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「新図書館」構想⑮ ホ-ムレスと図書館…知のインフラ、そして、エイプリルフールの怪

  • 「新図書館」構想⑮ ホ-ムレスと図書館…知のインフラ、そして、エイプリルフールの怪

 

 世紀末的な空気を漂わせるコロナ危機と不毛な図書館論議の末の「新図書館」構想の撤回、さらには行政トップによる“パワハラ”疑惑……。まるで、奈落の果てをさ迷い歩くような「絶望」と「断念」の日々を送る今日この頃―そんな底なし沼に引き込まれそうな気分を少しでも紛らわそうと読みかけの図書館関連の本を開いた。そして、ハッと心づいた。「こうした危機に際しては図書館こそが重要な役割を果たすのではないか」―と。ここ1カ月半余り、迷走する“図書館騒動”に翻弄(ほんろう)され続けてきたが、ちょっとだけ、元気をもらったような気持になった。

 

 ともに「図書館とはどうあるべきか」という根源的な命題に迫る内容で、一冊は増刷を続けている『未来をつくる図書館―ニュ-ヨ-クからの報告』(菅谷明子著)。大きな話題を呼んだ長編ドキュメンタリ-映画「ニュ-ヨ-ク公共図書館」(フレデリック・ワイズマン監督)の活字版である。この映画については、新図書館構想の策定に際し、ぜひ参考にしてほしいと上田東一市長に提言したものの、体よく断られた経緯がある(2月21日付当ブログ参照)。もう一冊は米国史上最悪の図書館火災に見舞われたロサンゼルス中央図書館を扱った『炎の中の図書館―110万冊を焼いた大火』(ス-ザン・オ-リアン著、羽田詩津子訳)である。

 

 図書館の使命を「知のインフラ」と呼ぶ菅谷さんはこう書いている。「市民の活動基盤を形成する基礎的な施設のことをインフラと呼ぶならば、図書館こそ今の日本に最も必要なインフラではないだろうか。…知る権利と知へのアクセスを万人に保証する、図書館の活動をどう拡げていくのか。こうした重い課題に対して、図書館の地道な努力は今後もさらに続く」―。2001年9月11日の同時多発テロ事件…「ニュ-ヨ-カ-の間では、家族、親族、友達、同僚などの安否確認などをはじめ、即座に役立つ情報が必要とされていた。事実、図書館にも様々な問い合わせが殺到しはじめていた。まさに図書館の出番だった」と菅谷さんは記し、当時の図書館長の言葉を以下のように引用している。

 

 「図書館は常に我々の民主主義を守る砦となってきましたが、それが今ほど必要とされていることはありません。自由な考えや情報の交換、そして人々の結びつきは市民社会にとって最も重要なことなのです。こうした価値観が、ニュ-ヨ-ク公共図書館、ひいてはアメリカ中の図書館で、情報の提供や講座の開催などを通じて再確認されているのです」―。東日本大震災の際、ほとんどの沿岸自治体では図書館が流失するなどの壊滅的な被害を受けた。その時の教訓を受け、「((知の)インフラ」としての図書館の再建が今、あちこちで進められている。

 

 図書館にとっての喫緊(きっきん)の課題は「ホ-ムレス」問題だと知って驚いた。『炎の中の…』にこんな一節がある。「ホ-ムレスが歓迎され、コンピュ-タ-やインタ-ネットを使うことができ、(騒ぎを起こさない限りは)一日中いることが許される数少ない場所のひとつが公共図書館だ。現在、図書館は世界中のホ-ムレスにとって事実上のコミュニティセンタ-になっている。どのように、そして、どの程度、ホ-ムレスにサ-ビスするかという問題に悩んでいない図書館はひとつもないだろう」―。撤回されたとはいえ、当市の新図書館構想の貧相さがいやがうえにも浮かび上がってくる。図書館とはもはや「理念」さえも乗り越え、ひとつの「思想」として論じなければならない時期に来ているのかもしれない。

 

 「図書館が燃えた」―。アフリカのセネガルでは、誰かが亡くなることを礼儀正しく表現する時、こう言うのだということをオ-リアンの本から教えられた。記憶とか背負わされた個の歴史とか…人間の全存在が「図書館」そのものだということなのだろうか。そして、合衆国憲法起草者のひとりで、第4代大統領のジェ-ムス・マジソンにちなんで、米国では毎年3月16日を「情報の自由記念日」とされていることを菅谷さんの本で知った。その中に2世紀近くも前のマジソンの言葉が引用されている。

 

 「人民が情報を持たず、情報を入手する手段をもたないような人民の政府は、喜劇か悲劇か、あるいはその両方への序幕でしかない。知識を持つものが無知なものを永遠に支配する。そして、みずからの支配者であろうとするならば、市民は知識が与える力で自らを武装しなければならない」―

 

 当市はコロナウイルスの感染防止のため、3月2日付で市内4図書館の全面休館に踏み切った。現在は土日だけの開放に切り替えたが、「情報発信」の最前線を何のためらいもなく封鎖してしまう行政判断に「集合住宅兼用図書館」という“貧困なる精神”の萌芽が見て取れる。私自身、先住民族とウイルスとの関係やいわゆる“パンデミック文学”などについて学びたいと思って駆けつけたが、門前払いを食らってしまった。図書館とは“思想”そのものであるという認識を関係者には持ってほしいものである。今回のコロナ危機は同時に人間の「根源」を問うてもいると思うからである。

 

 

 

(写真は図書館を“思想”のレベルまで引き上げてくれる2冊の好著)

 

 

 

 

《追記》~エイプリルフールじゃなかった!?マスクの全世帯配布

 

  「アベノミクス」ならぬ「アベノマスク」なる言葉がネット上に飛び交っている。何と「4月1日」のその日、マスク姿のわが宰相が「5千万余りの全世帯に布マスクを2枚ずつ配布する」と発表した。これに要する費用は郵送料を除いて、ざっと200億円とか。「エイプリルフールの冗談でしょう」と思ったが、実は本当の話しだったというのがオチ。”復興”五輪がコロナによって撤退を余儀なくされたのもつかの間、この人は早くも”コロナ戦勝”五輪を目論んでいる。「やってる感」内閣の面目躍如たるものがある。私などはコロナウイルスの前にマスクという簡便な防御さえも忘れていた人類の「敗北感あるいは傲慢(ごうまん)」に打ちのめされる。

 

 3月25日付当ブログで紹介した漫画「寄生獣」は人類の業(ごう)に対するウイルスの反撃を描いた作品である。しかし、あの東日本大震災の際、「(福島原発は)アンダーコントロールされている」とウソをついて五輪を誘致した張本人。コロナ倒産やコロナ自殺がささやかれるいま、この人物のマスク姿こそが世紀末の光景そのものである。永田町劇場で幕開けした”仮面(マスク)舞踏会”の成り行きから目を背けるわけにはいかない。そういえば、安倍晋三首相に先んじて「マスクマン」を演じたのは、当市の上田東一市長だった。いったん外したマスクをふたたび装着し、一緒に”マスクダンス”でも舞い始めるのであろうか。

 

 足を棒にしてマスクを探し求めているけれど、私はまだあり付けていない。「やもめ暮らしだから、2枚を独り占めできる。でも、大家族だったらどうなるのかなぁ」―。マスク宰相の安手の術中に陥らないためにも、今回のコロナ禍はまずは「文明論」として論じなければならない―と言い聞かせている。

 

 

=マスク姿で「やってる感」をアピールする安倍首相(コメント欄参照、インターネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

 

 

上田市長よ、いまこそ、自らの言葉で市民へのメッセ-ジを!…試される「職責」

  • 上田市長よ、いまこそ、自らの言葉で市民へのメッセ-ジを!…試される「職責」

 

花巻市長、上田 東一 殿

 

 連日のコロナ危機への対応に感謝を申し上げます。パンデミック(大流行)の兆しは地球規模に広がりつつあり、一刻の猶予も許されない緊迫の状況が続いています。幸い、現時点で当市への感染拡大は食い止められていますが、この未知のウイルスがいつ侵入してくるのかは誰にも予測できません。市民の安全・安心を守り抜くため、行政トップとしてのさらなる行動を期待します。

 

 ところで、上田市長は3月2日、国の要請にこたえる形で、小中学校などの一斉休校に踏み切り、同時に地域活動の拠点でもある27か所の「振興センタ-」などほぼすべての公共施設についても一斉の休館を断行し、この措置は4月いっぱい続けられることがHP(ホ-ムペ-ジ)で公表されました。「コロナに屈しない」という断固たる決意表明と受け止めるのにやぶさかではありませんが、地域インフラともいえる振興センターや図書館の閉鎖など県内の他の自治体に比べてあまりにも突出した方針に違和感を抱いたのも事実です。この間の政策決定の経緯が不透明だったということもその大きな要因だと考えます。

 

 こうした“自粛”ムードの中で、私たち市民はどのような日常を強いられてきたのか。事情はそれぞれ違うと思うので、その一端を私個人のケ-スに限って紹介する身勝手をお許しください。私はコロナ禍の真っただ中の3月11日(この日はちょうど、東日本大震災9周年に当たりました)に満80歳の誕生日を迎えました。1昨年夏に妻を亡くし、今年1月からコミュニケ-ション不足を補うため、主にシニア世代のイベントが行われる「まなび学園」(生涯学園都市会館)に通い始めました。まさに「80の手習い」である陶芸や童謡を歌うサ-クルに参加、喪失感が少しずつ薄れてきた矢先の休館でした。そして、最初は(3月)19日まで、次いで31日までに延長され、結局、4月末までの約2ケ月の休館となりました。

 

 「緊急事態宣言」の発動が取りざたされる中で「いまは辛抱するしかない」と覚悟を決めていましたが、私が“マスクマン”騒動と呼んだ事態が発生するに及んで、考えが変わりました。上田市長は3月24日、大きなマスク姿で来客対応に当たり、この様子が翌日の地元紙に掲載されました。その時は「さすが、コロナ最前線に立つ指揮官」とある種の共感さえ覚えましたが、3日後の27日の来客対応の際はマスクなしの素顔でした。「マスク着脱の真意は一体、何だったのか。花粉症か風邪症状のため、エチケットとしてマスクを着けたのか。あるいは単なるパフォ-マンスだったのか。分別を欠いたその振る舞いが市民のあらぬ不安をかき立てるとは思わなかったのか」(この間の動きについては25日付当ブログやコメント欄参照)―。写真撮影の際などは逆にマスクを外すのが普通の感覚であるはずなのに、そのいでたちのままで新聞に登場する…何かあなたの“底意”を垣間見た気持ちになりました。

 

 同じ日の夜、NHKの「ニュ-スウオッチ9」に目が吸い寄せられました。ノ-ベル賞受賞者で京都大学IPS細胞研究所長の山中伸弥さんがコロナ危機のインタビュ-に応じる場面でした。マスク姿の桑子真帆アナウンサ-が「時節柄、こんな姿で失礼いたします」と切り出すと、山中さんはこう応じました。「本当はマスクしたほうがいいと思いますが、今日は自分が新型コロナウイルスに対して持っている危機感であったり、いろんな思いをできるだけたくさんの人に感じ取っていただきたいので、あえてマスクをはずしてインタビュ-に臨みます」。私はこの誠実さに胸が熱くなりました。

 

 八方ふさがり状態の男やもめにとって、唯一の救いはスポ-ツジムです。ウォ-キングマシ-ンや各種の筋トレ器具は24時間、稼働しています。インストラクタ-や従業員が総出で殺菌消毒に当たり、換気にも絶えず気を使っています。「やっぱり、利用者はいつもよりは少ない。だから逆に、三密(密室、密集、密接)の心配はないのでは…。家に閉じこもってばかりでは、逆に気持ちが落ち込むだけですもんね」と彼女彼らは笑顔で励ましてくれます。「ひょっとすると、ここが一番の安全地帯なのかもしれない」と私も一日おきのジム通いを欠かしません。山中さんはインタビュ-の中でこうも語っています。

 

 「私たち全員が普段社会に守られて生きている。平和なときには気付かないが、医療、福祉、学校などいろいろなものに守られて研究もできている。今、ウイルスは一人ひとり個人に対する脅威でもあるが、それ以上に社会に対する脅威である。本当に強い危機感を持っている。…日本だけでなく人類がウイルスに試されているというか、うまく対処すれば、やっつけることはできないが、うまくつきあえる。きっと1年後2年後には季節性インフルエンザと同じぐらいのつきあい。季節性インフルエンザよりはもうちょっと高齢者は気を付けたほうがいいねというぐらいの状態に1~2年後にはもっていけると思う。いつまでも続くものではない」―

 

 今回のパンデミックのような世界危機の場合、たとえば「メルケル」演説(26日付当ブログ参照)が訴える指導者(リ-ダ-)の「言葉の力」や山中さんのような専門家の知見が人々をいかに勇気づけるか―という思いを強くしました。そんな折、今度は陶芸の仲間が「長期間の休館でせっかくの粘土が固まってしまうかも。でも、何とかするから」と声をかけてくれました。目頭が熱くなりました。

 

 私もそのひとりですが、市民の多くが品不足のマスクを買い求めて連日、さ迷い歩いています。この切羽詰まった光景と顔を覆いつくすようなあなたのマスク姿を想い比べているうちに、ふいに背筋が凍りつくような言葉が口をつきました。「暗愚魯鈍」(あんぐろどん)―「愚かで鈍く、道理に暗い」とはこのことか、と。つまり、コロナ鬱(うつ)に苦しむ末端市民の実情をどの程度把握したうえで、あなたがコロナ対応に向き合っているかがさっぱり見えてこないのです。最高学府で法律を修めたあなたは当然のことながら、憲法が自治体の裁量権を認めた「地方自治の本旨」についてはご存じのはずです。「危機管理」に際し、最も試されるのはこの原理・原則。あなたの得意技である「現場」を無視した”トップダウン”方式は絶対に避けなければならない鉄則なのです。

 

 上田市長―、あなたがいま、身を置いている市庁舎の執務室は私たち有権者があなたに市政運営を託した場所であることを忘れてないでください。その神聖な場所から、この危機に際しての心のこもったあなたのメッセ-ジを発してほしいと切に願っています。YouTube(ユ-チュ-ブ)でも議会用のインタ-ネット中継で何でも結構です。わが宰相を含め、世界各国の首脳たちがいま、国民に向かって必死の呼びかけを続けています。「新図書館」構想に計上した予算案を撤回するなど、最近のあなたの考え方がさっぱり分からなくなりました。「イ-ハト-ブはなまき」の行く末を担うあなたの真実の声をぜひ、聞かせてください。もちろん、”パワハラ”疑惑についても…

 

 フランスの作家、アルベ-ル・カミュのノ-ベル賞受賞作『ペスト』(1947年)は中世ヨ-ロッパで、人口の3割以上がペスト(黒死病)で死亡したパンデミックを扱った作品です。主人公の医師、リウのこんな言葉が記憶に残っています。「……今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです。一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職責を果たすことだと心得ています」(新潮文庫)―。感染予防を含めた市民の不安を払拭(ふっしょく)することこそがいま、あなたに求められて「職責」なのです。”パフォーマンス”などに憂(う)き身をやつしている暇などあろうはずがありません。

 

 ウイルスとのたたかいを「戦争」や「国難」になぞらえる言説が大手を振って、まかり通っています。この時代の雰囲気にいやな予感を覚えます。3月25付当ブログで触れた“寄生獣”のことを思い出すからです。私は「ウイルスとうまく付き合う」という山中さんの考えに賛同します。『ペスト』は医師であるリウの次のような不気味な言葉で閉じられています。

 

 「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや反古(ほご=書きそこないの紙)のなかに、しんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストがふたたびその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろう」―

 

 

 長々と書き連ねてしまいました。これも「コロナ鬱」のなせる業(わざ)なのかもしれません。こんな形での伝達をご容赦ください。

 

 

 2020年3月30日

 花巻の一市民、増子 義久(花巻市桜町3-57-11)

 

 

 

 

(写真は来客の応対などに利用される執務室兼応接室で、まちづくりのインタビュ-に応じる上田市長=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

コロナウイルス…共感を呼ぶ「メルケル」演説ーそして、足元では”マスク”騒動のお粗末劇

  • コロナウイルス…共感を呼ぶ「メルケル」演説ーそして、足元では”マスク”騒動のお粗末劇

 

 ドイツのメルケル首相は3月18日、異例のテレビ演説で、民主主義の下での国民の結束を訴えた。今回のような「パンデミック」危機に際しては、指導者の「言葉の力」こそが将来へ希望をつなぐメッセ-ジになり得る。場当たり的なわが宰相の発言やマスク越しのくぐもった言葉からはそんな「覚悟」や「品格」のひとかけらも伝わってこない。いまほど、リ-ダ-シップの“言魂”(ことだま)が問われている時期はない。以下に「メルケル」演説の要旨を掲載する。

 

 

 私は今日このような通常とは違った方法で皆様に話しかけています。それは、この状況で連邦首相としての私を、そして連邦政府の同僚たちを何が導いているのかを皆様にお伝えしたいからです。開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治的決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝達することで、理解を得られるようにすることです。
 

 もし、市民の皆さんがこの課題を自分の課題として理解すれば、私たちはこれを乗り越えられると固く信じています。このため次のことを言わせてください。事態は深刻です。あなたも真剣に考えてください。東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、これほど市民による一致団結した行動が重要になるような課題がわが国に降りかかってきたことはありませんでした(中略)

 

 この状況が続く限り、唯一できることは、ウイルスの拡散スピードを緩和し、数か月にわたって引き延ばすことで時間を稼ぐことです。これが私たちのすべての行動の指針です。研究者がクスリとワクチンを開発するための時間です。また、発症した人ができる限りベストな条件で治療を受けられるようにするための時間でもあります。ドイツは素晴らしい医療システムを持っています。もしかしたら世界最高のシステムのひとつかもしれません。そのことが私たちに希望を与えています。

 

 しかし、わが国の病院も、コロナ感染の症状がひどい患者が短期間に多数入院してきたとしたら、完全に許容量を超えてしまうことでしょう。これは統計の抽象的な数字だけの話ではありません。お父さんであり、おじいさんであり、お母さんであり、おばあさんであり、パートナーであり、要するに生きた人たちの話です。そして私たちは、どの命もどの人も重要とする共同体です(中略)

 

 私たちは民主主義社会です。私たちは強制ではなく、知識の共有と協力によって生きています。これは歴史的な課題であり、力を合わせることでしか乗り越えられません。私たちがこの危機を乗り越えられるということには、私はまったく疑いを持っていません。けれども、犠牲者が何人出るのか。どれだけ多くの愛する人たちを亡くすことになるのか。それは大部分私たち自身にかかっています。私たちは今、一致団結して対処できます。現在の制限を受け止め、お互いに協力し合うことができます。

 

 この状況は深刻であり、まだ見通しが立っていません。 それはつまり、一人一人がどれだけきちんと規則を守って実行に移すかということにも事態が左右されるということです。たとえ今まで一度もこのようなことを経験したことがなくても、私たちは、思いやりを持って理性的に行動し、それによって命を救うことを示さなければなりません。それは、一人一人例外なく、つまり私たち全員にかかっているのです。皆様、ご自愛ください、そして愛する人たちを守ってください。ありがとうございました。

 

 

 

(写真はテレビ演説で結束を訴えるメルケル首相=インタ-ネット上に公開の写真から)

 

 

 

 

 

 

《追記-1》~感染拡大…南米・アマゾンにも

 

 コロナウイルスがついに、南米・アマゾンにも上陸したというニュ-スが伝えられている。人類とウイルスとの歴史は古く、自然と共生する生活様式を維持し、感染症への抵抗力が弱かった先住民族の多くを死に追いやった。たとえば、ヨ-ロッパの植民者がもたらした「天然痘」ウイルスによって、米大陸の先住民の95%が死んだという記録も残されている。アイヌ民族も天然痘(疱瘡=ほうそう)を「パヨカカムイ」(病気をまき散らす神)として恐れた。北海道のあちこちに「床丹」という地名があり、アイヌ語表記で「トゥ・コタン」(tu-kotan=消えた・村)を意味する。この地名は天然痘によって全員が死亡し、文字通り「廃村」になったという歴史を刻んでいる。今回の「コロナ禍」は(いわゆる文明人を自称する)人間こそが“寄生獣”(ウイルス)だという事実を図らずも逆照射することにもなった(3月25日付当ブログ参照)

 

 

《追記ー2》~”マスクマン”騒動…3連発の巻

 

 マスクマンの変幻自在ぶりについては、3月25日付ブログのコメント欄を参照願います。

 

 

映画「パラサイト」とコロナウイルス、そして寄生獣、さらには”マスクマン”登場のてんやわんや!?

  • 映画「パラサイト」とコロナウイルス、そして寄生獣、さらには”マスクマン”登場のてんやわんや!?

 

 2020年アカデミ-賞(オスカ-)で、作品賞や監督賞など最多4部門を総なめした韓国映画「パラサイト」(ポン・ジュノ監督、2019年)のサブタイトルは「半地下の家族」である。コロナ危機の影響で図書館や趣味のイベントが行われる公共施設の閉館が続く中、やもめ暮らしの孤独をかこつ身としてはまさに、こうした「コロナ鬱(うつ)」ともいえる“半地下”状態からの脱出こそが喫緊(きっきん)の課題だった。幸いお隣の北上市の映画館で、アジア初の快挙を成しとげたこの映画が上映中と知り、さっそく出かけた。観客はマスク姿の数人だけだったが、頭のもやもやがす~っと晴れていく一方で、何やら迷宮にまよい込んだような不思議な気持ちにさせられた。

 

 「パラサイト」とは本来は医学用語で「寄生虫(生物)」を意味し、ウイルスなども含まれる。この映画は韓国の格差社会に焦点を当てた作品で、北朝鮮の攻撃に備え国の政策として建設された「半地下」(つまり、防空壕)に住まわざるを得なくなった貧困層の家族が、高台の豪邸に住む富豪一家にあの手この手で“寄生”していく様子を悲喜こもごもに描写している。思わぬどんでん返しもあちこちに用意されている。たとえば、豪邸の地下には核攻撃に備えた「シェルタ-」があり、家人の知らないうちにもう一人の「パラサイト」がそこに住みついていることが発覚する。下へ下へと際限なく落ちていく格差社会の闇の深さにおののいてしまうが、サスペンスやコメディもあり、単なる「告発」映画になっていないところがポン監督のすごさである。

 

 そんな想念が突然、時空を飛び越えてあらぬ方向に向かった。敗戦の翌年から半世紀つづいた論壇誌『思想の科学』が廃刊されたのは今から24年前。愛読者だった私はそのいきさつを聞くために創刊者のひとりだった評論家の鶴見俊輔さん(故人)に面会を申し出た。あらかたのインタビュ-が終わった時、鶴見さんが急に話題を変えた。「ところで、すごい漫画を読んだよ。昨日、徹夜をしてな」。当時、大きな反響を呼んでいた漫画「寄生獣」(岩明均作、全10巻)のことだった。さすが博覧強記(はくらんきょうき)な鶴見さんだと思ったが、私自身は作者もその話題作も知らなかった。さっそく、取り寄せて読んでみた。ガツンと頭を一撃されたようなショックを受けた。

 

 ある日突然、宇宙の彼方から正体不明の生物が地球に集団飛来する。その正体は“寄生獣”…鼻や耳などから人間の頭に侵入し、脳全体に“寄生”して全身を支配し、超人的な能力で他の人間を捕食するという性質を持っている。こうして、人間を「宿主」(しゅくしゅ)とする寄生獣(パラサイト=ウイルス)の群団は急速に知識や言葉を獲得し、人間社会に紛れ込んでいく…。主人公である高校生の「新一」も一時乗っ取られそうになるが、脳への侵入は辛うじて食い止められる。しかし、右腕への感染を許してしまった人間・新一と寄生獣との壮絶な闘いが続く。「地球環境を汚染する人間は万物の霊長などではなく、地球を食い物にする“寄生獣”である」という文節が記憶の奥にかすかに残っている。コロナ危機の包囲網が忘却の彼方にかすんでいた記憶のひとかけらを呼び戻したのだろうか。と、つぎの瞬間、もうひとつの光景が目の前に浮かんだ。

 

 日本最大の産炭地だった筑豊―。公文書改ざん問題をめぐって、自殺者まで出しながら、口をへの字に曲げてへらへらと薄笑いを浮かべる麻生太郎・財務大臣兼副総理…この人の先祖「麻生財閥」が経営していた、“圧政ヤマ”として知られた炭鉱長屋の前に長蛇の列ができていた。もう50年近くも前のことである。閉山でヤマを追われた元坑夫たちは食い扶持(ぶじ)を支えるための生活保護の支給を待っていた。窓口には前借金を取り立てる暴力団員が待ち構えていた。花札に興じる男が声を荒げた。「おれたちが真っ黒くなってスミを掘ったから、麻生は肥え太ったんじゃないのか。保護をもらって何が悪いんじゃ」

 

 「持てる者」と「持たざる者」―。この両者はいつの時代でも相関関係にある。どちらかを欠いてもその関係は成立しない。映画「パラサイト」の貧乏一家も、そして圧政ヤマで搾取され続けた元坑夫たちも「持てる者」に対する、絶望的な“復讐劇”を演じたのかもしれない。そう思えてきた。

 

 そしていま、全世界、いや全人類がコロナウイルスの猛威の中で、その生存の基盤さえ奪われかねない瀬戸際に立たされようとしている。世紀末(パンデミック)の予感…。ひょっとしたら、どこか別な惑星から新たな寄生獣の集団が襲いかかっているのかもしれない。人類との全面戦争を企てるために…。「なんて世の中だ、手がふるえる、恐い 命 大切な命 」(3月18日付当ブログ参照)―。自死した財務省職員、赤木俊夫さんの絶命の書が目の前を去来する。地球環境にとっては、人間こそが”寄生獣”だという逆説、そして「最後の審判」の到来という悪夢……脈絡のない想念の嵐が頭の中をぐるぐる、回り始めている。

 

 「コロナ鬱」のなせる大いなる”妄想”に、私は憑(と)りつかれているのだろうか。そうかもしれない。しかし、私たちはいま、理非曲直(りひきょくちょく)を見失った「不分明」(ふぶんみょう)の世界を生かされていることだけは間違いなさそうである。

 

 

 

(写真は半地下生活を強いられるキム一家=インタ-ネット上に公開のパンフレットから)

 

 

 

 

《追記》~「コロナ危機」余話……“マスクマン”の登場(コメント欄に写真掲載)

 

 花巻市の上田東一市長がここ数日来、来客対応や記者会見の場などに目とひたいが見える程度の大型マスク姿で登場。新聞などでその姿を知った市民の間で、様ざまな憶測が飛び交っている。コロナウイルスの感染が隣県の青森や秋田など足元への広がりを見せる中、「わがイ-ハ-ト-ブへの侵入だけは絶対に阻止する。コロナに屈しないで、最後まで陣頭指揮をとる」―というトップにふさわしい決意表明だと賛意を表す市民も多いらしい。その一方で「こんな格好を見せつけられれば、逆に不安をあおるだけではないのか。首相や県知事でも会見などでは素顔。大事を取った予防対策なのか、あるいは本当に体調がすぐれないのか。だとするなら、率先して検査を受けるなり、いっそのことテレワ-クにしたら…」などと体調を気遣う声も。

 

 「公務中にマスクを外さないのは何か体調不良でもあるのではないか」―。実は私も不安を抱いたひとり。担当課に経緯を聞くと、「市長は公人と同時に私人。なぜ、マスクを着用しているのかなど疾患の有無をただすのは個人情報に関わるプライバシ―の問題で、詮索するのは差し控えたい」という“市民目線”が欠落した回答にこっちの方がびっくり。「市民の安心・安全」を守ること、つまり時節柄、市民の不安を取り除くことも首長の大事な使命である。私がこの人の立場なら、胸を張って、こう言うのだが…。「万が一に備え、多くの人たちにマスクの着用を促すため、まず自分がつけることにした。体調は万全ですので、ご心配なく」―。いずれ、市長自らの口からこの”異様な光景”の背景についての説明を待ちたい。

 

 そうではなくても、マスクの在庫不足がささやかれる中、多くの市民は「コロナ鬱」の生活を強いられている。ちなみに、花巻市内の薬局や大手ドラッグストアではマスクの在庫がほとんど底をついた状態になっている。予告なしの入荷を当てにして、開店前から市民たちの長蛇の列ができ、殺気立った空気さえ流れている。まさか、今回の「マスクマン」の出で立ちが自己防衛のための”保身”マスクだとは思いたくないのだが…

 

 

 

 

 

 

「新図書館」構想⑭ 上田流「クソミソ」思考の功罪…無理が通れば、道理が引っ込む

  • 「新図書館」構想⑭ 上田流「クソミソ」思考の功罪…無理が通れば、道理が引っ込む

 

 「全国で3番目」が逆に仇(あだ)になったのではないのか―。上田(東一)「ワンマン」市政の余りにもひどい“暴走”ぶりにため息が絶えない今日この頃である。花巻市は平成28年6月、都市再生特別措置法の一部改正(平成26年8月)で導入された「立地適正化計画」を策定した。現在、全国自治体の9割以上の248市町が策定する中で「全国で3番目、東北では初めて」というのがこの人の自慢げな口癖で、初当選(平成26年)以来の市政運営の主柱になってきた。将来の人口減や高齢化社会に備え、公共施設や商業施設、住宅などを「都市機能誘導区域」と「居住誘導区域」に集約し、コンパクトシティづくりを進めるのがねらいとされた。

 

 財政がひっ迫する中で、国の手厚い支援が受けられる制度を積極的に利用するのは行政トップとしては当然の選択肢である。しかし、こうした優遇措置には立地範囲や完成日時などの“縛り”がつきもので、その辺の兼ね合いが手腕の見せ所になる。上田市長は今回、撤回された「新図書館」構想を公表した際の記者会見でこう述べている。「国の多額の補助金をいただき、これを使って総合花巻病院の移転新築ができた。あるいは中央広場の整備もした。あるいはそういう考え方の中において、コンビニも併設されている災害公営住宅とか、子育て世帯向け地域優良賃貸住宅を国の支援を得ながら造れたわけですけれども、我々としてはこの図書館の複合施設の整備についても、まちなかの活性化に資すると考えております」(1月29日)

 

 「無理が通れば、道理が引っ込む」―。上田市政の主要施策のほとんどが立地適正化計画がらみだったことがこの発言から見て取れる。国の制度融資が有効利用されたケ-スももちろんあるが、“金目”を優先させた結果、ほころびも目立ち始めた。たとえば、その典型が「花巻中央広場」。市中心部のこの一帯は当初の立地適正化計画の中では居住を促す「居住誘導区域」に指定されていた。ところがその後、国交省から「住民の生命に著しい危害が生じる恐れがある」(レッドゾ-ン)と指摘された。急きょ、隣接する急傾斜地に擁壁を設置するなどして「広場」に衣替えし、昨年7月、中心市街地の活性化を旗印にオ-プンした。上田市長は今定例会で「この広場敷地のほか、居住誘導区域内にレッドゾーンが含まれていた個所が全部で7か所あった」―という事実を初めて認めた。当市のケースは”悪質事例”として、全国大手紙で2度にわたって、大きく取り上げられた。

 

 「コロナ」危機が迫りつつあった先月2月21日、市当局は「新型コロナウイルス感染症に関して」と題したチラシを作成し、3月1日付の広報誌に折り込んで全戸配布した。「持病のある方、ご高齢の方はできるだけ人混みの多い場所を避けるなどより一層、注意してください」などと留意事項が書かれていたが、チラシ作成の2日後の2月23日、市所有の公共施設であるこの広場で多くの市民に参加を呼びかける「どでびっくり市・冬の陣」が開かれた(2月29日付当ブログ参照)

 

 その時点で、コロナ危機の認識を持っていたにも関わらず、「負の遺産」ともいえる広場の開放を許可し、人寄せパンダよろしく“盛況”を装った。かと思ったら、今度は一転して公共施設の一斉休館へ。国の”号令”(トップダウン)に右ならえをした、公共施設の全面休館は3月2日から始まり、今月いっぱい続けられている。どうやら市民の健康などはそっちのけで、自分の“失政”を糊塗(こと)すること…つまりウソをつくことには憚(はばか)りがなかったようである。さらに、総合花巻病院の移転・新築にしても当初は病院側からの支援要請があったとの主張一点張りだったが、今となっては立地適正化計画の目玉プロジェクトとして、最初から「行政主導」型の事業だったことが明らかになっている。そして、追い打ちかけたのが今回の「新図書館」構想である。市議会3月定例会の施政方針でこう述べている。

 

 「国は令和2年度、新たに立地適正化計画で定めた都市機能誘導区域内に、都市再生整備計画に基づく都市構造再編集中支援事業により実施される誘導施設及び公共公益施設の整備等について、補助率2分の1という極めて有利な補助制度を設けることとしておりますが、市としては、図書館部分については市が図書館の区分所有権を取得することを前提として、この補助金の交付を受けることを想定しているところです」―

 

 図書館の中身(理念)よりも「箱もの」を先行させようという「クソミソ」思考がここに如実に表れている。このように、上田市政のほとんどの施策のよってきたる淵源(えんげん)は立地適正化計画にあった。私としては「諸悪の根源」とさえ呼びたくなるが、その一方で皮肉な言い方をすれば、この人の市政運営は終始一貫しており、少しもぶれてはいないということにもなる。施政方針にはこんな一節もある。

 

 「ここ数年、全国各地において新しい形態の図書館ができ、話題となっております。多くの図書館は今までの『静まり返った図書館』ではなく、子育ての場所として幼児が寝そべって絵本を読める場であったり、中高生が情報を得たり勉強したり、また自分の居場所を確保できる場であったり、老若男女がそれぞれ交流できる場所であったり、中には飲食自由・私語自由の場所も作ったり、あるいは、カフェはすでに当たり前との意見もあるようですが、それ以外の商業施設、賃貸住宅などとの複合施設も多くなってきています」―

 

 市民が描く「図書館」像と余りにもかけ離れた「上田」図書館の青写真は立地適正化計画の延長線上に位置づけられた当然の帰結だったのである。つまり、クソとミソとを一緒くたにした政策の貧困……「無理」(金目)を押し通した結果、「道理」(行政のあるべき姿)が吹き飛んでしまったという「自縄自縛」(じじょうじばく)のお粗末を満天下にさらしたのである。かつて、このまちの行政を担った人物に「ドーリズム」(道理主義)を掲げた首長がいたことをふと、思い出した。

 

 

 

 

(写真は立地適正化計画に示された新図書館の位置図。撤回された「新花巻図書館複合施設整備事業」構想案から)