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「新図書館」構想② 集中砲火!!…議会内に特別委員会の設置へ

  • 「新図書館」構想② 集中砲火!!…議会内に特別委員会の設置へ

 

 「これほどまでに議会はなめられているのか、あるいはひょっとして“敵前逃亡”ではあるまいか」―。「新図書館」構想(2月11日付当ブログ、あるいは花巻市のHP上に公開の議員説明会や記者会見資料などを参照)をめぐる花巻市議会の議員全員協議会(全協)は14日、こんな異様な光景で幕を開けた。今回の構想の最終的な立案責任者である上田東一市長の姿はなく、国から出向している長井謙副市長や担当部課長が神妙な表情で目の前に座っていた。「規則上は副市長以下の出席になっているが、これだけ問題が山積している懸案事項を部下任せで良いのか。他の公務を変更してでも市長自らが説明すべきではないのか」―。ある議員のこの発言をきっかけに当局に対する“集中砲火”が始まった。

 

 「議会に対する事前説明もなく、いきなり図書館の姿がまったく見えてこない構想案が降ってわいた。信じられないほどの議会軽視だ」、「市民参画の手法が完全に無視されている。これから市民への説明をするというが、単なるアリバイづくりではないのか」。「最初から“複合施設”ありきの計画。図書館のコンセプト(理念)のかけらもない」…。冒頭のあいさつもなく、長井副市長は座りっぱなしで、矢面に立った担当の市川清志・生涯学習部長は先月29日に行われた、質疑応答を含む記者会見資料をただ、棒読みするだけ。議員たちのボルテ-ジも次第に上がってきた。「頭(顔?首?)を洗って、出直した方が良い」、「このままではとても容認できない。いったん、構想自体を白紙に戻すべきではないか」、「『新花巻図書館』などという枕を外して、単なる複合施設整備事業構想の方がすっきりする」―

 

 「この際、議会内に図書館のあり方を検討する特別委員会の設置を提案したい」―。約1時間半にわたった全協の閉会間際にある議員が緊急動議を提出した。小原雅道議長が全員に諮った。「委員会の設置に反対の人はいませんか。いないようですので…」―。全員が賛成して、特別委員会の設置が決まった。私は刮目(かつもく)しながら、目の前の光景に目を凝らした。上田ワンマン体制に対してやっと、「ノ-」が突きつけられた瞬間ではないか、とそんな思いがした。私の2期8年間の議員生活ではついぞ、見かけることのなかった場面だったからである。そして、議員本来の姿を取り戻したことを素直に喜びたい気持ちになった。ところで、私はHP上に公開の「市長へのメ-ル」に2月9日付で以下のような投稿をした。本日(14日)現在、「なしのつぶて」である。

 

 

《新花巻図書館構想に関連し、次の3点について質問します》

 

●米国・ニュ-ヨ-クには“知の殿堂”と言われる世界最大級の「ニュ-ヨ-ク公共図書館」(NYPL)があります。かの地の勤務経験が長い上田東一市長はこの図書館を訪れた経験はありますか。ある場合は何度ほどですか。

この図書館の全貌を描いたドキュメンタリ-映画「ニュ-ヨ-ク公共図書館―エクス・リブリス」が巨匠、フレデリック・ワイズマン監督に手によって作品化(2017年)され、日本でも昨年5月に公開されました。「図書館とはどうあるべきか」―という理念が凝縮された3時間25分の超大作です。上田市長をこの映画を観たでしょうか。

●実際に当該図書館に足を運び、映画も鑑賞されているとしたら、今回の新花巻図書館構想の中にNYPLの理念がどう生かされ、今後どう反映させるつもりなのか―について回答を求めます。

 

 

 

(写真は10人も座ればいっぱいになってしまう現図書館の閲覧スペ-ス。ところが、今回の「新図書館」構想ではこうしたソフト面には一切、触れられていない=花巻市若葉町の現花巻市立図書館で)

 

 

「新図書館」構想① 全協開催へ…議員側にも異論噴出!?

  • 「新図書館」構想① 全協開催へ…議員側にも異論噴出!?

 

 「骨抜き」、「想定外」、「議会軽視」…。花巻市当局が公表した「新花巻図書館複合施設整備事業」構想(2月6日付当ブログ参照)をめぐって、議会側から激しい異論や不信の声が挙がっている。このため、今回の構想が練られた経緯やその内容について、当局側の真意をただすため、今月14日に議員全員協議会(全協)が開催されることになった。10日から始まった「議会報告会」(市民と議会との懇談会)でもこの問題に議論が集中し、トップダウンの市政運営にも批判が集まった。

 

 矢沢振興センタ-で開かれた議会報告会には図書館問題などを管轄する「文教福祉常任委員会」の本舘憲一委員長など6人の議員が出席した。市民の参加者はわずか4人と少なかったが、その分、新図書館をめぐる質疑に時間が割かれた。私はまず、昨年秋の議会報告会の席上、当局任せにするのではなく、議会としても独自の“青写真”(対案)を示すべきではないか―という観点から「(図書館)特別委員会」の設置を提案。その後の対応について、ただした。これに対し、本舘委員長は「その趣旨については各議員に伝えたが、具体的な議論までには至らず、宙に浮いた形になっていた。議会として今後、しっかりと向き合っていきたい」と答え、さらに語気を強めながら、こう続けた。

 

 「肝心の図書館の役割や機能については、一切触れられておらず、基本計画の策定さえも不透明な状態だ。まさに、“骨抜き”構想と言わざるを得ない。この点では議会運営委員会でも認識は一致している。特別委員会の設置も視野に入れながら、市民目線に立った図書館建設を目指していきたい」―。また、報告会を締めくくった若柳良明議員も「まったく想定外の構想に驚いている。議会の真価が問われる事態なので、徹底的に議論を詰めていきたい」と語った。

 

 今回の不動産物件まがいの新図書館構想は別の意味で、その突出ぶりが注目を集めている。国立国会図書館が運営する「図書館に関する情報ポ-タルサイト」には世界各地の図書館情報が集められており、当市の事例は1月30日付で紹介されている。この前後にざっと目を通すと―。

 

 

●町田市立中央図書館(東京都)~中高生向け「TEEN LIBRARY」をオ-プン。カフェをイメージした空間(1月16日付)

 ●中津市立小幡記念図書館(大分県)~妊婦や赤ちゃん連れの利用者がゆっくり座れることのできる「マタニティコ-ナ-」を設置(1月27日付)

 ●山形県立図書館、リニュ-アルオ-プン~対面朗読室、アクティブラ-ニングル-ム、ビジネス支援コ-ナ-などの設置(2月3日付)

 ●千葉市図書館~ビジョン2040(案)へのパブリックコメントの手続きを実施へ(2月6日付)

●龍ケ崎市立中央図書館(茨城県)~公共施設再編成の市民フォ-ラム「ワカモノ×図書館 みんなで考えよう これからの公共施設」―を開催。若者目線で考えた同館の有効活用のアイデアを発表(2月7日付)

 

 

 「新千葉県立図書館等複合施設基本計画」―。昨年8月、千葉県と県教委によって策定されたこの計画がひょっとして、当市の構想に類似しているかもしれないと思って調べてみたが、複合化とは文書館(ア-カイブ)と図書館との連結を意味し、その基本理念にはこうあった。「新たな知の拠点は、千葉県の有する様々な文化情報資源とそれを取り扱う専門的スキルを有する人々が集まり、県民の豊かな知的活動の基盤、知的生産の象徴となるような拠点と なることを目指します」。似て非なるものーとはこのことを指す。しかも、当市の構想策定に当たっては市教委は”蚊帳の外”に置かれたままだった。

 

 このポ-タルサイトの図書館情報はそのほとんどがソフト面に関わる内容である。それだけに「仏作って、魂入れず」という当市の奇怪な図書館像が余計に目立ってくる。皮肉れば、「集合住宅附属図書館」という過去に例を見ない”画期的”な試みになるやもしれない。「不動産業」としての図書館経営という意味で…。今後の動きから目を離せない所以(ゆえん)である。

 

 

 

(写真はたった4人しか集まらなかった議会報告会。逆に図書館論議は深まった=2月10日午後、花巻市の矢沢振興センタ-で)

暖冬異変ならぬ、上田「異変」…新図書館の“怪”と如月の満月と

  • 暖冬異変ならぬ、上田「異変」…新図書館の“怪”と如月の満月と

 

 公益財団法人「総合花巻病院」は医師不足や診療科目の縮小が解消されないまま、3月1日にオ-プンすることが正式に決まったが、今度はまさかと思っていた「本(理念)なし図書館」構想が明らかになった。人気(ひとけ&にんき)のない花巻中央広場や荒れ野と化した新興製作所跡地、旧料亭「まん福」の解体計画、かけ声倒れの中心市街地活性化…。そして、ついには「不動産」物件に姿を変えた“図書館”の出現である。上田(東一)ワンマン市政の無能ぶりを天下にさらすような今回の構想が公表されたのは1月29日。新年早々、「悪夢」が「正夢」になったという縁起でもない話である。ペテン、つまり詐欺まがいというのはこの種のことを言うのである。

 

 宮沢賢治や萬鉄五郎など郷土を代表する先人を紹介しながら、「新図書館整備基本構想」(平成29年8月)にはその基本方針について、こう謳われている。「市民一人ひとりの生活や活動を支援することを基本的に考えながら、先人が育んできた『学びの精神』を受け継ぎ、図書館が次世代を担う子どもの読書活動を支援し、豊かな心を育てる施設として、また情報を地域や産業の創造に結びつける施設として、まちや市民に活力と未来をもたらす図書館を目指して…」―。ここには曲がりなりにも図書館のあるべき姿(理念)が示されているが、今回公表された「新花巻図書館複合施設整備事業構想」はそのねらいについて、冒頭にいきなりこう記す。

 

 「本市は、将来を見越して効率的で利便性の高い暮らしやすい都市づくりに取り組んでいます。…駅前に賃貸住宅も併設する図書館複合施設を建設することは、市街地の人口密度を保ちつつ、市内の複数の拠点を公共交通でつなぐ『コンパクト・プラス・ネットワ-ク』構想の具体的な取り組みの一つです。複合施設の上層部に若者から高齢者まで対応できる様々なタイプの賃貸住宅を整備します。持続可能な街の都市形成に向けて、健康で快適な都市型生活環境を提供し、子育て世代など若年層にも魅力的なまちをつくります…」―。資料には建設予定地や整備手法、財源などの説明があるだけで、肝心の図書館の蔵書数やその種別、閲覧空間、書架の機能、司書の配置などのソフト面については一切、触れられていない。「主客転倒」―「本末転倒」とはこのことである。

 

 「仏作って、魂入れず」―。とくに図書館のような文化施設の場合、「箱もの」行政を優先させるのは“鬼門”とされている。当たり前のことである。「知のインフラ」ともいわれる図書館づくりに当たってはまず、「そこの住民にとって、どんな施設が理想的か」という入口論からスタ-トしなければならない。どこに建てるのか、どんな規模にするのか―といった問題はそれからである。最初から逆さまなのである。宮沢賢治の理想郷「イ-ハ-ト-ブ」をまちづくりのスロ-ガンに掲げ、文化都市の実現を標榜(ひょうぼう)する自治体の貧相な素顔が透けて見えてくるではないか。しかし、上田市長は当初から、図書館にはあまり熱心ではなかったようなのである。たとえば、その心臓部に当たる蔵書数について―

 

 前市政が平成25年5月、新図書館の建設に当たっての適正蔵書数を「50~65万冊」と算定したのに対し、その後に就任した上田市長は半分の30万冊に見直す考えを示し、その理由をこう述べた。「人口減が見込まれる中で利用者が蔵書数の増加ほどに増えるとは考えにくく、一層厳しさを増すと見込まれる財政状況を踏まえ、運営経費や従事者数が現状を大きく超えないよう計画の規模を見直す必要があります。蔵書数は県内他市の市立図書館と比較して突出して多いものでしたが、30万冊は花巻市の都市規模にもほぼ見合うものと考えられます」(「まちづくりと施設整備の方向」、平成26年11月)―

 

 その後、蔵書数などのソフト面の論議が深められた形跡はなく、今回の不動産まがいの構想がいきなり表面化したというのが真相である。大学入学共通テストをめぐる某大臣の「身の丈」発言を髣髴(ほうふつ)させる言葉ではあるまいか。人口比と蔵書数とを単純に比較するという、その精神の貧困さに驚いてしまう。

 

 商社勤務時代、ニュ-ヨ-クなどでの長い勤務体験のある上田市長は議会答弁などでそのことを自慢げに口にすることがあった。その大都市に世界最大級の知の殿堂と言われるニュ-ヨ-ク公共図書館(NYPL)がある。1911年に建てられ、いまでは黒人文化研究図書館や科学産業ビジネス図書館など4つの研究図書館と88に及ぶ地域分館で構成されている(2019年10月8日付当ブログ参照)。ドキュメンタリ-の巨匠、フレデリック・ワイズマン監督によって映画化(2017年公開)され、日本でも昨年5月に公開された。「図書館とはこうあるべきだ」という3時間25分に及ぶこの超大作は図書館関係者には必見の作品である。

 

 NYPLには世界中から演劇人や俳優、作家、研究者、政治家など様々な人々が集まってくる。この知の殿堂から発信された芸術作品は数限りない。一方、賢治作品は遠くクロアチア語やルーマニア語などを含め、その翻訳国数は世界一を誇る。だからたとえば、「賢治ライブラリ-」を名乗るだけで国内だけではなく、全世界から賢治研究者や愛好家を呼び寄せるのも夢ではない。というよりも、想像力豊かで柔軟なこうした発想こそが実は、図書館づくりの醍醐味なのである。「仏に魂を入れる」―というのはまさにこのこと。「イ-ハト-ブはなまき」に足を運んでも賢治の作品や関連本がきちんと、整備されていないという不満は以前から聞こえていた。ましてや、ハ-ドやソフトを含め、図書館全体の枠組み作りを外部に丸投げするというやり方は邪道そのもの…いや、行政の責任放棄と言わざるを得ない。

 

 行政トップを司る我が”宰相”よ、アメリカ時代に一度はNYPLに足を運んだことがあるとは思うが、もしなかったらば映画だけはぜひ、見てほしいと思う。いまからでも遅くはない。原点に立ち返って、構想を練り直してほしいと切に願いたい。図書館のようなビッグプロジェクトは文字通り「百年の計」だからである。ブログの再録になるが、ワイズマン監督はこう述べている。「ニュ-ヨ-ク公共図書館は最も民主的な施設です。すべての人が歓迎されるこの場所では、あらゆる人種、民族、社会階級に属する人々が積極的に図書館ライフに参加しているのです」(パンフレットから)。米国では図書館を称して「ピ-プルズ・パレス」(people's palace)と呼ぶという。「人々がより集う」という意味では、まさに“人民宮殿の名にふさわしい命名である。

 

 貧すれば、鈍する…。軽佻浮薄(けいちょうふはく)にして、かつ強権的なご仁(じん)に行政を任せていては、我がふるさとは破壊されてしまいかねない。NYPLは当市でも導入を検討している「公民連携」方式で、運営費の約4割は民間からの寄付で賄(まかな)われている。この成功例に謙虚に学ぶことから出直したらどうか。

 

 

 

(写真は雲間から顔を出した満月。「花巻市政の”暗雲”も振り払ってほしい」と思わず、手を合わせた=2月9日、花巻市桜町3丁目の自宅から)

 

 

 

《追記-1》~図書館の充実を!

 

 身内のことで恐縮だが、沖縄・石垣島に住む小学5年生の長男の孫が最終学年の生徒会長に立候補する決断をしたとして、手書きのポスタ-の写真を送ってきた。「がんばるので、一票お願いします」と書かれ、公約には「マナ-を守り、元気で本をたくさん読む学校にします」とあった。で、結果のほどは?立候補者は全部で15人。この数もすごいと思うが、最初に5~6年生の投票で6人にしぼり、最終的には3年生以上の投票で選出されるのだという。孫は第8位の次々点で涙を飲んだそうだが、「立候補しただけで偉い」とエール。親バカだと思い、ご寛恕(かんじょ)のほどを…。それにしても、孫の話になるとジジイの頬(ほほ)は緩みっぱなしになるもんですねぇ。「70歳になってから、市議に立候補した誰かさん(つまり私)に似たのかなぁ」とは娘の言

 

 

《追記―2》~ある書評家の”遺言状”

 

 岩手日報のコラム「青春広場」で14年間にわたって、本の魅力を伝え続けてきた花巻市在住の書評家・岩橋淳さんが難病の末に亡くなって、1年が過ぎた。私も彼の的を外さない書評をきっかけに何冊もの本を購入したひとりだが、その思いを共有する仲間たちがクラウドファンディングで制作費を募り、連載の書籍化に踏み切ったことを同紙が報じていた(2月7日付「風土計」)私は生前、当市の図書館関係の部署に対し「一度図書館の理念について、意見を伺ったらどうか」と持ちかけたが、担当者は同じまちに住む、この”本の目利き”の存在すら知らなかった。岩橋さんはほどなく、旅立った。「風土計」は記事をこう結んでいる。「岩橋さんの情熱が本になる。その情熱に触れた若者たちが読書好きになり、自らの世界を広げ、本と一緒に大きく羽ばたく。そんな未来への旅行者があふれてほしい」

 

 

《追記ー3》~スノームーン

 

 2月9日午後5時45分ごろ、厚い雲間から2月(如月=きさらぎ)の満月が少しづつ、顔を出し始めた。そしてやがて、雲を吹き払った中天にぽっかりと…。ネイティブアメリカンが「スノームーン」と呼ぶ冬の月である。しんしんと冷え込む寒気の中に「雪月」はさえざえと浮かんでいる。真冬に欠かせない風物詩。いやな世情を忘れさせる一瞬でもある。そういえば、亡き妻のニックネ-ムも「満月」さんだった。ふと見上げると、さっきまで纏(まと)っていた雲の衣装を、満月はどこかに脱ぎ捨てたらしい。寒くないのかい、お前は…。はるか南の島の海に眠る妻をしのび、「月桃」(作詞・作曲、海勢頭豊)を聴く。ベッドにもぐりこむ前にまたひょいっと見上げると、な~んだ、また綿入れみたいな“雲衣”にくるまっているではないか。だろう、やっぱり寒かったんだろう(上掲写真)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「南」と「北」との競作…エンタメ魂、炸裂

  • 「南」と「北」との競作…エンタメ魂、炸裂

 

 『宝島』(真藤順丈著)と『熱源』(川越宗一著)と―。沖縄を舞台にした前者は第60回(2018年下期)、アイヌ民族とポ-ランド人の文化人類学者を主人公にすえた後者は第62回(2019年下期)の直木賞受賞作である。作者はともに本土在住の41歳(受賞時)。沖縄での突然の「旅の終わり」(1月27日当ブログ参照)に伴って急きょ、帰郷した1月15日のその日に川越さんの受賞を知った。南の島の余韻が残る中で一気に読み終えた。不思議な感覚が体を貫いた。私は沖縄報告の最終回に「南と北」の視点の大切さを書き記した。そのことが図らずもこのエンタメ小説によって、日の目を見たと思ったからである。

 

 「返還によって日本(ヤマトゥ)のはしっこに加えてもらうんじゃない。国家の首都の座を獲得するのさ。戦争をしないことにした日本の平和がアメリカの傘下(さんか)に入ることで成立しているなら、その重要基地のほぼすべてを引き受ける地方が国政をつかさどるべきだとは思わないか。地図の片隅にある島だなんて先入観にとらわれるな、それは本土(ヤマトゥ)の人間が描いた地図なんだから」(2019年1月11日付当ブログ参照)。私は『宝島』の主人公のひとり、レイの激したような言葉をブログの一節に引用した。『熱源』を読みながら、レイと同じようなほとばしる熱気を感じた。

 

 426ページに及ぶ大作の『熱源』は樺太(サハリン)で生まれ、明治維新後に北海道に強制移住させられた樺太アイヌ「ヤヨマネクフ」とロシア皇帝暗殺未遂事件に巻き込まれ、樺太に流刑されたリトアニア生まれの「ブロニスワフ・ピウスツキ」(1866―1918年)の波乱万丈の交流を描いた作品である。日露戦争から第2次大戦までの長い時間軸の中で、日本とロシアという大国に翻弄(ほんろう)され続けた2人の人生ドラマはまさに“叙事詩”と呼ぶにふさわしい。ブロニスワフはのちにアイヌ女性と結婚し、ヤヨマネクフは「山辺安之助」(1867―1923年)と日本名に改名し、白瀬矗(しらせのぶ)が率いる南極探検隊に犬そり隊(樺太犬)の隊長として、参加している。ちなみにブロニスワフの弟、ヨゼフはロシアから独立した際のポ-ランド共和国の初代国家元首として知られる。文中でヤヨマネクフが独白し、会話を交わす場面が出てくる。

 

 「生きるための熱の源は、人だ。人によって生じ、遺され、継がれていく。それが熱だ。自分の生はまだ止まらない。熱が、まだ絶えていないのだから。灼けるような感覚が体に広がる。沸騰するような涙がこぼれる。熱い。確かにそう感じた」…「俺たちはどんな世界でも、適応して生きていく。俺たちはアイヌですから」、「アイヌ種族にその力があると」、「アイヌって言葉は、人って意味なんですよ」―。タイトルの由来が輪郭を形づくり、その上にレイの言葉がすう~っと重なったように気がした。

 

 文芸評論家の斎藤美奈子さんは「抵抗するフィクションを探して」(『世界』2月号)と題する論考の中で、「政治に対抗しうるフィクションの可能性」として、沖縄文学、アイヌ文学、在日文学の三分野を挙げている。とくに、今回の直木賞作品のように当事者(沖縄、アイヌ)に寄り添うべく外から参入した作品について、「#e Too」ならぬ「#ith You」文学だと絶妙に命名、こう述べている。「高度に洗練された今般のフィクションは単純な勧善懲悪を忌避する傾向が強い。抵抗する文学はだから少ない。それでも国家権力に蹂躙(じゅうりん)された記憶が染み込んでいる沖縄や北海道を舞台にした小説には、辛うじて立ち上がって戦う人々が残っており、ときにしょぼくれた読者を勇気づけ、ときにふて寝する読者を叱咤(しった)する。…歴史修正主義の台頭と、世にいうフィクションの衰退の間に因果関係はないといいきれるだろうか」

 

 「それでもどっこい、アイヌは生きている。これこの通り、おまえの前でな」―。『熱源』のページを閉じた瞬間、北海道勤務時代にアイヌのエカシ(長老)がふとつぶやいた言葉が突然、目を覚ましたのではないかと思った。『宝島』の著者、真藤さんも受賞後にこう語っている。「沖縄の複雑な諸問題は、現在の日本が抱える最大級の難題といってもいい。批判を恐れて萎縮して、精神的に距離を置いてしまうことは、ヤマトンチュがこれまで歴史的に沖縄におこなってきた『当たらず障らず』の態度と変わらない」―。#ith You」文学こそが腰の引けた“純文学系”作品に歯向かい、不遜きわまりないヤマトンチュ(本土=中央)の思想の根腐れに風穴を開けるのではないか。そんな予感がしてきた。

 

 「どれほど悲惨な現実を描いていても、沖縄エンタメ小説はどこか明るい。ウチナンチュはへこたれない。辺野古の新基地建設反対運動がなぜあれほど粘り強く続くのか。その秘密が垣間見える気さえする」と斎藤さんは論考の中で書いている。私もあの現場の人肌を感じるような“小宇宙”のたたずまいが忘れられない。漫画「ゴ-ルデンカムイ」(野田サトル著=20巻)は日露戦争を生き延びた元陸軍軍人と彼を助けたアイヌの少女、アシリパが「アイヌの金塊」をめぐって、バトルを繰り広げる壮大な物語である。まさに、現代版「ユ-カラ」(英雄叙事詩)そのものである。つけ加えるなら、宇宙物理学者で宮沢賢治の研究家でもある故斎藤文一さん(新潟大学名誉教授)は美奈子さんの父親で、隣町の北上市の出身。南極探検隊に加わった経験もある。

 

 いま、私の頭の中は南と北を行ったり来たりで、グルグルと目が回りそうである。そして、はたと心づく。私がいま立っている場所はその大昔、ヤマト(大和)の侵略を受けた“蝦夷”(えぞ=エミシ)征伐の地だった、と……。そして、ふと政治の舞台を見回すと、相変わらず、こんな発言が堂々とまかり通っている。「2千年の長きにわたって一つの場所で、一つの言葉で、一つの民族、一つの天皇という王朝が続いている国はここしかない。よい国だ」(麻生太郎副総理兼財務相、2020年1月13日) 最後に記録作家・故上野英信さんの“遺言状”にさらなる加筆をする無礼を許していただきたい。

 

 

筑豊よ、沖縄よ、アイヌよ、そしてエミシの末裔たちよ

日本を根底から

変革する、エネルギ-の

ルツボであれ

火床であれ

 

 

 

(写真はエンタメ魂が炸裂する直木賞の受賞作。いまその勢いが止まらない)

 

 

沖縄から(10―完)…旅の終わりに

  • 沖縄から(10―完)…旅の終わりに

 

 今回の「旅の終わり」はまさに突然、訪れたのだった。1月10日未明の午前2時ごろ、以前から私の沖縄訪問の際に“杖”となり、“足”となってくれていたUさんが同宿したマンスリ-マンションの浴槽で倒れているのを発見した。4年前に千葉県から沖縄に移住し、私のような不案内な旅行者を観光地ではない、たとえば沖縄戦の戦跡や米軍基地の現状を肌で知ることができる現場へと解説付きで連れて行ってくれた。亡き妻をこうした場所に案内してくれたのもこの人だった。本土から訪れる人たちを乗せる「辺野古バス」の運行の手助けをしたり、かと思えば、反対派の拠点テントの中で大鍋にカレ-を仕込んでいる姿も目撃している。

 

 幸い、一命は取り留めたものの、いまも那覇に近い病院で治療を続けている。沖縄と本土をつなぐ最前線にはUさんのように、文字通り“架け橋”に徹する人たちがいる。Uさんとの出会いがなければ、沖縄の記憶を辿りたいという私の数度にわたる「沖縄訪問」も実現していなかったかもしれない。まだ、58歳。一進一退の容態を気遣いつつ、同行者としての責任を感じる日々……

 

 Uさんの身の上に起こった突然のアクシデントが30年も前の、もうひとつの「旅の終わり」の記憶を呼び覚ましたようだった。北海道勤務を終えて東京本社に転勤する際、私は当時流行(はやって)いた演歌「旅の終わりに」(冠二郎)の一節を挨拶状の冒頭にしたためた。赤面するようなキザな文章だが、現代ニッポンを照射しているという意味ではそれほど的外れではないような気もする。恥のかき捨てついでにその要旨を以下に―

 

●「春にそむいて/世間にすねて/ひとり行くのも/男のこころ…」―。吹雪が舞う北の街で、この唄を口ずさむのが好きでした。報道部有志が送別会を催してくれた翌日、残雪の山並みを眼下に見ながら、五木寛之の同じ題名の文庫本を読みふけっていました。『旅の終わりに』。津軽海峡をひとまたぎした飛行機はあっという間に「トウキョウ」に到着していました。この世界に足を踏み入れて25年。水俣病や被差別部落、そして筑豊…。中央から切り捨てられていく姿を長い間、見続けました。途中、少し寄り道をして北海道へ。ここでもまた、炭鉱閉山や農漁業の衰退、和人の侵略にさらされ続けるアイヌ民族の苦悩を知りました。そしていま、25年ぶりにトウキョウの地に立っています。

 

●地下鉄の中で分厚い本を手にした若い女性を見かけました。題名をのぞいて、ぎょっとしました。『常勝思考』。捨て石の山が地方に築かれている間に、中央は勝つことだけに熱中していたのでした。言葉の片鱗として「上昇志向」という程度の記憶しかない浦島太郎にとっては驚くべき出来事でした。「はじまり」があるから「終わり」もあります。南と北の「目」を大事にしたいと思っています(1990年4月の転勤挨拶状から)

 

 沖縄訪問の際、避けて通ることが許されない“関所”がある。「風貌からして叛逆老人。白いあご髭を長く垂らして、手を振って熱弁をふるう」(鎌田慧著『叛逆老人は死なず』)と紹介されている彫刻家の金城実さん(81)である。実は最初に金城さんに引き合わせてくれたのもUさんだった。「関所に立ち寄ってから、田舎に戻ります。早く元気になってまた、水先案内になってください」―。病室に見舞うとUさんは混濁する意識の中で、かすかにうなずいたようだった。うしろ髪がひかれる思いで、病院をあとにした。

 

 「うしろに回ってよく見てみろ」と金城さんがうす暗いアトリエの中で言った。最新作の木彫の背後に「Home-Less」(ホ-ムレス)と刻んであった。「本土に打ち捨てられた沖縄の現実を描きたかったんだよ」と金城さん。「叛逆老人の全国ネットワ-クっていうのはどうですか。南と北から“中央”をにらみ返すんですよ。オジィこそがその代表格にぴったりだと思うんです」と誘惑すると、まんざらでもないような表情で自慢のヒゲをなでまわした。この報告を閉じるに当たって、記録作家・故上野英信さんの“遺言状”(1月23日付当ブログ)について、「筑豊」を「沖縄」に置き換えた浅慮(せんりょ)を反省したい。前者の捨て石の上にいまさらに「後者」の捨て石が築かれようとしているという意味では、両者は並立でなければならない。そして、さらにつけ加えるとすれば、北のアイヌ民族の受難も…

 

 

筑豊よ、沖縄よ、アイヌよ

日本を根底から

変革する、エネルギ-の

ルツボであれ

火床であれ

 

 

 自前の「背もたれ」を探し求める今回の旅は道半ばで終わった。しかし、この「終わりなき旅」はUさんに背中を押されるようにして、ふたたび再開されると私は確信している。二人三脚の旅を支えてくれたUさんへの心からの感謝と一日も早いカムバックを祈りつつ……

 

 

 

 

(写真は流木などを拾い集めて、ノミを振るう金城さん。”叛逆老人”の作品にはなぜか「鬼」を題材にしたものが多い=インターネット上に公開された写真より)