HOME > 記事一覧

「新図書館」構想⑱ 旅する本屋…パンデミックと知の伝道者たち

  • 「新図書館」構想⑱ 旅する本屋…パンデミックと知の伝道者たち

 

 「アレッシアは大丈夫だろうか」―。イタリア人ジャ-ナリスト、アレッシア・チャラントラさん(39)の安否を気遣う日々。お見舞いのメ-ルを送って1週間になるのにまだ、返事がない。心配だ。あれからもう、10年になる。東日本大震災の際、彼女はわが家を拠点に沿岸被災地の取材を続け、その惨状を世界に向けて発信した。遠く海を隔てた取材行はその後、数年間に及んだ。その国がいま、最悪の災厄のただ中に投げ出されている。胸がふたがれるそんなある日、「涙より笑みを/イタリアの品格―コロナ禍の若者たち」と題する新聞のコラムが目に飛び込んできた(4月7日付「読売新聞」)

 

 「緊急事態宣言が出た後、各地の高校生、大学生達と連絡を取った。イタリアの未来を支える彼らが、非日常へと突然変わってしまった日常をどうように暮らすのかを知りたかった。ボッカチョの『デカメロン』を読み返している、と話した大学生がいた」―。コラムの筆者はイタリア在住の日本人ジャ-ナリスト、内田洋子さん(61)。文中に登場する『デカメロン』は中世ヨ-ロッパを襲ったペスト禍から逃れ、フィレンツェ郊外で10日間を語り明かした若い男女の物語である。はたと心づいた。イタリアを発祥の地とする「ルネサンス」(再生・復活=文芸復興)こそがこのパンデミックをきっかけとした社会変革の運動だった、と…

 

 「この山に生まれ育ち、その意気を運び伝えた、倹(つま)しくも雄々しかった本の行商人たちに捧ぐ」―。イタリア北部の山岳地帯に位置する寒村・モンテレッジォの広場の石碑にこう刻まれている。『モンテレッジォ/小さな村の旅する本屋の物語』というタイトルの自著で、この村の歴史を追った内田さんはこう記す。「彫られているのは、籠(かご)を肩に担いだ男である。籠には、外に溢れ落ちんばかりの本が積み入れてある。男は強い眼差しで前を向き、一冊の本を開き持っている。ズボンの裾を膝まで手繰(たぐ)り上げて、剥き出しになった脹脛(ふくらはぎ)には隆々と筋肉が盛り上がり、踏み出す一歩は重く力強い」―。

 

 宮沢賢治の「サムサノナツ」(「雨ニモマケズ」)を彷彿(ほうふつ)させる光景だが、200年以上前の1816年、北ヨ-ロッパや米合衆国北東部、カナダ東部では夏にも川や湖が凍結するという異変に見舞われ、「夏のない年」と呼ばれた。モンテレッジォも壊滅的な被害を受けた。栗以外に主産物に恵まれない村人たちはかつて、岩を砕いた「砥石(といし)」をヨ-ロッパ中に売り歩いた。その時に鍛えた肉体が役に立った。「石から本へ」―。屈強な男たちは今度は石のように重い本をカゴに入れて担いだのである。「『白雪姫』、『シンデレラ』、『赤ずきんちゃん』、『長靴を履いた猫』など、子供向けの本はよく売れましたね。ことさらクリスマス前は盛況でした」と行商人の末裔は文中で語っている。

 

 「大勢の若者が、老人のために買い物代行のボランティアを始めた。『自由にお取りください』とカ-ドを付けて、パスタやチ-ズを入れたカゴを路地へと吊し下ろす人達がいる。恋人の下宿に移って外出禁止の生活を共に始めることにした男子学生は『コロナ時代には愛だ』と、父親からエ-ルを送られた。バリカンで自分の髪をカットしてくれる高校生の姉に、小学生の弟は『失敗しても気にしないで。髪はまた生えてくるから』と、礼を言う」―。内田さんはコラムの中でイタリアの若者たちのこんな姿を紹介している。時折、テレビが映し出すイタリアの惨状を見ながら、ふたたびアレッシアの消息が気になる。「老いた両親もいたはずだが、無事だろうか…」

 

 大学で日本文学を学んだアレッシアは夏目漱石の『こころ』を原文で読みこなすほどの日本通で、自らのHPには「雨ニモマケズ」を張り付けていた。この本は近代人のエゴイズムと倫理観との葛藤を描いた作品で、「明治」という時代の精神を浮き彫りにしている。「日本もイタリアも地震国。だから、日本人の心を知りたかった。それには本がいちばんね」とその時、彼女はケロッとして言った。東日本大震災の2年前、イタリア中部で300人以上が犠牲になった「ラクイラ地震」が発生した。三陸沿岸の被災地を初めて訪れた時、絶句して立ち止まった。「まるで古代都市『ロ-マ帝国』―ポンペイの遺跡とおんなじだ」

 

 「ルネサンスがそうであったように、パンデミックこそが内なる未来を宿しているのではないか。その未来は過去を背負っている。そして、過去の記憶をいまに伝えるものこそが活字、つまり本というものではないのか」―。日伊をまたぐ二人の女性ジャ-ナリストから、そんなことを教えられたような気がする。ペスト禍に触発されて『神曲』を著したダンテもかつて、モンテレッジォを訪れたという歴史がある。67年前、村人たちは本への感謝を込めて、最も売れ行きの良かった本を選ぶ「露天商賞」を創設。第1回目にはヘミングウエイの『老人と海』が選ばれた。コロナ禍を生きる現代版『デカメロン』の若者たちはどんな未来を予見しているのだろうか……

 

☆彡

 

 アレッシアよ、どうか元気でいてほしい!?

 

 (※彼女が17日付で自らのツイッタ-に投稿していることを当ブログを読んだ知人が連絡してくれた。イタリア語が読解できないので内容は分からないが、とにかく無事らしい。良かった。こんな形で安否を確かめ合い、情報を共有することができるツールを今度こそ「ポスト・コロナ」の未来に生かしていければ…)

 

 

 

(写真はモンテレッジォの村の広場に建つ「本の行商人」をたたえる石碑=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

ユヴァル・ハラリからのメッセ-ジ…その2

  • ユヴァル・ハラリからのメッセ-ジ…その2

 

 「新型コロナウイルス後の世界―この嵐もやがて去る。だが、今行なう選択が、長年に及ぶ変化を私たちの生活にもたらしうる」―(原題:the world after coronavirus―This storm will pass. But the choices we make now could change our lives for years to come)」(3月20日付「英フィナンシャルタイムス紙」より=要旨というより、剽窃(ひょうせつ)まがいの私的メモランダム)

 

 

●人類は今、グロ-バルな危機に直面している。それはことによると、私たちの世代にとって最大の危機かもしれない。私たちは迅速かつ決然と振る舞わなければならない。だが、自らの行動の長期的な結果も考慮に入れるべきだ。さまざまな選択肢を検討するときには、眼前の脅威をどう克服するかに加えて、嵐が過ぎた後にどのような世界に暮らすことになるかについても、自問する必要がある。

 

●この危機に臨んで、私たちは2つのとりわけ重要な選択を迫られている。第1の選択は、全体主義的監視か、それとも国民の権利拡大か、というもの。第2の選択は、ナショナリズムに基づく孤立か、それともグロ-バルな団結か、というものだ。

 

●感染症の流行を食い止めるためには、各国の全国民が特定の指針に従わなくてはならない。これを達成する主な方法は2つある。1つは、政府が国民を監視し、規則に違反する者を罰するという方法だ。今日、人類の歴史上初めて、テクノロジ-を使ってあらゆる人を常時監視することが可能になった。今や各国政府は、生身のスパイの代わりに、至る所に設置されたセンサ-と、高性能のアルゴリズム(算定式)に頼ることができる。

 

●油断していると、今回の感染症の大流行は監視の歴史における重大な分岐点となるかもしれない。一般大衆監視ツ-ルの使用をこれまで拒んできた国々でも、そのようなツ-ルの使用が常態化しかねないからだけではなく、こちらのほうがなお重要だが、それが「体外」監視から「皮下」監視への劇的な移行を意味しているからだ。新型コロナウイルスの場合には、関心の対象が変わる。今や政府は、あなたの指の温度や、皮下の血圧を知りたがっているのだ。

 

●ぜひとも思い出してもらいたいのだが、怒りや喜び、退屈、愛などは、発熱や咳とまったく同じで、生物学的な現象だ。だから、咳を識別するのと同じ技術を使って、笑いも識別できるだろう。企業や政府が揃って生体情報を収集し始めたら、私たちよりもはるかに的確に私たちを知ることができ、そのときには、私たちの感情を予測することだけではなく、その感情を操作し、製品であれ政治家であれ、何でも好きなものを売り込むことも可能になる。

 

●たとえ新型コロナウイルスの感染数がゼロになっても、デ-タに飢えた政府のなかには、コロナウイルスの第2波が懸念されるとか、新種のエボラウイルスが中央アフリカで生まれつつあるとか、何かしら理由をつけて、生体情報の監視体制を継続する必要があると主張するものが出てきかねない。近年、私たちのプライバシ-をめぐって激しい戦いが繰り広げられている。新型コロナウイルス危機は、この戦いの転機になるかもしれない。人はプライバシ-と健康のどちらを選ぶかと言われたなら、たいてい健康を選ぶからだ。

 

●だが、プライバシ-と健康のどちらを選ぶかを問うことが、じつは問題の根源になっている。なぜなら、選択の設定を誤っているからだ。私たちは、プライバシ-と健康の両方を享受できるし、また、享受できてしかるべきなのだ。全体主義的な監視政治体制を打ち立てなくても、国民の権利を拡大することによって自らの健康を守り、新型コロナウイルス感染症の流行に終止符を打つ道を選択できる。

 

●今は平時ではない。危機に際しては、人の心はたちまち変化しうる。兄弟姉妹と長年、激しく言い争っていても、いざという時には、人知れずまだ残っていた信頼や親近感が蘇り、互いのもとに駆けつけて助け合うこともありうる。監視政治体制を構築する代わりに、科学と公的機関とマスメディアに対する人々の信頼を復活させる時間はまだ残っている。

 

●このように、新型コロナウイルス感染症の大流行は、公民権の一大試金石なのだ。これからの日々に、私たちの一人ひとりが、根も葉もない陰謀論や利己的な政治家ではなく、科学的デ-タや医療の専門家を信じるという選択をするべきだ。もし私たちが正しい選択をしそこなえば、自分たちの最も貴重な自由を放棄する羽目になりかねない―自らの健康を守るためには、そうするしかないとばかり思い込んで。

 

●私たちが直面する第2の重要な選択は、ナショナリズムに基づく孤立と、グロ-バルな団結との間のものだ。感染症の大流行自体も、そこから生じる経済危機も、ともにグロ-バルな問題だ。そしてそれは、グロ-バルな協力によってしか、効果的に解決しえない。

 

●戦時中に国家が基幹産業を国有化するのとちょうど同じように、新型コロナウイルスに対する人類の戦争では、不可欠の生産ラインを「人道化」する必要があるだろう。新型コロナウイルスによる感染例が少ない豊かな国は、感染者が多発している貧しい国に、貴重な機器や物資を進んで送るべきだ。やがて自国が助けを必要とすることがあったなら、他の国々が救いの手を差し伸べてくれると信じて。

 

●人類は選択を迫られている。私たちは不和の道を進むのか、それとも、グロ-バルな団結の道を選ぶのか?もし不和を選んだら、今回の危機が長引くばかりでなく、将来おそらく、さらに深刻な大惨事を繰り返し招くことになるだろう。逆に、もしグロ-バルな団結を選べば、それは新型コロナウイルスに対する勝利となるだけではなく、21世紀に人類を襲いかねない、未来のあらゆる感染症流行や危機に対する勝利にもなることだろう。

 

 

 

(写真は2千万部を超える世界的なベストセラ-になった代表作=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

 

ユヴァル・ハラリからのメッセ-ジ…その1

  • ユヴァル・ハラリからのメッセ-ジ…その1

 

 「災害は忘れたころにやって来る」という。その“忘れ時”について、私たち日本人は「10年ひと昔」などという絶妙な表現を身に付けている。「苦あれば楽あり」という独特の無常感を背負っているせいかもしれない。今年は東日本大震災からちょうど10年目の節目に当たる。この10倍の100年前、世界人口の4分の1に相当する5億人が感染し、5千万人が死亡したとされるパンデミック(大流行)が発生した。インフルエンザウイルスが引き起こした、いわゆる“スペイン風邪”である。パンデミックはこのように人間が過去を忘れ去る時間軸にまるで照準を定めるかのように突然、襲いかかってくる。今回もそんな「思考停止」状態のさ中、しかもわずか10年前の「3・11」の記憶をわきに葬ったまま、「復興」五輪に浮かれていた「ニッポン」を直撃した。

 

 世界的ベストセラ―『サピエンス全史』や『ホモ・デウス』、『21 Lessonsなどの著作で知られるイスラエル出身の歴史学者で哲学者のユバル・ノア・ハラリ(44)は3月15日付の米タイム誌に「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか―今こそ、グロ-バルな信頼と団結を」…さらにその5日後には英フィナンシャルタイムス紙に「新型コロナウイルス後の世界―この嵐もやがて去る。だが今行う選択が、長年に及ぶ変化を私たちの生活にもたらしうる」と題する論考を寄稿、「Web河出」で訳出されている。この二つの記事の中から心に引っ掛かった部分を2回にわけて転載する。

 

 読解にかなりのエネルギ-を要する文章からの抜き書きなので、前後の文脈が飛躍している感があるが、興味のある方はぜひ原文をお読みいただきたい。それゆえ、この引用は私自身が「コロナ」後に備えた備忘録あるいは処方箋…ひと言でいえば、残された「生」を生きるための“覚え書き”(メモ)といったものである(1回目は米タイムス誌より)

 

 

 

 

多くの人が新型コロナウイルスの大流行をグロ-バル化のせいにし、この種の感染爆発が再び起こるのを防ぐためには、脱グロ-バル化するしかないと言う。壁を築き、移動を制限し、貿易を減らせ、と。だが、感染症を封じ込めるのに短期の隔離は不可欠だとはいえ、長期の孤立主義政策は経済の崩壊につながるだけで、真の感染症対策にはならない。むしろ、その正反対だ。感染症の大流行への本当の対抗手段は、分離ではなく協力なのだ。

 

●1918年(スペイン風邪の発生)以来の100年間に、人口の増加と交通の発達が相まって、人類は感染症に対してなおさら脆弱になった。中世のフィレンツェと比べると、東京やメキシコシティのような現代の大都市は、病原体にとってははるかに獲物が豊富だし、グロ-バルな交通ネットワ-クは今日、1918年当時よりもずっと高速化している。ウイルスは、24時間もかからないでパリから東京やメキシコシティまで行き着ける。したがって私たちは、致死性の疫病(えきびょう)が次から次へと発生する感染地獄に身を置くことを覚悟しておくべきだった。

 

●(一方で)20世紀には、世界中の科学者や医師や看護師が情報を共有し、力を合わせることで、病気の流行の背後にあるメカニズムと、大流行を阻止する手段の両方を首尾良く突き止めた。進化論は、新しい病気が発生したり、昔からある病気が毒性を増したりする理由や仕組みを明らかにした。遺伝学のおかげで、現代の科学者たちは病原体自体の「取扱説明書」を調べることができるようになった。中世の人々が、黒死病の原因をついに発見できなかったのに対して、科学者たちはわずか2週間で新型コロナウイルスを見つけ、ゲノムの配列解析を行ない、感染者を確認する、信頼性の高い検査を開発することができた。

 

●(他方)たった1人の人間でも、何兆ものウイルス粒子を体内に抱えている場合があり、それらが絶えず自己複製するので、感染者の1人ひとりが、人間にもっと適応する何兆回もの新たな機会をウイルスに与えることになる。個々のウイルス保有者は、何兆枚もの宝くじの券をウイルスに提供する発券機のようなもので、ウイルスは繁栄するためには当たりくじを1枚引くだけでいい。

 

●ウイルスとの戦いでは、人類は境界を厳重に警備する必要がある。だが、それは国どうしの境界ではない。そうではなくて、人間の世界とウイルスの領域との境界を守る必要があるのだ。地球という惑星には、無数のウイルスがひしめいており、遺伝子変異のせいで、新しいウイルスがひっきりなしに誕生している。このウイルスの領域と人間の世界を隔てている境界線は、ありとあらゆる人間の体内を通っている。もし危険なウイルスが地球上のどこであれ、この境界をどうにかして通り抜けたら、ヒトという種(しゅ)全体が危険にさらされる。

 

●今日、人類が深刻な危機に直面しているのは、新型コロナウイルスのせいばかりではなく、人間どうしの信頼の欠如のせいでもある。感染症を打ち負かすためには、人々は科学の専門家を信頼し、国民は公的機関を信頼し、各国は互いを信頼する必要がある。この数年間、無責任な政治家たちが、科学や公的機関や国際協力に対する信頼を、故意に損なってきた。その結果、今や私たちは、協調的でグロ-バルな対応を奨励し、組織し、資金を出すグロ-バルな指導者が不在の状態で、今回の危機に直面している。

 

今回の危機の現段階では、決定的な戦いは人類そのものの中で起こる。もしこの感染症の大流行が人間の間の不和と不信を募らせるなら、それはこのウイルスにとって最大の勝利となるだろう。人間どうしが争えば、ウイルスは倍増する。対照的に、もしこの大流行からより緊密な国際協力が生じれば、それは新型コロナウイルスに対する勝利だけではなく、将来現れるあらゆる病原体に対しての勝利ともなることだろう。

 

 

(写真は現代の〝知の巨人“と呼ばれるハラリ=インタ-ネットに公開の写真から)

 

 

《追記》~「新型コロナ/ここが政治の分かれ道」

 

 ユヴァル・ノア・ハラリが朝日新聞のインタビューに応じ、最後をこう結んでいる。「我々はそれを防ぐことができます。この危機のさなか、憎しみより連帯を示すのです。強欲に金もうけをするのではなく、寛大に人を助ける。陰謀論を信じ込むのではなく、科学や責任あるメディアへの信頼を高める。それが実現できれば、危機を乗り越えられるだけでなく、その後の世界をよりよいものにすることができるでしょう。我々はいま、その分岐点の手前に立っているのです」(4月15日付「オピニオン」欄)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「新図書館」構想⑰ 図書館とは!?…内田樹の「図書館」原論その2

  • 「新図書館」構想⑰ 図書館とは!?…内田樹の「図書館」原論その2

 

 図書館とは、そこに入ると「敬虔な気持ちになる」場所です。世界は未知に満たされているという事実に圧倒されるための場所です。その点では、キリスト教の礼拝堂やイスラムのモスクや仏教寺院や神道の神社とよく似ています。そういう「聖なる場所」にはときどき人がやってきて、祈りの時間を過ごし、また去ってゆきます。特別な宗教的祭祀がない限り、一日のうちほとんどの時間は無人です。美しく整えられた広い空間が、何にも使われずに無人のまま放置されている。そのことを「空間利用の無駄だ」と思う人がいたら、その人は宗教と無縁の人です。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。


 仮に教会の礼拝堂を、「誰も使わない時間があるのに、何も利用していないのはもったいない」という理由で、カラオケ教室とか、証券会社の資産運用説明会とか、ス-パ-の在庫商品一掃セ-ルとかに時間貸ししたらどうなるでしょう?利用者たちが帰った後に、祈りのために礼拝堂に来た人は「おや、なんだか空気が乱れている」と感じるはずです。絶対に感じるはずです。それくらいのことが感じられないような人が自発的に礼拝堂で神に祈る気になるということはありません。

 この空気の乱れは、端的に「たくさんの人間がそこで祈り以外のことをした」ことによって生じたものです。そういう空気の乱れが鎮まるまでには時間がかかります。たぶん24時間くらいかかる。それくらいその場所を無人にしておかないと、空気の乱れは治まらない。何を根拠にそんなことを断定できるのかと言われても、別に根拠なんかありません。何となく、そんな気がするというだけのことで。

 でも、超越的なもの、外部的なもの、未知のものをある場所に招来するためには、そこをそれだけのために空けておく必要があるということはわかりますよね。天井までぎっしり家具什器が詰まっていて、四六時中人が出入りしている礼拝堂は祈りに向かない。当たり前です。ある範囲の空間内に「何もない」こと、ある範囲の時間内に「何も起きていない」ことがある場所を霊的に「調(ととの)える」ためには必要なんです。そのことは道場を持つとよくわかります。

 僕は自宅の一階を武道の道場にしています。朝早くに道場に降りて行って、そこで短い勤行をするのが僕の日課です。神道の祝詞と般若心経を唱えるのです。そのとき、前日の稽古が終わってから、誰も入らなかった道場の扉を開けると、空気がひんやりとして、空気の粒子が細かくなっているのが感じられます。まれに二日間誰も道場に入らなかったということがあります。そういう時は扉を開く時、ちょっとどきどきします。場がしっかり調っているということがわかるからです。

 武道の道場はお寺の本堂や教会と同じで、超越的なものを招来するための場所です。一種の宗教施設です。ですから、道場空間は調えておく必要がある。場を調えるといっても、別に難しいことではありません。道場は畳が敷いてあるだけの「何もない空間」です。その道場の扉を開ける人間が一日いなければ、何もない空間に、何ごとも起きなかった時間がそれくらい確保されると、場が調う。

 ユダヤ教の過ぎ越しの祭の食事儀礼「セデル」では食卓に一つだけ席が空いています。皿があり、カトラリ-が並べられ、パンもワインも供されています。それはメシアの先駆者である預言者エリアのための席です。彼が来ないことを人々は知っています。過去何千年の間一度も来なかったんですから、帰納法的に推理したら、今年も来ない。そのことはわかっているんです。それでもエリアのために人の来ない食卓を整える。それは「何もない空間・何も起きない時間」が「聖なるもの」を受け入れるために必須の条件だと彼らが知っているからです。

 

 僕は図書館というのも、本質的には超越的なものを招来する「聖なる場所」の一種だと思っています。だから、空間はできるだけ広々としていて、ものが置かれず、照明は明るすぎず、音は静かで、生活感のある臭気がしたりしないことが必要だと思う。低刺激環境であることが必要だと思う。

 たぶんビジネスマインデッドな人たちはそんな話を聞いたら鼻先で笑うことでしょう。必ず笑うと思う。バカじゃないの、そんな無駄なことができるか、って。彼らは、狭い空間を効率的に使って、LEDで照明して、できるだけたくさんの来館者が館内を合理的な動線で移動して、てきぱきと用事を済ませられるような施設が理想だと言うでしょう。そして、配架する書物は回転率の高いものほど好ましいので、貸し出し実績の低い書物は「市場に選好されていない」がゆえに存在理由のない書物のことなのだから、どんどんゴミとして処分した方がいい、と。

 でも、そういう人たちはたぶん書物というものの本質を何もわかっていない。人間が本を読むというのがどういう経験なのか何もわかっていない。というような話をしました。100人ほどの聴衆はほとんどが図書館の職員たちでしたけれど、しんと聴き入っていました。自分でもまさか「図書館には人があまりいない方がいい」というような思いつきの一言で、ここまで話を引っ張るとは思いませんでした(了)

 

 

 

(写真はロサンゼルス中央図書館。1986年、全米最悪の図書館火災で110万冊の蔵書が焼失・損傷した。「人文主義の大聖堂」を夢見た著名な建築家、グッドヒュ-の手になる建造物は火災を免れた=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記》~「上田」図書館と「内田」図書館との雲泥の差!?

 

 「上田」図書館は「たんぼ」という空間にさらなる屋上屋(集合住宅)を重ねようとし、一方の「内田」図書館はその空間を「聖なる場所」としてとらえる。「上」と「内」との攻防戦…なんとも面白い構図ではあるまいか。軍配はもはや、言わずもがなである。かつて、上田東一・花巻市長の先祖は花巻城の修復に尽力し、「造作人士」として名を残した。いまその城跡は落城かくやと思わせる無惨な残骸をさらけ出している。「図書館」とはまさに、“俗”を排除し、”聖”を収蔵する空間であらなければならない。ついでに言うと、「屋上屋…」とは「ムダをすることのたとえ」…

 

 

 

 

 

「新図書館」構想⑯ 図書館とは!?…内田樹の「図書館」原論その1

  • 「新図書館」構想⑯ 図書館とは!?…内田樹の「図書館」原論その1

 

 「例えば、鉛筆が落ちたらその音が響くような図書館という考え方とか、いろいろな考え方があると思いますが、我々はそういう場所も図書館の中に必要だと思いますけれども、場合によってはざわざわしている図書館でもいいのではないかなと思っています」(2月20日開催の記者会見)―。花巻市の上田東一市長のこの「図書館」像こそが“集合住宅附属図書館”という発想の根底にあるのではないか。「そんなものは図書館とは言えない。この空間は静寂を旨とすべし」と主張するのは、フランス文学者で武道家でもある神戸女学院大学名誉教授の内田樹さん(69)である。

 

 花巻市議会が設置した「新花巻図書館整備特別委員会」(伊藤盛幸委員長)の初会合が4月21日に開かれる。当局側がいったん撤回する形になった「新図書館」構想を受け、今後の図書館論議がどのように深められていくかが注目される。内田さんは提言型ニュ-スサイト「BLOGOS」上に「図書館のあるべき姿」についての論考を掲載している。今後の本質的な論議に資すると思うので、2回にわけて転載させていただく。

 

 

 それは公共図書館の司書の方たちの年次総会での講演でした。図書館の役割についてご提言頂きたいということで、お引き受けしたのです。図書館の役割についてですから別にむずかしい話じゃないです。そのときに、九州のある市立図書館のことに触れました。その図書館は民間業者に業務委託したのですが、その業者はまっさきに所蔵されていた貴重な郷土史史料を廃棄して、自分の会社の不良在庫だったゴミのような古書を購入するという許し難い挙に出ました。ところが、そうやって図書館の学術的な雰囲気を傷つけ、館内にカフェを開設するというような「俗化」戦略をとったら、顧客満足度が上がって、来館者数が二倍になった。

 民間委託を進めていた人たちは「ほらみたことか」と手柄顔をしました。図書館の社会的有用性は来館者数とか、貸出図書冊数とか、そういう数値によって考量されるべきだというのは、いかにも市場原理主義者が考えそうな話です。そのときに、ふっと「図書館というのはあまり人が来ない方がいいのだ」という言葉が口を衝いて出てしまいました(ほんとうにふとそう思ったのです)。そう言ってしまってから、「ほんとうにそうだな。どうして図書館は人があまりいない方が『図書館らしい』のか?」と考え出して、それから講演の残り時間はずっとその話をすることになりました。

 図書館の閲覧室にぎっしり人が詰まっていて、玄関の外では長蛇の列が順番待ちをしている・・・というのは図書館を愛用している人たちにとっても、そして、図書館の司書さんたちにとっても、想像してみて、あまりうれしい風景ではないのじゃないかと思います。連日連夜人が押し掛けて、人いきれで蒸し暑い図書館が理想だ・・・という人はとりあえず図書館関係者にはいないと思います。その点で、図書館はふつうの「店舗」とは異質な空間です。だから、来館者数がn倍増えたことは図書館の社会的有用性がn倍になったことであるというよう推論をして怪しまないようなシンプルマインデッドな人たちには正直言って、図書館についてあれこれ言って欲しくない。

 

 僕がこれまで訪れた図書館・図書室の中で今も懐かしく思い出すのは、どれも「ほぼ無人」の風景です。僕以前には一人も手に取った人がいなさそうな古文書をノ-トを取りながら読んでいたときの薄暗く森閑としたパリの国立図書館の閲覧室、やはり古いドキュメントを長い時間読みふけっていたロ-ザンヌの五輪博物館の図書室に差し込む西日、文献を探して何時間も過ごした都立大図書館のひんやりした閉架書庫、僕の研究室があった神戸女学院大学の図書館本館の閲覧室を見下ろす3階のギャラリ-、僕にとって「懐かしい図書館」というのはいずれもほとんど人がいない空間です。たぶん人がいない、静まり返った空間でないと書物がシグナルを送ってくるという不思議な出来事が起きにくいからだと思います。

 ほんとうにそうなんです。本が僕に向かって合図を送ってくるということがある。でも、それはしんと静まった図書館で、書架の間を遊弋(ゆうよく)しているときに限られます。そういうとき、僕は自分がどれくらい物を知らないのかという事実に圧倒されています。どこまでも続く書棚のほとんどすべての書物を僕は読んだことがないからです。この世界に存在する書物の99.99999・・・%を僕はまだ読んだことがない。その事実の前にほとんど呆然自失してしまう。でも、それは別にだから「がっかりする」ということではないんです。僕の知らない世界が、そしてついにそれについて僕が死ぬまで知ることのない世界がそれだけ存在するということに、「世界は広い」という当たり前の事実を前にして、ある種の宗教的な感動を覚えるのです。

 そして、これらの膨大な書物のうちで、僕が生涯に手に取るものは、ほんとうに限定されたものに過ぎないのだということを同時に思い知る。でも、それらの書物は、それだけ「ご縁のある本」だということになります。そう思って、書棚の間を徘徊していると、ふとある書物に手が伸びる。かろうじて著者名には見覚えがあるけれど、どんな人で、どんなことを書いたのか、何も知らない。そういう本に手が伸びる。そして、そういう場合には、高い確率で、そこには僕がまさに知りたかったこと、そのとき僕がぜひとも読みたいと思っていた言葉が書かれている。ほんとうに例外的に高い確率で、そうなんです。

 

 

 僕のこの経験的確信について、人気のない図書館の中をあてもなく歩いた経験のある人の多くは同意してくれると思います。そういうものなんです。人間にはそれくらいのことは分かる能力が具わっている。でも、その能力を活性化するためには、いくつかの条件が必要です。一つは「無人の時間」が確保されていること。できたら一日の半分以上は閉館されていて欲しい。

 もし、365日、24時間開いている図書館が理想だという人がいたら、その人が求めているものは図書館ではありません。それとは別の、おそらくネット上のア-カイブで代用できるものです。いますぐ調べたいことがある、レポ-トを仕上げるために明日までに読まなければならない本がある・・・というような人たちは、蔵書がすべてデジタルデ-タ化されているので、自宅のPCのキ-ボ-ドを叩くだけで必要な情報が取り出せるということになったら二度と図書館には足を向けないでしょう。僕はそういう人たちのことを話しているのではありません。

 

 

 

(写真はライオン像で有名なニュ-ヨ-ク公共図書館。19世紀初頭のボザ-ル様式の傑作で、観光名所としても知られている=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

《追記》~パンデミックを生きる指針(京都大学人文科学研究所、准教授・藤原辰史さん=農業史=からのメッセ-ジ)

 

 「とくにスパニッシュ・インフルエンザ(スペイン風邪)がそうであったように、危機脱出後、この危機を乗り越えたことを手柄にして権力や利益を手に入れようとする輩が増えるだろう。醜い勝利イヴェントが簇生(そうせい)するのは目に見えている。だが、ウイルスに対する『勝利』はそう簡単にできるのだろうか。人類は、農耕と牧畜と定住を始め、都市を建設して以来、ウイルスとは共生していくしかない運命にあるのだから」

 

 「危機の時代は、これまで隠されていた人間の卑しさと日常の危機を顕在化させる。危機以前からコロナウイルスにも匹敵する脅威に、もう嫌になるほどさらされてきた人びとのために、どれほど力を尽くし、パンデミック後も尽くし続ける覚悟があるのか。皆が石を投げる人間に考えもせずに一緒になって石を投げる卑しさを、どこまで抑えることができるのか。これが(「己の行為を未来に委ねる」)というクリオ(の審判)の判断材料にほかならない。『しっぽ』の切り捨て(公文書改ざんに抗議して自死した財務省職員)と責任の押し付けでウイルスを『制圧』したと奢(おごる)る国家は、パンデミック後の世界では、もはや恥ずかしさのあまり崩れ落ちていくだろう」(Web岩波新書「B面の岩波新書」4月2日付)