体を設立し、難民キャンプでの活動も開始。無医地区での診療や診療所建設に尽力した。活動が大きな節目を迎えるのは2000年のことだ)

 

 私の活動がハンセン病の治療に留まらなかったのは、現地ではハンセン病だけを見る診療所が成り立たないからです。ハンセン病の多い地域は、結核やマラリア、腸チフス、デング熱、あらゆる感染症の巣窟です。マラリアで死にかけている患者に、ここは科が違うから帰ってくれとは言えない。あらゆる疾患を診察するようになる中で、ミッション病院を出て独自の活動が始まったわけです。そうして診療所を建てる活動を通して、アフガンの人々との付き合いを深めていった。

 

 赴任から15年後、ハンセン病については国際的にコントロール達成宣言が出されました。その後、一斉に援助が引き上げられていきましたが、一方、アフガンでの感染症の患者は増え続けていました。そこで日本側からの援助が続く限り患者を診(み)続けようと、現地に活動の拠点となる新たな病院を設立したのです。そのタイミングで起きたのが、2000年の大旱魃(かんばつ)でした。

 

 当時、WHOが発表した被害は、国民の半分以上が被災し、飢餓線上にある者が400万人、餓死線上が100万人という凄まじいもので、そのとき現地で飢え、死んでいった犠牲者のほとんどは子供でした。水がないために作物が実らず、汚い水を飲むので赤痢や腸チフスにかかる。飢えと渇きは薬では治せません。抗生物質や立派な薬をどれだけ与えても命が救えない状況に、私は医師として虚しさを覚えました。そして医療活動の延長として開始したのが、診療所の周りの枯れた井戸の再生でした。

 

 (3年後、中村さんは「百の診療所よりも一本の用水路」を掛け声に、大河川から水を引く灌漑用水路の整備事業も始める。現在、10年以上かけて完成した水路の全長は27キロメートル。3500ヘクタールを潤す。周辺地域の取水設備も手掛け、2020年までに計1万6500ヘクタール、65万人の農民に水を行き渡らせる計画を進めている)

 

 いま、私はアフガン人スタッフや時々来る日本人有志とともに、現地の宿舎で暮らしています。ガードを含めると15人ほどの共同生活です。家族はミッション病院を出る際、家内の実家である大牟田に戻りました。我々のようにアフガニスタンで活動する国際団体は、お金持ちの別荘のような建物を借り受けて、そこを宿舎や事務所にするのが一般的です。私たちも同様で、ジャララバードの宿舎では一室を私専用の部屋にしてもらっています。六畳くらいの部屋に机が一つ、ベッドが一つ。それだけの部屋です。夜は電気がないため、10時くらいまではソーラーパネルで明かりを付けて消灯。日中は用水路工事の現場にいることが多いですね。

 

 そのようなわけで、家族と離れてからの私には、「家」と呼べるようなものはないに等しいのですが、ただ唯一のこだわりが風呂です。アフガンには湯船に浸かる習慣がありません。しかし、1日が終わって「ああ、良い湯だな」という瞬間だけは欲しい。そこでイスラマバードのバザールで風呂桶を探し、宿舎のシャワー室に設置しました。これが現地での唯一の贅沢です。長年の紛争で疲弊したアフガニスタンでの工事には、時間と忍耐が必要です。最初はシャベルとツルハシしかありませんでしたが、土地の人々の故郷に戻りたいという気持ちに支えられながら、工事を進めてきました。

 

 この事業を続けていると、水の力のすごさが分かります。旱魃以後、多くの村が土漠と化し、全村が難民化した村もありました。しかし、あるとき用水路が完成すると、噂を聞いたもとの村人が数週間後には現れ、しばらくして荒れた村にテントが並び始める。いずれ村長が帰村し、畑の境界線や村の秩序が以前の状態に復元されるのです。そのような村々の様子を見ていると、私はときおり郷愁に誘われることがあります。用水路が完成した流域には、緑が文字通りに戻ってきます。水路にはドジョウやフナが泳ぎ、鳥がやってくる。そして、あの稲作の様子や四季の移ろい……。それが日本の何でもない昔の農村風景に非常によく似ている。

 

 彼らの社会は8割が農民ですから、田植えや稲刈りの季節になれば、それこそ村が総出で農事を手伝う。農業を中心とした共同体の中で、お年寄りが大切にされているのも、生まれ育った若松市や古賀町を思い出させます。そして土木作業を行うスタッフと暮らしていると、あの玉井家や実家での日々が胸に甦ってくるのです。その意味で私にとって、アフガニスタンは懐かしい場所でもあるのかもしれません。

 

 

 

 

(写真は映画「花と竜」のモデルとされる玉井金五郎。哲さんとそっくりである=インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父から学んだこと~父、故中村哲への追悼への感謝と思い出

  • 父から学んだこと~父、故中村哲への追悼への感謝と思い出

 

 テロの銃弾で犠牲になった医師の故中村哲さん(享年73)の告別式が11日、福岡市内の斎場で執り行われ、親族を代表して長男の健さんが「父から学んだこと」という内容の弔辞を読み上げた。人柄が偲ばれる文章なので、以下に全文を掲載する(12日付「西日本新聞」から)

 

 

 この度の父・中村哲の訃報に際し、親族を代表いたしまして、皆様へご挨拶をさせていただきたく存じます。私は故人の長男で健と申します。最初に申し上げたいのは、父を守るために亡くなられたアフガニスタンの運転手の方・警備の方そして残されたご家族・ご親族の方々への追悼の想いです。申し訳ない気持ちでいっぱいです。悔やんでも悔やみきれません。父ももし今この場にいたらきっとそのように思っているはずです。家族を代表し心よりお悔やみを申し上げます。私たち家族は今回の訃報に大きなショックと深い悲しみに苛まれました。しかし、多くの方々がともに悲しんで下さり、私たち家族へ多くの激励の言葉をかけて下さっています。本当に救われています。

 

 上皇様ご夫妻からのご弔意の賜わりをはじめ、いつもそばで父を支えてともに活動して下さり、これからも継続の意向を示してくださっているペシャワール会の皆様、アフガニスタン国での父の活動に賛同しご支援をいただいている大統領をはじめ政府関係の皆様、同じくアフガニスタン国の大変な環境にある作業現場の中で父とともに活動をしていただいているアフガニスタン国の国民の皆様、父の活動にご賛同いただきご支援をいただいている日本の皆様、そして今回の訃報から父を遠い異国に迎えに行くにあたり早急にそして最短の移動スケジュールでいけるようにご配慮していただき、宿泊先まで手配していただいた外務省・大使館・政府関係の職員の皆様、どんなに感謝しても足りません。父が今までもそして命がなくなってもなおアフガニスタンで活動ができるのも偏に皆様のご賛同・ご協力のおかげとしかいえません。

 

 また今回の事件で警察、航空会社、葬儀会社、保険会社に関わる皆様にはいつも私たち家族の気持ち・立場に立っていただいています。そして24時間、どんな時でも真摯な対応をしていただいています。私たち家族は、皆様のおかげで不安・悲しみの気持ちから本当に守られています。感謝しています。生前、父は山、川、植物、昆虫、動物をこの上なく愛する人でした。家ではいつも庭の手入れをしていました。私が子供の頃はよく一緒に山登りに連れて行ってもらいました。最近も、父とはよく一緒に山に登っていました。遊びに行くときは「できればみんなで行こうよ」、「みんなで行った方が楽しいよ」ということを言っていました。みんなと楽しみたいという考えの人でした。

 

 また父がアフガニスタンへ旅立つとき、私と2人きりで話す場面ではいつも「お母さんをよろしく」「家をたのんだ」「まあ何でも一生懸命やったらいいよ」と言っていました。その言葉に、父の家族への気遣い・思いを感じていました。今、思い返すと、父自身も余裕がない時もきっとあったはずです。いつも頭のどこかで家族のことを思ってくれている父でした。父の、自分のことよりも人を思う性格・どんなときも本質をみるという考えから出ていた言葉だったと思います。その言葉どおり背中でみせてくれていました。

 

 私自身が父から学んだことは、家族はもちろん人の思いを大切にすること、物事において本当に必要なことを見極めること、そして必要なことは一生懸命行うということです。私が20歳になる前はいつも怒られていました。「口先だけじゃなくて行動に示せ」と言われていました。「俺は行動しか信じない」と言っていました。父から学んだことは、行動で示したいと思います。この先の人生において自分がどんなに年を取っても父から学んだことをいつも心に残し、生きていきたいと思います。最後に親族を代表致しまして皆々様からの父と私たち家族へのご厚情に深く感謝いたします。

 

 

 

(写真は菊の花に囲まれた故中村さん=11日、福岡市内の斎場で。インターネット上に公開の写真から)

 

 

《追記》~ホームレスの背中を押した故中村さん

 

 アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師(73)の言葉は、時に迷いながらも信念を持って活動する人たちの背中を押した。ホームレスを支援するNPO法人「抱樸(ほうぼく)」(北九州市八幡東区)の奥田知志理事長(56)もその一人。新米牧師だった約30年前に出会った際、嫉妬と尊敬の念が入り交じる複雑な感情で接したことを鮮明に覚えているという。舞台は違えど、中村さんの活動に同じ理念を感じてきた奥田さんは10日、「この悲しみを憎しみに変えてはいけない」と訴えた。

 

 中村さんが現地代表を務める福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」が発足した1983年、関西学院大1年だった奥田さんは大阪の釜ケ崎でホームレス支援を始めたばかり。中村さんと初めて出会ったのは90年、北九州市八幡東区の東八幡キリスト教会に赴任した時だった。中村さんも同じキリスト教徒。同教会の信徒たちがペシャワール会を支援しており、中村さんは94年ごろまで同教会で活動報告会を開いていた。

 

 報告会には80人もの支援者が詰め掛け、熱気にあふれていた。中村さんの話には圧倒された。パキスタンで、ハンセン病患者がはだしで歩いて傷を負い、血やうみが流れ出て症状が悪化するのを防ぐために、古タイヤでサンダルを作っているとの内容に、思わず聞き入った。それと比べて自分の活動を支援してくれるのは10人に満たない。「海外の支援は受けがいい。アフガンもいいが、日本の困窮者はどうする」と嫉妬心が頭をもたげた。同時に「病気を癒やすだけでなく、社会自体を変えていく。スケールが大きく、自分にはとてもできないことだと思った」。

 

 中村さんは仰ぎ見るような存在で、独特の「近寄りがたさ」も感じていた。講演会で何度も一緒になったが、短い言葉を交わす程度。2人で話し込むような機会はなかったが、その言葉は深く心に刻み込まれている。「生き方、言葉が僕の活動の励みだった」中村さんは報告会や講演会で、ペシャワール会の「誰も行かぬなら、我々が行く」という理念を繰り返し訴えた。ホームレス支援を始めた当初、奥田さんは「そんな支援に何の意味があるんですか」とよく聞かれた。ホームレスは「無に等しい存在」で誰も目を向けない。自分と中村さんの活動を重ね、通じるものを感じていたという。

 

 「頑張ってますか」。2016年9月、福岡市で開かれた講演会で一緒になり、そう声を掛けられた。中村さんの講演をじっくり聞いたのは、この時が最後になった。奥田さんは今、中村さんの死をこう受け止める。「中村先生は復讐(ふくしゅう)してくれとは言わない人だとみんな確信している。中村哲という人は、自分の命が、次の命につながっていくことを望んでいると思う。この悲しみを自分の生き方にどう生かしていくか。僕はどこに行くべきか考えていきたい」(12日付「西日本新聞」)

 

 

 

 

 

「さっさと帰れ!」発言から「被害者はどっちだ!」発言へ―そして、「私たちは忘れません」

  • 「さっさと帰れ!」発言から「被害者はどっちだ!」発言へ―そして、「私たちは忘れません」

 

 「被害者はどっちだ。男か女か、教えてくれろ!」―。これじゃ、まるであのイ-ハト-ブ劇場での“ドタバタ劇”の再演ではないかと、一瞬わが耳目を疑った。ロ-マ・カトリック教会のフランシスコ教皇が核廃絶のメッセ-ジを発した被爆地・長崎市議会で起きた“暴言”騒動の一幕である。8年前、東日本大震災(2011年)直後の花巻市議会6月定例会で、私自身が当事者として経験した“悪夢”がふたたび、繰り返された。こんな矢先、アフガニスタンでテロの銃弾に斃(たお)れた医師、中村哲さん(享年73歳=12月4日付当ブログ参照)の訃報が飛び込んできた。ひょっとしたら、中村さんを「殺した」責任は私たちの側にも潜んでいるのではないのか…そんな唐突な思いが体を射抜いたように感じた。まずは「平和と人権」を市政の柱に掲げるかの地での事の発端から―

 

 もう12年も前のこと…こともあろうに、原爆被爆対策部長(当時)が取材中の女性記者に性暴力を振るうという信じられない事件が発生した。被害者から人権救済の申立を受けた日本弁護士連合会は「人権侵害」と認定し、謝罪や再発防止を勧告してきた。しかし、市側が不誠実な対応をとり続けたため、被害者はやむなく今年4月に提訴に踏み切った。さて、冒頭のヤジが議員席から飛び出したのは、7月定例会の一般質問の場での出来事。社民党所属の池田章子議員が市の対応をただしている最中に発せられた。これを受けた日本新聞労働組合連合(新聞労連)は先月11月1日、佐藤正洋・市議会議長に対し「ヤジ議員の特定と謝罪」を要求する申し入れ書を手渡した。その後の経過も私の場合と瓜二つだった。「ヤジはあったが、発言者は特定できなかった」―と

 

 そして、当方の“暴言”騒動は…あの日(2011年6月23日)、私は一般質問の中で震災被災者に対する義援金が市の歳入に繰り入れられるという、いわゆる「義援金流用」疑惑を追及していた。傍聴席には沿岸被災地から花巻市内に避難している人たちが詰めかけていた。昼の休憩が告げられた直後、議員席から傍聴席に向かって、「さっさと帰れ」というヤジが投げつけられた。「着のみ着のまま、ふるさとを追われた私たちはどこに帰ればいいんですか」―。傍聴席は騒然となった。私は直ちに真相究明を求め、議会内には「議員発言調査特別委員会」が設置された。しかし、傍聴者たちの証言は無視され、「(暴言については)確証が得られなかった」という結論で幕が下ろされた。

 

 長崎市議会のその後の動きは現在、長崎地裁で裁判が続けられているが、私に対しては手のひらを返したような“仕打ち”が待っていた。「被災者とグルになって、『なかった』発言をあたかも『あった』かのようにデッチ上げた」という論法である。ヘイトスピ-チまがいの罵詈雑言(ばりぞうごん)でブログが炎上する中、議会内に急きょ設けられた「懲罰特別委員会」は私に対して「戒告」処分を言い渡した。「議会の権威を汚した」というのがその理由だった。1人を除いた議員全員がこの処分を支持した。……悪夢は悪夢を呼ぶということか。ふと我に返ると、傍らのテレビは中村さんの非業の死を伝え続けている。

 

 「医療分野や灌漑(かんがい)事業においてアフガンで大変な貢献をしてきた。厳しい地域で命がけで業績を上げ、アフガンの人も感謝を述べていた。このような形で亡くなったことは本当にショックだ」―。沈痛な表情で中村さんの死を悼(いた)む安倍晋三首相の姿が大写しになっている。反吐(へど)が出そうになった。税金を使って「桜を見る会」に浮かれるわが宰相にその死に思いを寄せる資格がそもそもあろうか。アフガニスタンは長い間、「忘れられた国」と言われてきた。世界でも最貧国のかの地で黙々と「命の水」を掘り続けてきた中村さんの存在を、安倍首相よ、あなた自身が忘れてはいなかったか。いや、私自身を含めた日本人総体が…

 

 ところで、彼我(ひが)の“暴言”騒動にはオチがある。舌鋒鋭く「被害者はどっちだ」発言を追及した池田議員の姿勢にはさすが“革新”議員としての矜持(きょうじ)が感じられた。一方、「さっさと帰れ」発言の主は写真と照合するなどして、同じ社民系会派の男性議員(故人)とほぼ特定されたが、いまや「死人に口なし」である。永田町から地方議会まで「人格」の根腐れ病が蔓延している。被爆者の祈りを伝える「ナガサキ」も、そして宮沢賢治の理想郷「イ-ハト-ブ」もタガが外れ、地に堕ちた風体(ふうてい)である。

 

 フランシスコ教皇は長崎の地で、こう演説した。「今日の世界では、何百万という子どもや家族が、人間以下の生活を強いられています。しかし、武器の製造、改良、維持、商いに財が費やされ、(財が)築かれ、日ごと武器は、いっそう破壊的になっています。これらは途方もないテロ行為です」―。そして、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』)と記したのはいうまでもなく、わがふるさとの詩人の賢治である。その“賢治”精神を体現した中村さんには宮沢賢治賞(イ-ハト-ブ賞)が贈られている。アフガニスタンの民間航空「カ-ム航空」は口ひげをたくわえた中村さんの似顔絵を尾翼に描き、フェイスブックにこう書き込んだ。

 

 「アフガニスタンの人々のために奉仕することを選び、残念ながらその活動中に亡くなりました。故中村医師、アフガニスタンの人々はあなたのしてくれたことにずっと感謝し続けるでしょう」―

 

 

 

(写真は航空機の尾翼に描かれた故中村さん。トレ-ドマ-クの口ひげが優しい横顔=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記-1》~いやはや!?今度は盛岡市議会で「『よそ者』ヤジ」

 

 「盛岡市議会(定数38)で、一般質問に立った久慈市出身の大畑正二氏(創盛会)に『よそ者』とヤジが飛んだとして波紋を広げている。…『議員は盛岡自慢を三つくらい持っていた方がいい』と主張した際、議員席からヤジが飛んだ。同氏によると『よそ者だろ』と聞こえた。…言論の府たる議会は多様な人材の参入が時代の要請であり、仮に『排他的』と疑われる言動が一部からでも上がれば、全体の品位をおとしめる。遠藤(政幸)議長は議員への聞き取りを進める意向で『議論を妨げてはならない。重く受け止め、対処する』と語る」(12月11日付「岩手日報」)

 

 

《追記―2》~「凡庸なる悪」

 

 第2次大戦中のユダヤ人虐殺の責任者だったアイヒマン(1906~1962)について、政治学者のハンナ・ア-レントは「彼は愚かではなかった。まったく思考していないこと―これは愚かさとは決して同じではない」と述べ、そのことを「凡庸なる悪」と名づけた。つまり、「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない。人間であることを拒絶した者なのです。そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました」と書いている。日本列島を覆いつくす「人格」の根腐れ病の根源はたぶん、ここにあるのだろう。

 

 

《追記―3》~故中村さんの大壁画も

 

 【カブール共同】アフガニスタン首都カブール中心部の保健省のコンクリ-ト塀に、4日に殺害された福岡市の非政府組織「ペシャワール会」現地代表の医師中村哲さん(73)の貢献をたたえ追悼する似顔絵が現れた。芸術団体「アートロード」が10日、12人で完成させたという。アフガンの民族帽「パコール」をかぶった中村さんが日の丸を背景に、花々を咲かせた木々を見つめ、ほほ笑んでいる構図。「この土地で私は愛と思いやりを育む種のみを植える」と、同国の主要言語の一つ、ダリー語の詩も添えられた。殺害現場となった東部ナンガルハル州の州都ジャララバードにも同様の絵を描いた(12日付「共同通信」電子版)

 

 

《追記―4》~世界各地で追悼の声

 

 【ニューヨーク共同】アフガニスタン東部で殺害された非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の医師中村哲さん(73)をしのび、米ニューヨークのアフガニスタン総領事館で10日、追悼集会が開かれた。参加者は「本当に偉大な人を失った」と故人に思いをはせた。集会には、米国在住のアフガン人や在ニューヨーク総領事館の山野内勘二総領事ら約40人が参加。黙とうの後、中村さんの似顔絵が飾られた祭壇に花を手向けた。参加した医師ソニア・カディアさん(44)は「いつの日かアフガンに平和が訪れ、海外の医師が生命の危険を感じずに活動できるようになってほしい」と語った(12日付「共同通信」電子版)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

花巻市長・上田流「コンプライアンス」のチグハグ~礼節もいずこかへ

  • 花巻市長・上田流「コンプライアンス」のチグハグ~礼節もいずこかへ

 

 「本件に関する警察の捜査に協力するとともに、捜査の進展を見守りつつ当該消防士に対しては厳正な処分を行い、…職員一丸となって職務にまい進し、一日も早く市民の皆様からの信頼を回復できるよう努めてまいります」―。11月8日、免許停止期間中の花巻市の消防士(26)が救急車の運転をしていた事案が明るみに出た際、上田東一市長は“厳罰”をほのめかしながら、報道陣の前に深々と頭を下げた(11月7日付当ブログ「追記」参照)。「ところで、あなたにとってのコンプライアンスとは何か」…私はこの光景を見ながら、ふと鼻白む気分になった。3年前の平成28年6月定例会でのやりとりを思い出したからである。

 

 「コンプライアンスは、一義的には法令遵守と訳されているところでございまして、広義のコンプライアンスとしては、法令はもとより、県や市町村の条例、規則等、さらには社会的な規範の遵守まで含まれているものと存じているところでございます」―。私の一般質問に対して、上田市長はこう明言した。当時、全国の自治体では「コンプライアンス」に関連して、首長自らの行動を律する条例化の動きが出ていた。たとえば、富山県氷見市では同じ6月定例会で「氷見市長等の行動規範及び政治倫理に関する条例」を制定し、「地方自治法第142条の規定の趣旨を尊重し、市長等の配偶者若しくは1親等の親族又は法人に対し、市等との請負契約等を自粛するよう働きかけ、市民に疑惑の念を生じさせないよう努めること」(第7条)と規定した。

 

 地方自治法「第142条」は首長などの兼業を禁止した規定で、こう定めている。「普通地方公共団体の長は、当該普通地方公共団体に対し請負をする者及びその支配人又は主として同一の行為をする法人の無限責任社員、取締役、執行役若しくは監査役若しくはこれらに準ずべき者、支配人及び清算人たることができない」―。その当時(平成27年度現在)、花巻市から一般廃棄物の収集・運搬業務を委託されている業者は全部で14社あった。うち、ごみ収集業務などの請負額が一番多い会社の代表取締役に上田市長の配偶者が就任していることが判明し、市民からその是非を問う声が聞かれた。

 

 私はそのこと(配偶者の代表取締役)自体は法に抵触するものではないという前提に立ったうえで、「コンプライアンス上の、いわゆる“社会規範”について」―の認識をただした。上田市長は後任の人材探しが難航したことなどを理由に挙げながら、前言を翻(ひるがえ)すような説明をした。法律にうとい素人にはとても理解不能な、いわば“目くらまし”的な便法がこの人の得意技である。牽強付会(けんきょうふかい)……つまり「自分の都合のいいように、強引に理屈をこじつける」―とはこのことではあるまいか、とその時に思った。

 

 「社会規範というのは定義ございませんし、これはそのときそのときで市民の皆様、あるいは我々が考えていくものだろうと思います。その意味で、はっきり規範はどこにあるのかということについては、必ずしもクリアに出てくるものではないだろうと思っております。…その上で申し上げますけれども、コンプライアンスというのは全てではないのです。コンプライアンスを守れば、全てが解決する問題ではございません。規範というのは、言ってみればル-ル化している、あるいは法に近いものを規範というと私は理解しています。それを守ればいいのではなくて、要するに、物事をはっきりさせた上で、とにかく規則を守りましょうよというのがコンプライアンスなのです」(会議録から)

 

 「家内が代表者であることは、なるべく早くやめてほしいというのが私の気持ちです。いや、それではいけないのだと、例えば議会で条例化して、会社をやめるか、あるいは市長をやめるかどちらかをとりなさいと規定されれば、そのときには考えなくてはいけません。私は規範に違反しているとは思いませんけれども、妥当ではないということでル-ル化するとお考えになるのは全く反対するものではございません。そういうことであれば、それは検討していただきたいと考えている次第です」(会議録から)―法令だけでなく、(社会)規範にも違反していない。ダメだというなら、議会の責任で条例化するなりしてほしい…私にはこんな“開き直り”に聞こえたのだった。

 

 「罪を憎んで、人を憎まず」―。将来のある消防士の不祥事の報に接した時、私はこの青年がなぜ、仲間や上司に対応の処し方を相談しなかったのか…ということが真っ先に頭をよぎった。高速道路上の速度違反はうっかりすると、誰でも犯してしまう。私も若気の至りで、速度オ-バ-をした苦い経験がある。だからこそ、「免停のまま、救急出動につかざるを得なかった」というその“孤立”に、私は慄然(りつぜん)とさせられたのである。さらには、違法行為(免停中の救急出動など)の罪状がまだ確定していない段階で、当該職員の実名をHP(11月8日付)上に公開するという人権感覚の欠如にも驚いてしまう。

 

 当市にはコンプライアンスに関し、「花巻市職員倫理規程」(平成25年)や「不正防止に係る内部通報制度」(平成27年)などきめ細かい取り決めがある。しかし、コンプライアンスはある意味で、「同調圧力」と「忖度(そんたく)」を抱え持つ“両刃の剣”でもある。前者が強まれば強まるほど、後者が頭をもたげてくる。つまりは仲間内への気遣いは次第に薄れ、上司の顔色をうかがうだけのヒラメ集団化してしまうのは目に見えている。最近の“上田城”にはそんな雰囲気が強まっているような気がしてならない。殺伐とした空気が庁内に充満している。

 

 「市長等は、地方自治法その他の法律における市長等の兼業禁止に関する規定の趣旨を尊重し、市民に疑惑の念を生じさせないようにするため、その配偶者、2親等以内の親族又はこれらの者が役員をしている会社その他の法人若しくは次に掲げる会社(略)その他の法人に、市との工事、製造その他の請負契約及び物品の購入契約の締結を辞退させるものとする」(第5条)―。大阪府と京都府の県境にある茨木市は2年前、配偶者がその行政と請負関係にある会社の役員などに就任することを禁止する厳しい条例を制定した。

 

 一方の足元では真逆な動きが進行していた。上田市長の配偶者はその後、平成29年2月19日付でいったん代表取締役の座を退いたが、今年(平成31年)2月1日付でふたたび、その任に返り咲いていた。茨木市など他の自治体などとの認識の乖離(かいり)に驚かされる。現場職員にコンプライアンス(法令遵守)を求めるのなら、トップとしてまず自らの襟(えり)を正すのが先決ではないのか―。この日、令和元年最後の12月定例会が開会した。二元代表制の根本に立ち返り、議員諸侯に置かれては、市長ら当局側の監視をゆめゆめ怠ることなかれ……

 

 

 

(写真は「何でも話せる職場」こそがコンプライアンスの基本だと訴える漫画=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

《追記-1》~自己責任への言及なし

 

 12月定例会初日の6日、上田東一市長は当ブログで取り上げた消防士の不祥事に触れ、「免停中に救急車を運転した事案については現在警察で捜査中であり、その進展を見守りながら、当該職員に対しては厳正に対処したい」と述べた。結局、行政トップとしての「自己責任」への言及はなく、コンプライアンスだけでなく、ガバナンス(統治能力)の欠落もさらけ出した。

 

 

《追記ー2》~中村さんの死、黙とうさえもなく…

 

 アフガニスタンで非業の死を遂げた医師の中村哲さん(享年73)に対し、皇室のほか安倍晋三首相ら各界から弔意があふれ、9日開催された衆院本会議では大島理森議長の追悼の言葉に続いて、出席者全員が黙とうを捧げた。同じこの日、花巻市議会3月定例会で一般質問が始まったが、上田東一市長は答弁に先立ち「中村さんは宮沢賢治賞(イーハトーブ賞)を受賞しており、心からご冥福を祈りたい。告別式には職員を派遣したい」と述べるに止まり、議会側にも黙とうを促す動きはなかった。賢治もきっと、あの世で失望していることであろう。4日付当ブロブの追悼記事を参照願いたい。